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2006年09月29日

小峰元『アルキメデスは手を汚さない』(講談社文庫)

小峰元『アルキメデスは手を汚さない』(講談社文庫)小峰元『アルキメデスは手を汚さない』を読んだ。

第19回江戸川乱歩賞受賞作品だというから結構古い。調べてみると1973年の受賞である。これが新刊書店に並んでいた。今をトキメク人気作家、東野圭吾の推薦文を纏っての復刊である。装丁も多分に今風で、平台にのっていれば手に取られる可能性は低くないだろう。

乱歩賞というのは、エンターテイメント面でのハードルがとても高い賞だと思う。だから、受賞作はリーダビリティの高いものが多い。読書家ではなかった東野圭吾が、高校のとき初めてちゃんと最期まで読んだ小説だったというのも分かる気がする。

今でこそ、学園モノのミステリというのは、ひとつの定番である。どうやら、その祖形がこの作品辺りにあるらしい。若者の生態やら青春やら世代間の隔絶やらをミステリの中でイキイキと描いてみせる。当時としては、エポックメイキングだったようだ。

ここに描かれる高校生に今の感覚で共感するのは難しいかもしれない。その意味で尻の据わりは悪い。彼らが当時の空気を上手く体現し得ているのかどうかは、ぼくには分からない。ただ、大人との関係性の断絶や不遜で浅薄な子供の理論は、今もそう変わらないものだと思う。

変わったと思うのは、まだ理屈が彼らを動員可能だったという事実である。彼らには同志という形での価値観の共有がいまだ可能だった。たとえそれが幻想だったとしても、少なくとも主観的には信じられていたらしい。これはぼくたちの世代にはなかった感覚だと思う。

だから、ぼくたちにとっていわゆる全共闘の歴史が共感不可能であるのと同じ理由で、彼らの行動原理には共感できない。もちろん、共感不可能であることは、即作品を愉しめないことに繋がるわけではない。むしろ、そうした幻想の共闘は題材として魅力的ですらある。

実のところ、全共闘が統制を欠いた有象無象でしかなかったように、主人公たちとて一枚岩ではあり得ない。それぞれがそれぞれの思惑で集まり、行動しているに過ぎない。にも関わらず、彼らには大義名分がある。そこに時代性を見てしまうのである。

実のところ、ミステリとしての新しさは当時としてもすでになかったようだし、順当に明らかになっていく真実に意外性はない。醍醐味はむしろ、捜査する側の大人が絶望的なディスコミュニケーションの中で、理解できないまま真実に歩み寄っていく過程の方だろう。

ここに、いまだ古びない面白さがある。

2006年09月25日

宮台真司・宮崎哲弥『ニッポン問題―M2:2』(朝日文庫)

宮台真司・宮崎哲弥『ニッポン問題―M2:2』(朝日文庫)宮台真司・宮崎哲弥『ニッポン問題―M2:2』を読んだ。

前作『M2 われらの時代に』に続く対論集第2弾である。とにかく凄い。半分くらいは何をいっているのか分からない。なのに面白い。熱いリベラリスト宮台とニヒリスティックなコミュニタリアン宮崎という妙なキャラ設定も読み物として愉しい。

そして、ふたりの共通した態度として、イマドキの論壇をケチョンケチョンに扱き下ろし盛大に挑発するという、多分に意識的な言動もすこぶるエンターテイメントしている。お陰で、これだけ読者に教養と知識を要求しておきながら、面白い時事評論としてサックリ読める。

そんなわけだから、サックリ読めるのは読めるのだけれど、社会学を中心とした古典に造詣がないと相当部分を読み落とす。過去の学問的遺産をフルに活用した、基本に忠実かつ正統的な論理展開で時事を語っているのに、そのありがたみが分からない。

掲げられるお題はイチイチ身近な問題ばかりだ。

だから、とっつきやすいことは間違いない。天皇問題だとか小泉政権だとか学力低下だとかサブカル周辺にまで話題は及ぶ。基本的に宮台節に宮崎哲弥がのっかっていくような展開が多いこともあって、下手に議論が錯綜しないのも救いだろう。

補助線くらいの意味しかないとはいえ、註がふんだんに挿入されているのも多少の助けにはなる。もちろん、最終的にはそこから原典にあたるくらいの気概がないと十全に理解することはできない。とはいえ、エッセンスを感じ取りつつ愉しむ分には十分な作りかもしれない。

徹底して論理的に思考し、ドン詰まりまで絶望する。

世間や社会のレベルで語られるヌルい自己や絶望を全否定し、社会を突き抜けた先の世界を感得せよと説く展開は、少し前に読んだ『サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル』にも共通する思想だ。その他の話題でも不徹底のヌルさを糾弾するシーンは多い。

徹底した閉塞と絶望について語られる段で、古谷実の漫画『ヒミズ』が取り上げられていたのは印象的だった。連載時にはつまむ程度にしか読んでいなかったのだけれど、こうなると読みたくなってしまう。漫画なら丸山眞男よりはとっつき易い。

いずれにしても、ふたりがいかに広範な知識をもってそれを商売にしているかが分かる1冊だった。勉強に無限の時間を割ける学生ででもない限り、今更すべてを勉強するのは難しい。ただ、興味の扉は無数に開かれている。巻末には読書案内なんて心憎いオマケまで付いている。

脳味噌に刺激を与えるには恰好の本である。

2006年09月24日

篠田真由美『唯一の神の御名―龍の黙示録』(祥伝社文庫)

篠田真由美『唯一の神の御名―龍の黙示録』(祥伝社文庫)篠田真由美『唯一の神の御名―龍の黙示録』を読んだ。

シリーズモノの第3弾である。不死の主人公を生かして、遥かな過去を昔語りする趣向は、前2作よりも自由な物語的広がりを感じさせて面白い。シリーズが文庫化される都度読んでいながら、実は手放しで楽しめないでいたぼくとしては、今までで一番楽しめた1冊でもある。

前作が『東日流外三郡誌』という一種の偽史をモティーフにしていたように、今作ではゾロアスター教伝来説が取り入れられている。これは飛鳥時代の日本にゾロアスター教が流入していたというもので、松本清張が『火の路』でぶち上げた奇想が元になっている。

どちらも学術的には一顧だにされていない史料、仮説である。それだけに魅力的な伝奇的題材となり得る。少し前に講談社文庫から新装版が出た高橋克彦『竜の柩』なんかは、『東日流外三郡誌』をはじめとした偽書や偽史と呼ばれるものを効果的に取り入れた傑作だと思う。

そうしたトンデモ系伝奇の系譜を期待して龍の黙示録シリーズを読むと、これは完全に肩透かしを食らう。この手の史料、仮説はあくまでも物語に供されるモティーフとして利用されるだけで、そのものについて考察がなされるわけではない。

なので、拝火教といった字面からこれがゾロアスター教のことだと分からなくても、善悪二元論的世界の両極、善神アフラ・マズダや暗黒神アンラ・マンユを著者の完全な創作だと思って読んだとしても、作品の面白さが減ずる心配はまったくない。

かように宗教色の濃いシリーズではあるけれど、これは、愚かな人間が運用する宗教なんかに人を救うことはできない、という否定的な宗教観に彩られた作品でもある。必然的に、愚かなる歴史の再確認といった色を帯びることになる。テーマは重い。

高邁な精神の持ち主ほど無念の最期を余儀なくされてきた歴史を、不死の吸血鬼が自らの苦悩と共に語る。納得のいく組み合わせである。現代を舞台にした前2作より外伝的な今作の方が面白いのは、テーマとキャラクター特性の相性が俄然良いからだろうと思う。

なんといっても、このテーマ性こそが作品の命である。もちろん、ぼくにとって、という注意書きは必要かもしれない。これが薄れると、ただのお耽美になってしまう。正直いって、典型的に耽美系なキャラクター造形は食傷モノだし、描写にだって味も何もあったものじゃない。

戦略的なキャラ設定なのかもしれないけれど、ちょっとばかりアカラサマにすぎる。ネットの流行り言葉でいうなら「腐女子」向けに最適化されすぎだ。ロリとショタとメイド属性をあわせもつサブキャラに到っては、出てくるたびに恥ずかしい思いをする。

今後ただのお耽美吸血鬼小説にならないことを願って止まない。

2006年09月15日

宮台真司・速水由紀子『サイファ 覚醒せよ!―世界の新解読バイブル』(ちくま文庫)

宮台真司・速水由紀子『サイファ 覚醒せよ!―世界の新解読バイブル』(ちくま文庫)宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル』を読んだ。

久々に無駄に理屈っぽい宮台節を読みたくなった。いや、無駄にというのは言葉の綾である。たぶん、彼の理屈に無駄はない。むしろ、こちらが勉強していないと分からないくらいである。彼の発言は聞き手にそれなりの基礎知識を要求する。その、それなり、がぼくには厳しい。

そんな訳で、ぼくは宮台本が好きだけれども、彼のいっていることは実はあまり良く分からない。いや、いわんとするところは文脈を辿れば理解できる。ただ、憑拠となっている言論やら事実やらについて知識がないから、証明の筋道が理解不能だったりするのである。

それでも、評論だろうが学問だろうが、ぼくにとってはエンターテイメントの一形態でしかない。小説を読むときにイチイチ知らない単語や成語や比喩や引用を調べたりしないように、こうした本を読んでいても、分からない言葉は独自に解釈するか放っておく。

だから、きっとぼくはミヤダイズムを正しくは理解していない。

そうして読み終えた感想は、なるほど、と、そりゃあそうだ、である。納得したのは、社会的な自分だけでは不安定に過ぎるという指摘と目指すべき方向性。いまさらに思えたのは、社会の外側としての世界を視野に入れたとき全ては未規定性を帯びるという視点だ。

本書の体裁は、対話の形を取っている。宮台真司が持論の開陳やら事象の解説やら学術的歴史的裏付けやらを担当し、速水由紀子はただただいいたいことをいい募るという役である。一見速水がバカに見えるけれど、実は舵取りとして悪くない働きをしている。

とはいえ、やはり前半戦は速水が飛ばしすぎで少々キツい。

とにかく結論を急ぎすぎるキライがある。それはもう、理論を積み上げるだけ積み上げて、さあ、ここまできてついに行き詰ったでしょ、とオチをつける宮台の狙いを、初手からぶち壊しかねない勢いである。この辺りはもう少し流れを意識した発言があってしかるべきだと思う。

それでも、1冊の本として、向かう先を常に意識させるという意味では、まったくの無駄だというわけでもない。最後の卓袱台返しを予想させることは読者に対して親切ですらあるかもしれない。でなければ、そもそも最初から眉に唾を付けられかねない。

何しろ、これは宮台的宗教のススメなのである。

だから、宗教的結論に飛びつこうとする速水を宮台が引きとめ、順を追って説明するという構図は、読者を宗教的結論に導くのにとても効果的だ。もちろん、ここでいう宗教的というのは、信心にまつわる話では全然ない。むしろ宗教の持つ絶対性を徹底的に廃した概念である。

社会と共に移り変わるような価値観をよすがに生きていては、いつか必ず行き詰る。既存の宗教とて自分以外の何かによって規定された幸福でしかない。それは多分に社会的なものだろう。ならば、世界の視座で社会を悉く相対化し、そこに鎮座まします自分を見つけよう。

これはそういう自分教の提案なんだと思う。

悉く相対化された世界に排他はない。逆にいえば、自分ひとりが弾き出されることもないということになる。そこでは誰もが居場所に困ることがない。まさにまったき共生の世界である。何かと思えば、これはやっぱりリベラリズム徹底の話じゃないか。

結局はリベラリスト宮台にしてやられたわけである。

2006年09月10日

西澤保彦『神のロジック 人間のマジック』(文春文庫)

西澤保彦『神のロジック 人間のマジック』(文春文庫)西澤保彦『神のロジック 人間のマジック』を読んだ。

人は脳を通してしか世界を認識できない。

ぼくが『唯脳論』を読んだのは高校生のときだった。それもはもう相当なショックを受けた。以来、ずいぶんとモノの見え方が変わったように思う。そして、そうした世界の捉え方はいまや、養老孟司の手を借りずとも多くの人が自然と感知し得る時代になった。

一部の学問やエンターテイメントは、今もそうしたことに意識的な人を増やし続けている。あらゆる「当たり前」は、追究しないことで辛うじて「当たり前」たり得えているに過ぎない。つまり、自分というものを支えるあらゆる現実は、すべて不確かなものでしかないのである。

そして、自分を規定することの不確かさは、ぼくたちにとって重大なテーマとなった。この本のテーマも、たぶんその辺りに根がある。それはOLが突然会社を辞めてインドに旅立つような安直な自分探しではない。もっと根源的で逃げ場のない不安との対決である。

実はこの本の単行本が出たとき、少し前に出た別の作品に酷く似た点があることがあちこちで取り沙汰されていた。不運にも、とても大事な部分が似てしまっているのである。にもかかわらず、読んだ人たちは概ねどちらにも高い評価を与えている。

それは同じタイプのトリックで同じような人物設定ながら、両作品がまったく違ったアプローチとテーマに貫かれているからだろう。さらにいえば、テーマとトリックの必然性という意味では、たとえ少々強引なロジックが混じろうとも、この作品は稀有の傑作だと思う。

それはあまりに幸福な融合である。

こんな風に書くと、何やら難解な内容を想像するかもしれないけれど、西澤保彦はそんな作家ではない。文章は平易で、すこぶるエンターテイメント性が高い。近頃ではそんな分類も意味をなくしつつあるけれど、ライトノベル的といってもいいかもしれない。

展開はミステリ読みにはお馴染みの推理合戦方式だし、心理的クローズドサークルともいえる舞台はすこぶる本格推理的である。メイントリックを支える伏線にもほとんど無駄がない。世界の反転と深い納得が、終幕と共に無理なく訪れる。

新本格ブーム以降のミステリに親しんだ人には、きっと感慨深い作品になると思う。それほど奇想に富んで端正な作品である。そして、新本格と聞いてピンとこない人なら、このラストに鮮烈な驚きを期待していい。小説世界に没入していればいるほどその衝撃は大きいはずだ。

やっぱりミステリは面白い。そう思える作品だった。

2006年09月07日

ケン・グリムウッド『リプレイ』(新潮文庫)

ケン・グリムウッド『リプレイ』(新潮文庫)ケン・グリムウッド『リプレイ』を読んだ。

広く定評のあるSFを読んでみて思うのは、ジャンル小説としての自由さである。先端のハードSFみたいなものを想像するとつい尻込みしたくなるけれど、こうした息の長い人気作は意外なほどにジャンル小説的じゃない。取っ付きやすいし読みやすい。

こうした豊潤な作品には、面白さの種が贅沢に蒔かれている。それは沢山の人が様々な観点でこの作品を愛せるということでもある。プロットの緻密さや人物造形の巧みさに惹かれる人もいれば、思いも寄らないダイナミックな展開や深いテーマ性に惹かれる人もいるだろう。

この作品はタイトル通り時間を繰り返す話だ。といっても、時間についてのSF的な講釈はほとんど打たれない。平行宇宙みたいなものも出てこないし、ややこしい宇宙論に発展したりもしない。また、SF的ガジェットを綿密に描くようなタイプの作品でもない。

つまり、SFは前提ではあるけれど、目的ではないのである。

「やり直し」というテーマはいかにも普遍的だ。誰もが沢山の「もしも」を抱えて生きている。もしあの頃に戻ってすべてをやり直せるなら、とはよく聞く話である。近年の個人的なお気に入りでいえば、映画『バタフライ・エフェクト』がまさしく同テーマの作品だった。

つまり、それだけ新味に欠けるテーマなのだ。ここに著者はひとつの条件を課すことで、深刻なテーマを浮き彫りにすることに成功している。それは、最初のやり直しのラストに明らかになる。そのショッキングな事実に主人公は極めて哲学的な問いに直面することになる。

乱暴にいえば「生きる意味」というあまりに普遍的な問いを、リプレイというSF的設定を利用することで主人公に、ひいては読者に突き付けてくるのである。主人公は度重なるリプレイの中で、様々な人生を生き、その答えを模索する。

ここに著者はさらに過酷な条件を準備している。

そもそもが意のままにならないリプレイである。そこに判明する新しい事実は、ようやく繰り返しの現実を受け入れかけた主人公にさらなる追い討ちをかける。このリプレイの法則によって、無限にあったはずの選択可能性がどんどん失われていくのである。

それはたぶん、ぼくたちの日常では老いの問題に近い。もう、自分の人生を変えることもできないのに、何のために生き続けなければならないのか。何を拠り所に最後の時を迎えればいいのか。これまでの自分のあらゆる選択に意味はあったのか。

そうした問いを飲み込んで、物語は終わり、また繰り返される。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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