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2006年10月27日

浅暮三文『ポケットは犯罪のために 武蔵野クライムストーリー』(講談社ノベルス)

浅暮三文『ポケットは犯罪のために 武蔵野クライムストーリー』(講談社ノベルス)浅暮三文『ポケットは犯罪のために 武蔵野クライムストーリー』を読んだ。

この人の作品はデビュー作『ダブ(エ)ストン街道』からのらりくらりと読んでいる。出る端から買い揃えるほど夢中なわけでもないのだけれど、書店で見掛けるとつい買ってしまう。そもそも同じ作家ばかりを読む性質ではないから、ある意味中毒性のある作風なのかもしれない。

デビュー作がいきなりの超異色ミステリだったこともあって、名前が頭にこびりついてしまったということもある。この人の筆にかかると、至極現実的な設定の小説さえ、否応なくファンタジックな印象を帯びてくる。深刻なはずの話題がそこはかとない滑稽に化ける。

この作品は雑誌で発表済みの6つの短篇に、7つのサイドストーリーを書き下ろしてひとつに繋いだものだ。なかなかに凝った造りの短編集である。この書き下ろし部分と、それに付随するラストの仕掛けこそが、この作品を1冊の本として読む場合の肝となる。

実際、それぞれの短篇だけを読めば連作にさえなっていない。

だからこそ、普通の短篇集として読んでも、それはそれで十分に面白い。意外にも真っ正直な日常の謎系ミステリである。日常といいながら、妙に浮世離れした可笑し味を感じるのは、やはり著者らしい軽妙なセリフ回しや個性的なキャラクターのお陰だろう。

ちょっとした奇妙な出来事に遭遇した市井の人たちが、謎に惹かれるようにして推理を始める。すると、些細なズレの向こう側に、意想外に深刻な人の業が横たわっていたりする。この辺りのバランス感覚が、軽妙ながら空疎にならない所以だろうか。

さらに、ここに描かれる出来事の多くは、実をいうと日常の謎の少し先を行っている。謎は日常の中にあるのだけれど、その真相は必ずしも日常の範疇にない。つまり、事件なのである。日常の中に紛れこんだ事件の断片から非日常的な真相にたどり着く。

いかにも正統のミステリである。

こうした個々のクオリティを踏まえた上での遊びが、今回のノベルス化で追加された仕掛けなのだろう。もしかすると好き嫌いの分かれる趣向かもしれない。それでも、著者のミステリに対する愛着や、旺盛なサービス精神は十分に感じ取ることができる。

浅暮クオリティを知るにはお誂え向きの短篇集だと思う。

2006年10月25日

米澤穂信『愚者のエンドロール』(角川文庫)

米澤穂信『愚者のエンドロール』(角川文庫)米澤穂信『愚者のエンドロール』を読んだ。

これがかなり真面目にミステリしている。印象としては新本格台頭期のミステリに近い。少々マニアックだといってもいい。要するに、登場人物たちがミステリについて少なからず言及するのである。巧いのは、それを不自然に感じさせない設定である。

焦点となるのは、学園祭用のビデオ映画である。内容はもちろんミステリだ。これが未完のまま終わっている。そこで、途中まで撮られた映画を元に脚本の続きを推理しようという話である。これで登場人物たちは堂々とミステリについて語り合うことができる。

ぼくは特にミステリに造詣が深いわけではないから、バークリーだクリスティだといわれても、嬉々として話を合わせられるほどの知識は持ち合わせていない。それでも、ビデオ映画をネタにした推理合戦は十分に楽しめたし、定番のどんでん返しも堂に入ったものだった。

途中、次々に繰り出される推理は、どうにも不確定要素が多く見える。完成された映画の結末にして、その弱さは拭い切れない。けれども、ここで投げ出しちゃいけない。もう少し緻密にいって欲しかったとも思うけれど、ロジックより物語に軸足をおけばこれが正解だろう。

前半の弱さはある種の伏線でもある。

この作品には実は3つほどの階層があって、そこに実に著者らしい屈折が見て取れる。まあ、ある意味での黒幕は最初からさほど隠す様子もなく仄めかされているから、前作『氷菓』を読んでいれば主人公奉太郎を襲うであろう悲劇はある程度予想できるものではある。

彼の青春は運命的にほろ苦い。

こんな書き方をすると、すわ失恋か、なんて思われそうだけれど、当然そんな話ではまったくない。前作を読んでいれば、より一層ビターな味わいを楽しめるはずだ。今回、奉太郎にちょっとした変化が表れる。その心境の変化こそがポイントであり、大きな陥穽なのである。

若いというのは、どこか無様なものだろう。それは、一見達観しているように見える主人公たちにしても同じことだ。この著者はすでにできあがったキャラクターとして彼らを描かない。彼らの忸怩たる思いを描いている点にぼくは激しく共感する。

そして、そんなほろ苦い青春を描くことと、主人公が本来用意された階層を破って推理を進めることとが、物語としてキレイに同期している。謎と物語が乖離せずに語られている。古いいい方をすれば、ミステリで人を描こうとしているのである。

あとは彼らに感情移入できるかどうかの問題だろう。


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米澤穂信『氷菓』(角川文庫)

2006年10月23日

NHK「東海村臨界事故」取材班
『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』(新潮文庫)

NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』(新潮文庫)NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』を読んだ。

タイトルには朽ちていった命とある。実際に描かれるのは、朽ちていくひとりの男性の肉体である。命なんてふわふわとしたものではない。一見健康そうに見える身体がなす術もなく崩れ落ちていく。皮膚はジュクジュクと爛れ、あらゆる臓器が次々と機能不全に陥っていく。

その惨たらしいまでのリアリティが、楔のように脳裏に打ち付けられていく。原発の是非がどうだとか安全管理がどうだとか倫理がどうだとか、そんな話をいくらしても伝わってこない感情や思考がズルズルと引き出されてくる。これを理性的に読むのは難しい。

これがアンチ原発をアジテーションするための本だったなら、かえって気楽に読めたかもしれない。もちろん、これを読んで原発アレルギーに磨きをかける人は出てくるだろう。けれども、この本自体はそうした政治的文脈で読まれることを拒絶しているように見える。

そもそも原発の是非を問うような記述はない。

描かれるのは最先端医療従事者たちの戦いの記録であり、惨憺たる敗北の記録である。中性子線の大量被曝という未知の症例に対して、世界の専門知を動員し得る東大病院の権威をもってしても、なんら有効な治療を施せず、ただただ延命に終始するばかりなのである。

この圧倒的な絶望は、担当医師や看護士らの精神をも蝕もうとする。ほとんど希望の持てない延命措置に疑問や罪悪感を拭い切れない。それほどに目の前の肉体は無残である。それでも最善を尽くそうと自らを鼓舞し続ける彼らの姿は、既に医療の枠を超えている。

医療と呼ぶには凄絶に過ぎる。

彼らの83日間の格闘に果たしてどんな意味があったのか。読み終えてなお、その疑問は消えない。被曝治療の体制整備に乗り出す医師のその後や、関係者たちの心に刻印された闘争の痕跡にも、無力感に対する足掻き以上のものを読み取ることは難しい。

もちろん、再発を防ぐための管理の徹底や医療技術の更なる研究は重要な課題である。そんなことは当然である。中国がついにエネルギー大量消費時代に突入し、世界のエネルギー資源は枯渇に向けてその足取りを速めている。早晩、原子力を頼らざるを得なくなるだろう。

事故を起こさないためのあらゆる手段を講じ、万が一起きた場合は迅速に対処できる体制を整える。それでも、いまだその力を御し切れていない以上、悲劇は繰り返されるかもしれない。そのためにも、被曝治療の研究をうっちゃっておくことはできない。

そうした焦燥は、この本を読めば痛いほどに伝わってくる。そのことの意味をぼくは決して否定しない。ただ、ここに描かれた人間の尊厳をも危うくするような現実は、あらゆる意味でテストケースにも教訓にもなり得ないように思うのである。

人間とは因果な生き物だ。結局はそんな具にもつかない感想しか浮かんでこない。それほどにこの現実は過酷だ。ページを繰るごとに読むのがキツくなってくる。この圧倒的な悲劇から得られる教訓はあまりにも少ない。ただただ人の無力を知るばかりである。

ぼくはここから何を感じ取ればいいのだろうか。

いまだ答えは出ない。

2006年10月20日

森奈津子『シロツメクサ、アカツメクサ』(光文社文庫)

森奈津子『シロツメクサ、アカツメクサ』(光文社文庫)森奈津子『シロツメクサ、アカツメクサ』を読んだ。

どうやら著者は控えめな奇人らしい。本の感想とは思えない書き出しだけれども仕方がない。文庫解説の1ページ目を読んでその印象はより強固になった。普通なら本を買う前に解説を読むのはあまりお勧めしないけれど、この解説の1ページ目は別だ。面白い。

ぼくの場合は『闇電話 異形コレクション』でこの著者の作品を読んでいた。それで名前を見知っていたのと、山本タカトの装画に惹かれたこともあって買ったのだけれど、読んでみるとそのとき収録の作品もちゃんと入っていた。

実をいうと、異形コレクションの収録作を読んだときは特別気に入っていたわけでもない。牡丹灯篭にホムンクルスとは古典的な!くらいにしか思っていなかった。なのにしつこく記憶に焼きついていたのは、ホラーアンソロジーの中にあって唯一笑える作品だったせいである。

「美少女復活」というのがその短篇で、これが明らかに異彩を放っていた。決してホラーらしくなかったわけではない。ただ、キレイな友情モノや人情系ホラーになるような題材を、モテない童貞男とホムンクルスでぶち壊すというハイブローな笑いに彩られていたのである。

それは例えば、楳図かずおや児島都の漫画に見られるような笑いに近いものかもしれない。こうした漫画に親しんでみれば、そもそもギャグと恐怖はかけ離れたものではなく、むしろ紙一重だということが解かる。その意味では、異色のようで実は正統なホラーだったのである。

この『シロツメクサ、アカツメクサ』には、ホラーや幻想寄りの短篇ばかりが集められている。この手のジャンルは、普通読者をのめり込ませでナンボである。にもかかわらず、何故かはまり込むよりは外側から眺めているような印象が強い。醒めているといってもいい。

ここにこそ、この著者の真骨頂があるように思う。

収録作品の幅は広いのだけれど、分かり易い人情話系の幻想ホラーなんかよりも、暗い自意識とエロの話だとか、一見馬鹿馬鹿しいスラップスティックの方が俄然イキイキとして見える。そして、ホラーとしてもそれらの方が完成度が高いように思えるのだ。

一般的に奇妙なもの、おぞましいもの、異常なものをこれでもかと繰り出しながら、でも、それって本当に変なこと?…とふいに読む者を立ち止まらせる。自分の内面の奥底を覗き込ませ、幻想に浸かり切ることを許さない。そんな毒を含んだメタな視線を感じさせる。

ある程度スレた読み手なら、このくらいではあまり驚かないかもしれない。各短篇の中で試みられている多様な仕掛けも、特段目新しいものばかりではないと思う。ただ、これらがすべてではないんだろうと思わせるに十分な個性を読み取ることはできる。

次は『西城秀樹のおかげです』辺りを読んでみようと思う。

2006年10月19日

古川日出男『サウンドトラック』[全2巻](集英社文庫)

古川日出男『サウンドトラック』(集英社文庫)古川日出男『サウンドトラック』を読んだ。

これほどワクワクする小説にはそう出逢えない。

ただ読んでいるだけで、筋肉がピリピリと痙攣し、身体がジリジリと熱を帯びてくる。身体中の血液がドライブする。日本語は加速度的に解体され、独自に再構築されていく。それはすでに、『サウンドトラック』という作品のためにオーダーメイドされた言語といっていい。

ほとんど異種ともいえる異端のキャラクターたちや、ほとんど予定調和ともいえるカタストロフは、読者の期待を裏切らず、けれども、想像を絶する疾走感と共に眼前に立ち現れてくる。それも直線的にではない。無軌道に、鋭角的に、翻弄するように展開する。

決して読み易い日本語ではない。流れをつかむまでは、奇妙な違和感すら覚えるかもしれない。何しろ言葉が走り出すほどに、独特の言語感覚に支配されていく。端正だとか精緻だとかいう言葉とは無縁である。行儀の良い日本語では伝わらない躍動が、確かにそこにある。

言葉を完全に自分のものにしている。

タイトルに反して、主人公たちの世界に音楽はない。物語の始まりと共にそれは奪われ、あるいは抹殺されている。けれども、サウンドトラック・レスの物語は、疾走するサウンドトラックのように身体に直接響き渡る。有無をいわさぬ勢いで侵入してくる。

身体が慣れるまで、もしかすると多少の時が必要かもしれない。けれども、耳を傾ける内に、自然、身体は反応し心は囚われている。そうなると、もう抜け出すことはできない。ズルズルと引き摺られ、次第に自ら駆け出している。

それはまさに読む快楽である。

自分がページを捲っていることも、目でテキストを追っていることも忘れ、ただただ身体中に注がれ続ける音楽に酔う。日常は疾うに後景へと追いやられ、圧倒的なイマジネーションが眼前に立ち現れる。そこでは当たり前のように少年の力と少女のダンスが世界を支配する。

熱帯と化した東京には伝染病が蔓延し、生命力に富んだアジア系外国人たちが次々と街を支配していく。地下にはいつの間にか無数の洞穴が掘られ、本土奪還を目論む原住民たちが勢力を拡大している。そんな近未来の東京が異様なリアリティを持って迫ってくる。

そして、少年と少女が再会する瞬間の、最高の幕引き。

しばし茫然自失し、背中が痙攣するのを止められなかった

2006年10月18日

坂木司『動物園の鳥』(創元推理文庫)

books061018.jpg坂木司『動物園の鳥』を読んだ。

シリーズ3部作の最終巻、最後まで青さの残る作品だった。けれども、このシリーズにおいては、これは全面的に肯定されるべき性質なんだろうと思う。事件はただひたすらに、主人公たちを成長させるためだけに起こり、解決される。

キャラクターの配置があまりに作為的なのも、そこが主人公たちにとってのユートピアだからである。ファンタジーの中で彼らは大切に育てられ、世界へ羽ばたくための準備を調えていく。他者はすべて鳥の飼育係であり、敵に見えるキャラクターでさえちゃんと牙を抜かれている。

彼らの間では、正論が否定されることはない。苦い現実を教科書にはするけれど、それはあくまでも演習である。彼らは常に物語の中で祝福されている。つまり、心からその祝福された生を信じられたとき、彼らはユートピアから脱し、世界の一員となるのである。

このプロセスは実にまっとうで、本来すべての人に用意されるべき世界なんだろうとさえ思える。祝福というのは、つまり自分が生きていることへの無条件の許容である。本来この無条件の許容は他者に依存しない。ところが、自分ではその祝福を信じられない人もいる。

その代表はひきこもりの鳥井よりもむしろ、語り手の坂木である。彼は「鳥井の庇護者」という名の蜘蛛の糸にぶら下がるカンダタだ。他の誰かが新たな庇護者足り得るとき、彼は糸が切れてしまうような不安を感じずにはいられない。

彼の成長のプロセスは実に迂遠だ。鳥井が世界に許容され、世界を許容していく過程を目の当たりにすることで、自らも世界に許容されていることを知るのである。そして、鳥井を温かく見守ってきたように見える幾人もの庇護者たちは、実はそんな坂木の庇護者でもある。

こんな風に関係性が相対的に描かれていることが、このシリーズ最大の美点だとぼくは思っている。守るだけの人間もいなければ、守られるだけの人間もいない。キャラクターたちに一見ステレオタイプなラベルを貼っておきながら、それだけじゃないことをちゃんと見せている。

だからこそ、坂木の成長物語としてこの作品は充実している。

あえて苦言を呈するなら、作者が少々語り過ぎる。ここでは主要な登場人物がみんな作者の腹話術人形になってしまっている。主張がすべてキャラクターたちの台詞として、あるいは主人公坂木のモノローグとして書かれてしまっている。

小説でありながら、描写せずに語る。それはあまり褒められたやり方ではないだろう。だから、この小説は到底「巧い」小説とはいえない。端的に下手だといっても、そう反論はでないはずだ。けれども、拙いことと無価値なことはイクォールではない。

誰もが口にしない青臭く脆弱な正論を、認識を、希望を、躊躇うことなく叩きつけてくる。現実の厳しさ、理不尽さ、おぞましさを描きながら、甘い御伽噺のような解決を用意してみせる。表面的な悪は相対化され、いとも簡単に改心する。

ニヒリスティックないい方をすれば、どこまでも安易な救いは現実を乗り越え得ない。こんなユートピアはこの世に存在しない。けれども、そんな蜘蛛の糸のような希望を、あたかも切れない命綱のように、あくまで無邪気に信じてみせる。肯定してみせる。

それは技巧を越えた価値であり、存在意義だろう。

きっと厳しさを唱えるだけが正解ではない。


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2006年10月16日

高田崇史『QED ventus 御霊将門』(講談社ノベルス)

高田崇史『QED ventus 御霊将門』(講談社ノベルス)高田崇史『QED ventus 御霊将門』を読んだ。

ついにここまできたか、と思う。ここまできたら、もう余計なミステリ的趣向は要らないんじゃなかろうか、とも。何しろ本筋に挟まれて進行するストーカー事件は、正真正銘の蛇足である。トリックにも工夫はまったく見られないし、これを挿入した意図はとことん不明だ。

歴史ミステリなんて呼ばれるジャンルでは、歴史の謎と現在進行形の謎がシンクロして解決に向かう、という形を取ることが多い。そのふたつの要素が緊密に関わりあっていればいるほどラストの衝撃は大きくなる。関連が密であれば、多少の牽強付会はあっても構わない。

もちろん、逆もまた真なりとは限らない。けれども、あまりに無関係だとなんでひとつの物語になってるんだという話になる。このシリーズ最新作は、残念ながら完結したひとつの物語としてはほとんど体を成していないように見えるのである。

元々ventusを冠した作品はシリーズの外伝的扱いなのだろうけれど、今回は本当に将門を巡る歴史探訪以外は何もない。そもそも、著者のファンの多くは、この歴史の講釈を楽しみに読んでいるわけで、これでいいといえばいいのである。

ただ、それなら幕間に挿入される微妙すぎるサスペンスは要らない。ラストもはっきりいって相当に下らない。ありていにいうなら、ただの宣伝である。叙述トリックというのも躊躇われるようなオチの酷さには驚愕を飛び越えて爆笑してしまった。

なので、この作品はただただ将門談義として読むのが正しい。

それ以外の読み方はできないと思っておいた方がいい。その分、そちらの方は俄然読み応えがある。ぼくみたいに荒俣宏の『帝都物語』で初めて「将門=大怨霊」のイメージを植え付けられたような歴史音痴でも、著者の論法に慣れてさえいれば十分に楽しむことができる。

いつもの通り、神社や史跡の類を訪ね歩きながら、とにかく桑原崇が滔々と独り喋り倒す。ヒロインの奈々なんてほとんど喋りもしない。ラスト近くであるキーワードを吐いて、崇に最後の真相を気付かせるためだけに存在しているに過ぎない。

理論展開はシリーズファンにはお馴染みのパターンである。「鬼」ことまつろわぬ人々に視点を据えた歴史解釈は、すでに定番といっていい。史料の出し方も手馴れたものである。大掛かりな仕掛けはないけれど、結論自体はなかなかにエキサイティングなものだ。

そして、「将門≠大怨霊」という非常識は証明される。

これはもう、完全にファンのためだけの作品である。

2006年10月09日

京極夏彦『邪魅の雫』(講談社ノベルス)

京極夏彦『邪魅の雫』(講談社ノベルス)京極夏彦『邪魅の雫』を読んだ。

今回、物語の中心にいるのは榎木津だ。

だから、彼はこれまでのような神の振る舞いをほとんど封印されている。彼は中心でありながら、活躍はしない。できない。活躍するのは下僕たちであり、捜査員たちであり、民間人たちである。そして最後に、てんでバラバラな彼らの活躍を共通認識の上に置き直す。

もちろん、黒衣の男の仕事である。

けれども、この中禅寺もまた、今回はあまり出番がない。何しろ、どの事件もいかにも普通だ。そういう事件ばかりをあえて扱っている。しかも、定番の妖怪談義が一切ない。薀蓄を傾ける場面がないのである。語るといえば著者自身の思想を断片的に代弁する程度である。

前作『陰摩羅鬼の瑕』では、個人が生きる世界はあくまでも個人的なものだ、というようなテーマを、それまでのシリーズパターンを敢えて踏襲せず、よりテーマに適した形で提示したものだったと、ぼくは理解している。今回は、そうした個人的世界のズレを、従来のシリーズパターンに戻して、しかもより一般化した形で描いている。

その意味では、前作の延長にある話だと見ることもできる。

前作はひとりの純粋培養された奇人の世界と、いわゆる「普通」の世界とのズレが、かなり単純な図式で描かれていた。そのあまりの分かりやすさに物足りなさを感じたファンも多かったと思う。その点、『邪魅の雫』はそうした人たちには嬉しい展開になっている。

また、前作でほとんど棚上げにされていた普通というものの脆さが存分に描かれてもいる。他人と世界を共有しているという思い込みを、見事に粉砕するようなキャラクターがわらわらと登場する。特に内的世界の比重が大きすぎる人間の、歪んだ主観描写には貫禄すら感じる。

前作でも伯爵は決して特殊なわけではないという理解は促されていたけれど、今回はそれがより具体的な形で明示されている。要するに、この世は伯爵ばかりなんだ、とそういっている。酷く偏った主観を生きているように見える彼らは、つまりぼくたちの姿である。

だから、多視点で描かれる事件は一見錯綜しているし、シリーズらしさ満開のややこしさなんだけれども、実のところ謎らしい謎はないともいえる。であれば、中禅寺は謎を解くのではない。色々な言語で語られた事件を共通の言葉で騙り直してみせるだけである。

そこでは個人の世界は、まるで外の世界とリンクしていない。個人世界の大事件は世界に何の影響も及ぼさない。大きな力などどこにもなく、各々は陳腐で非力な大海原の一滴に過ぎない。思春期の少年の決断が世界を救ったり、少女の恋愛が世界を滅ぼしたりは決してしない。

これは至極意図的な反セカイ系小説であるらしい。

2006年10月02日

野中柊『参加型猫』(角川文庫)

野中柊『参加型猫』(角川文庫)野中柊『参加型猫』を読んだ。

世間に猫好きのなんと多いことか。日々愛猫写真を載せ続けるブログは世に溢れているし、猫写真を発表し合うコミュニティはあちこちで好評を博している。『参加型猫』とはうまいタイトルをつけたものである。癪だけれども、つい手に取ってしまった。分かりやすい。

そんな人にとって、当の参加型猫であるチビコは、ちゃんと期待を裏切らないだけの魅力を持っている。猫を飼った経験があれば共感できる描写も多いだろう。この辺りの書きぶりは巧い。内容如何に関わらず、チビコの存在をもって合格とする読者さえいるかもしれない。

ともあれ、猫というのは可愛いだけの生き物ではない。

猫と人間の関係というのは、なんとも不安定な印象がある。どうも猫は人に飼われながらも、自分の世界に生きているように見える。寒くなると暖を求めて擦り寄ってきたり、同じベッドで寝てみたりするけれど、その小さな頭の中が何で満たされているのかは知る由もない。

猫が持つそうしたイメージは、そのままこの小説のイメージに通じる。チビコの飼い主である若い夫婦は、ほのぼのと日々を送っている。引越しという少し特別な日常が描かれるとき、参加型猫というのはチビコにだけ冠された称号ではないのかもしれないと気付かされる。

たとえばそんな飼い主と猫の関係は、そのまま勘吉と佐可奈の関係を思わせる。勘吉の一人称で描かれるふたりの今は、佐可奈が勘吉の人生に参加することで成立しているように見える。佐可奈の頭の中は勘吉とは共有されない沢山のもので満たされているのかもしれない。

こうした普段は意識しない、あるいは意識下に閉じ込めてあるような漠とした不安は、たぶん一方的なものではない。もし主観を佐可奈に移すなら、やはり同じように勘吉は自分の人生への奇跡的な参加者と映るはずである。そこに陳腐な力関係みたいなものはない。

他者を受け入れるとはそういうことだろう。

猫が寝心地の好い場所を求めて常に居場所を移すように、人も自分の居場所をその時々で選び取っていく。そこに絶対なんてものはない。これは何も具体的な場所に限った話ではない。寒いときにもぐりこむ懐や、帰るべき家庭すらそこには含まれているのである。

だから、この作品を読むとほのぼのとしながらも少し不安になる。

ここには今しかない。過去も未来も漠として掴みどころがない。確信も保証もない今を、ただ肯定して生きるしかない。いかにも儚く、刹那的である。そして、そうした根源的な不安定さを、彼ら自身が自覚している。今というのはいつだって限定的な仮の宿に過ぎない。

環境に合わせて居を移すように、心も居場所を変えていく。それは生きている以上当たり前のことだ。時を過ごすということは、変わるということである。ならば、きっと過去や未来で自分を縛ることに意味なんてないのだろう。変化に対して人はどこまでも無力だ。

今を大切にするというのは、実は少し寂しい選択なのかもしれない。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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