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2005年04月22日

日明恩『それでも、警官は微笑う』(講談社ノベルス)

日明恩『それでも、警官は微笑う』(講談社ノベルス)日明恩『それでも、警官は微笑う』を読んだ。

このブログでも何度か取り上げている「メフィスト賞」受賞作だ。すなわち、これがデビュー作ということになる。ちなみに著者の名前は「たちもりめぐみ」と読む。姓も名も難しい。

タイトルにもある通り、これは警察小説だ。

ミステリ的な分類ではハードボイルドに近いように思う。謎解き主体の作品ではない。なので、本格寄りの小説が苦手な人でも問題なく楽しめる。新書のカバー折り返し部分に「頑張る警官の物語です」とある。実にその通りの話だった。

福井晴敏といい、日明恩といい、近頃こういう暑苦しい男たちのニーズが高まっているのかもしれない。

厳つくて不器用で真直ぐで頑固な上に滅法頑丈な巡査部長と、ボンボンで優男で記憶力だけは異常に良い矢鱈饒舌な年下の警部補。絵に描いたような取り合わせを字で書いている。この一見コミカルなふたりをツートップに据えながら、話は骨太、甘くない。

頑張る意味や挫けない意志を描いたエンターテイメント小説ながら、単純な勧善懲悪や努力は報われる式の展開を殆ど否定しているところがいい。それでいて、清清しい読後感を残す。巧いと思う。

この凸凹コンビ、どうやらシリーズものらしい。単行本は買い控え中の身なれば、ノベルス化されるのを待って読んでみようと思う。処女作でここまで書ける作家なら、期待してもいいはずだ。

2005年04月15日

小川洋子『薬指の標本』(新潮文庫)

小川洋子『薬指の標本』(新潮文庫)小川洋子『薬指の標本』を読んだ。

この本には、表題作と「六角形の小部屋」という2篇が収められている。共通しているのは、非日常を生業とする人たちが描かれていること。「薬指の標本」の標本室、「六角形の小部屋」の語り小部屋、どちらも人の心を扱うところが良く似ている。宣伝もせず、看板も出さず、普通は見つけられないような立地にもかかわらず、それが必要な人にはちゃんと見つけられるという、どこか都市伝説めいた設定もいい。

「薬指の標本」で描かれる恋愛を綺麗だと感じるか、グロテスクだと感じるかは、読み手の感性によるところが大きいと思う。それこそ嶽本野ばらのいう「乙女」が憧れる恋愛の形かもしれないと思うと、耽美小説のような気さえする。

依頼されればどんなものでも標本にするという標本技術士。元女子専用アパートだったという古式床しい建物。アパート時代から住みついているふたりの老女。和文タイプに活字盤。贈られた黒の革靴。保管されているたくさんの標本たち。

こうした道具立てのなかで、主人公の女の子、「わたし」の初めての恋愛が描かれる。それは淡々として一途な感情だ。一見、標本技術士の行動は理不尽で、「わたし」の決断は盲目的に見える。けれども、それは余りに一面的なものの見方だろう。それは「わたし」の言葉をきけば解かる。

この靴をはいたまま、彼に封じ込められていたいんです。

帯にも引用されている一文だ。これだけだとやっぱり受動的な印象が強い。けれども、最後までちゃんと読めば、この言葉がいかに能動的な意味を持っているかが分かる。

だからこそ、ぼくはこの話を綺麗だと思う。

純愛は狂気に近いなんて喩えは陳腐なものだし、それをただ異形の愛として面白おかしくに扱ったのでは物語として底が知れている。「薬指の標本」は全然違う。異常性や意外性を売らず、かといってありふれた恋愛小説でもない。

予想通りのラストなのにとても印象的で胸が騒ぐ。

なかなかできることじゃない。いい本を見つけたと思う。

2005年04月13日

原田宗典『十七歳だった!』(集英社文庫)

原田宗典『十七歳だった!』(集英社文庫)原田宗典『十七歳だった!』を読んだ。

サクっと読めてププっと笑える本が読みたくなってこれを選んだ。実に今更な選択だ。著名も著名、超人気作家の定番エッセイなのだから、知っていながら今まで読んでいなかったことの方が問題だ。

原田宗典は小説は勿論、エッセイの評判がすこぶる高い。

なるほど、人に優しい文章だ。いかにも平易で気軽な言葉が使われている。お陰で人の馬鹿話にフンフンと聞き入っているような感覚で読める。これは明らかに小説の文体ではない。けれども、くだけた言葉をふんだんに使いながら、文章自体はとても端整。流石はプロの人気作家だと思う。いや、たとえプロでもエッセイが巧いとは限らないだろう。これはこれでまた別の才能なのかもしれない。だとすれば、ずいぶんと器用な作家だ。

こういう著作を読むと、ぼくも読みやすくて楽しいブログを、なんて思ったりする。けれども、書いてみてガッカリ。実に分不相応だったと肩を落とすことになる。好きと上手は比例しないものだ。

素人は素人らしく自分日記でいいじゃないか。高望みはすまい。結局そんなところに落ち着く。

原田宗典が手本ではハードルが高過ぎた。

2005年04月12日

ジャック・ケッチャム『オフシーズン』(扶桑社ミステリー)

ジャック・ケッチャム『オフシーズン』(扶桑社ミステリー)ジャック・ケッチャム『オフシーズン』を読んだ。

ケッチャムの名前を聞いただけで著作のタイトルが浮かぶような人は、とんだ物好きに違いない。最初に断っておくけれど、ぼくはこの本を人に薦めたりするつもりはない。親切が仇となって正気を疑われたのでは割に合わないからだ。

例えばリチャード・レイモンに友成純一。二人の名前と作風に心当たりのある人なら、ケッチャムを避けて通ることは許されない。いや、ぼくなんかが喧伝するまでもなく読んでいて当然だろう。たとえ今は知らずとも、自然に巡り合う日がきっとくる。当然のようにくる。彼はその手の人が素通りできる作家ではない。

タネを明かせば、彼らはみんな狂気のスプラッタ作家なのだ。

うむ。それでなくても人に優しくないブログだというのに、益々閑古鳥を鳴かせるようなことを書いてしまった。弁解するわけではないけれど、そもそもぼくはラブストーリーに涙し、コメディに腹を抱え、ヒューマンドラマに心振るわせる至極真っ当な一般庶民だ。ただ、血塗れスプラッタにも理解を示す太っ腹な感性の持ち主なだけで。

ああ、思わず自画自賛してしまった。

それはともかくとして、だ。とにかく、ケッチャムは最高にオフビートかつスプラッタな作風で、最悪の読後感を約束する稀有な作家のひとりなのだ。

彼は70年代に噴出したスプラッタムーヴィーやモンドムーヴィーのエッセンスを思う様その作品に注ぎ込み、人間性の他愛のなさを容赦なく白日のもとに晒し首にして見せる。性と死。エロとグロは常にセットと相場は決まっているけれど、ケッチャム作品においてはセクシー描写なんて欠片も頭に残らない。それこそお約束という名の形式美でしかない。そういう意味では安心して楽しめるジャンル小説ともいえる。

万一この記事を読んでケッチャムに手を出そうなんて物好きがいるといけないので、老婆心ながら忠告しておく。この作家に限っては想像力を逞しくし過ぎちゃいけない。特にこのジャンルに不慣れな人は、しっかりと感覚に蓋をして、恐る恐る覗き見るくらいから始めた方がいい。ただし、そこまでしてケッチャムにチャレンジし、結果、深刻なダメージを精神に負ったとしても、ぼくは何ら責任を持てない。

もう一度書いておく。ぼくはこの本を人に薦めたりはしない。

しないけれども、例えば“スナッフ”“悪魔のいけにえ”“食人族”“オールナイトロング”といった玉石混淆の映画たちを、旺盛な怖いもの見たさに突き動かされて貪るように観た経験がある人には、とりあえず、『隣の家の少女』をお薦めしておく。

読み終えて、つくづく最悪な作家だと思い知るはずだ。

2005年04月07日

重松清『流星ワゴン』(講談社文庫)

books050407.jpg重松清『流星ワゴン』を読んだ。

初めての重松本。坪田譲治文学賞、山本周五郎賞、直木賞受賞と、とにかく大活躍の人気作家だ。もちろん名前は知っていた。ただし本当に名前だけで、どんな作風なのか、ジャンルはどっち方面なのか、そんなことさえ全く知らなかった。だから、この本を手に取ったのも評判を聞いてというわけではない。たまたま駅前の書店で平置きのタイトルに惹かれた。本当にそれだけの理由だった。あまり時間もなかった。解説もあらすじも、帯の惹句すら読まずに買った。

内容について真っ白な状態で読む。

これ、案外珍しいことかもしれない。実際のところ、前評判を聞いて、ついでにさわりくらいは知ってしまってから読むことが圧倒的に多いように思う。今回これほど何も知らずに読めたのは幸運だった。

などと書きながら、以下内容に触れる。核心に触れるつもりはないけれど、未読の人は自分なりの感想を持ってから読んでもらった方がいいかもしれない。

この本の主題は父子の関係と人生のやり直しについてだ。アイデアとしてはタイムスリップものがベースになっている。

タイムスリップとやり直し。

この“バック・トゥ・ザ・フューチャー”的な組み合わせに先入観を持ってはいけない。そこにはすこぶる厳しいルールが設定されている。

ここにこの本の核心とオリジナリティがある。

そして、その「意味」を知るために登場人物たちは悩み苦しみながら前に進もうとするし、ぼくたち読者も一緒になってその「意味」を考えながら読み進むことになる。

決して甘くない現実を描く過程は容赦ない。

読んでいて気が滅入るほどだ。ぼくはその辛さをまるで主人公と共に乗り越えていくような気持ちで読んだ。だからこそ、最後に示される可能性が、希望と呼べそうなものだったことに、心底救われた気がした。そんな風に読ませるなんて生半のことではないと思う。

ぼくにはまだ妻も子もない。それでもこれだけ感情を持っていかれるのだから、主人公と同じような境遇なら尚更だろう。

遠く実家には父があり、自宅には妻と息子がいる。

そんな人は四の五のいわず読む。とにかく必読だ。

2005年04月05日

松本仁一『カラシニコフ』(朝日新聞社)

松本仁一『カラシニコフ』(朝日新聞社)松本仁一『カラシニコフ』を読んだ。

朝日新聞の連載記事を書籍化したルポルタージュだ。と書いた途端拒否反応を示す人がいるかもしれない。もし「朝日」に反応したのなら、とりあえず、掲載媒体については忘れて欲しい。

予想以上の良本。一読の価値はあると思う。

カラシニコフ。もちろん人の名前だ。そして、「1947年式カラシニコフ自動小銃(通称AK47)」とその亜種を指す言葉でもある。

AK銃を中心に据えて見たアフリカ各国の現状。これを読むと、人間は根本的なところでダメなんじゃないかと思ってしまう。虐げられ貧困に喘ぐ人々が武力決起し、新政府を樹立する。そして、新政府は利権を独占し、共に苦しんだ同朋を救いはしない。虐げる側に回るだけだ。

著者は国家の要を「治安」と「教育」に求める。

治安というのは結局のところ武力の管理のことだ。冷戦時の政治的思惑から大量にアフリカに流れ込んだAKは、管理とは程遠い状態にあるという。そして、貧困と闘争のスパイラルが銃の回収を妨げる。
教育というのは未来の国力を培うことだ。教育がなければ国際社会で生きていくすべを知る国民は育たない。国際社会に参加し外貨を稼げなければ、経済が支配する今の世の中で国家として栄えることはない。貧困は続く。

さらに厄介なことに正義さえ必ずしも幸福を生まない。

たとえばカースト制。少なくともぼくは、これをかなり否定的なニュアンスで教わった記憶がある。すぐにでも撤廃すべき身分差別として。確かに差別なんて忌むべき習慣だろう。それは間違いない。そして、いまや正義は行われた。けれども、結果は閉じ込められていた貧困が国中に溢れ出し、犯罪と混乱が噴出しただけだった。

無策は罪と知れということか。

現実は思うに任せない。その事実を淡々と見せ付けられる。けれども、全く希望がないわけではない。民間の意思と力で銃の制圧と管理を成功させた人たちがいる。さまざまな幸運が手伝っての成功かもしれない。まだまだ最初の一歩を踏み出したばかりとも言える。けれども、吟味すべき例であることは間違いないだろう。

この本を読むと、とにかく考え込んでしまうような現実を、次から次へと思い知らされることになる。AKの功罪とともに、設計者ミハイル・カラシニコフとの会見の様子が書かれるなど、視線が比較的フェアなところにも好感が持てる。

加害者は誰で被害者は誰なのか。もちろん明確な答えなどない。けれども、たまには答えがないことを真剣に考えてみることも大事かもしれない。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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