« 2006年06月 | メイン | 2006年08月 »

2006年07月31日

古処誠二『接近』(新潮文庫)

古処誠二『接近』(新潮文庫)古処誠二『接近』を読んだ。

この人の作品にはとてもストイックな印象がある。軽妙な語りを採用していたデビュー作『UNKNOWN』でも、その内容は端正かつ真摯なものだった。デビュー作で自衛隊を描いた著者は、後に戦争を題材にした作品群を発表し始める。

これもその1冊だ。

戦争を知らない世代が書く戦争文学。一読、どうしてこれだけの質感をもって戦争を描けるのかと感嘆せざるを得ない。戦時下の悲惨な状況みたいなものは、資料をあたり、取材すればある程度誰でも知ることができるだろうとは思う。

けれども、これはそんな記録文学的な作品ではない。

舞台は1945年、決戦前夜の沖縄。主人公は利発でありながら、その潔癖な心で日本を信じようとするわずか11歳の少年である。土地を捨て疎開する大人たちを軽蔑し、軍務に動員され現実を目の当たりにしてなお、国を信じようとする姿はどこか痛々しい。

大本営発表を裏切るように熾烈を極める戦局に、尊敬すべき大人たち、信頼すべき兵士たちの姿はすでにそこにはない。国土国民を守るべき軍人が、自らの生のために民間人を騙し、脅かす存在にまで成り果てる。忠や義などとうに霧散し跡形もない。

そんな容赦ない戦時下の極限状態を描きながら、この作品にはエンターテイメントが仕掛けられてもいる。日系米兵の存在である。日本語を修得した彼らは、本土決戦を前にスパイとして沖縄に潜入を果たす。ここに緊張が生まれる。

スパイ潜入の噂は主人公たちの間にも流布し、人々は戦局の悪化と歩調を合わせるように疑心暗鬼を深めていく。ついには、生き延びるため同胞を殺す理由にまでされてしまう辺り、さもありなんという思いと共に、人間の卑しさ残酷さを思い知らされる。

本当にスパイはいるのか。いるとすれば誰がそうなのか。

これをミステリとしてだけ読むなら、驚きや感動はそれほど大きくないかもしれない。伏線をキレイに拾い集めるような解決篇があるわけでも、意外な犯人がいるわけでもない。けれども、少年の心を思うとき、これは物語的必然なんだと思わざるを得ない。

戦闘が生む直接的な暴力を描くのではない。人々が心を蝕まれ、尊厳を失くし、欲望と疑心の走狗と化していく姿は、ときにそれ以上の恐怖を突きつけてくる。少年の最後の選択も、戦争が残した数多の傷のわずかな一片に過ぎないのだろう。

そう思わせることが、作品の成功を意味してもいるのだと思う。

2006年07月27日

伊藤たかみ『ミカ!』(文春文庫)

伊藤たかみ『ミカ!』(文春文庫)伊藤たかみ『ミカ!』を読んだ。

なんて真っ当な話だろう。

実は「小学館児童出版文化賞受賞作」の文字を見て買うのを躊躇った。何も児童文学を低く見たわけではない。児童文学だろうが絵本だろうがアニメだろうがパラパラ漫画だろうが面白いものは面白い。それでも躊躇ったのは、どじょうを狙う出版社の顔が、帯の影から覗いたような気がしたせいだ。

角川から出た『バッテリー』のヒット以来、児童文学を前面に押し出しながら「大人の読者」を当て込んだ販売戦略が幅を利かせているような気がしてならない。何かの成功をきっかけに埋もれた名作が陽の目を見るのはいい。

けれども、猫も杓子もとなるとどうもイケナイ。

そんなスレた見方をしながらも買ったのは、立ち読みした数頁が好感触だったからだ。タイトルにもなっている少女ミカが、変なイキモノを見付けて「オトトイ」なんて名前を付けるくだりだ。頭も顔も判然とせず、酸っぱいキウイを食べる以外はイキモノにすら見えない。これに惹かれて買ったのは、結果的には正解だった。

誤解のないように書いておくけれど、このオトトイを除けば、とても地に足の着いた、リアルな日常が展開されている。女の子に生まれながら女の子でいることが厭でしょうがないという設定も、性同一性障害がどうのというような深刻ぶった話ではない。描かれるのは、本当にどこにでもありそうな情景ばかりである。

だからこそオトトイが効いてくる。たぶんそれは、少年期のある短い一時期、彼女の成長を助ける何かのメタファーのようなものだろう。たとえば、童話に出てくるある種の魔法や妖精なんかに近い。成長とともに魔法は解け、妖精は見えなくなる。

成長という観点でいえば、語り手となるミカの双子の兄の存在はちょっとばかり複雑だ。実のところ、オトコオンナのミカなんかよりもよほど難物である。大人びているというのとは少し違うのだけれど、子供にしては思考が先回りし過ぎている。大人が思う子供らしい快活さがいかにも足りない。

ただ、妹思いの兄という基本はブレない。あちこちに気を遣いながらも、ここだけは決して外さない。ミカにしても、そこは同い年の兄を信頼しているらしいことが読み取れる。腕力では劣っても、精神的にはミカよりもずっと強い兄なのである。

ややこしい両親の話や、同級生たちとのあれやこれやも、ミカの変化とそれを側で見ている兄の思いを描く以上に深入りはしない。このハッキリとした線引きが読んでいて気持ちが好い。枝葉を伸ばし過ぎることと、細部を描き込むことは同じじゃない。

丁寧でいて無駄のない、とても良い語りだと思う。

2006年07月26日

鯨統一郎『タイムスリップ明治維新』(講談社文庫)

books060726.jpg鯨統一郎『タイムスリップ明治維新』を読んだ。

この人の歴史ミステリは、歴史の知識がさしてなくても楽しめる。だから、元歴史嫌いのぼくでも安心して読むことができる。気軽に楽しめて、少しばかり歴史の知識も吸収できるのだから、むしろ苦手意識のある人にこそ向いているのかもしれない。

実はこの作品には前作がある。『タイムスリップ森鴎外』といって、これは森鴎外が現代にタイムスリップしてくるというタイトルのままの話である。そして、2作目である『タイムスリップ明治維新』もタイトルのまま、今度は現代人の主人公が明治維新の頃にタイムスリップしてしまうという趣向である。

タイプスリップするのは今時の女子高生で、行った先は何やら史実とは微妙にずれた維新前夜の日本である。狂いかけた歴史をどうにか正常な軌道に戻そうとする。この手の話としてはすこぶるありふれたミッションだと思う。

ただしこれには、歴史が史実からかけ離れ過ぎると元の時代に戻れなくなってしまう、という設定がくっついていて、それなりのサスペンスを生んでいる。まあ、実際にどの程度の乖離でアウトになるのかは作者の裁量次第なわけではあるけれど。

この本の読みやすさは、その構成に拠るところも大きい。歴史の有名エピソードをイベントのごとくこなしていく辺り、長編でありながら連作短篇に近い。そんなメジャー級の挿話が目白押しな理由も先に書いた条件で説明されるのだから巧い設定である。

何やら特別視されがちな有名人たちを、どこかにいそうな親しみやすいキャラクターとして描いているのも好い。主人公の女子高生が茫洋としてやる気のない竜馬に発破をかけたり、人斬りの異名を持つ中村半次郎と恋に落ちたりするのである。

半次郎vs以蔵。

そんな幕末剣士好きには堪えられない好カードが実現しているのも、著者の旺盛なサービス精神の表れだろう。そして、著作ファンへのサービスとしては、『邪馬台国はどこですか?』のエピソードを補完していたり、前作で森鴎外がタイムスリップしてくる因果をパラドックス混じりに描いていたりもする。

何でもありになってもおかしくない並行宇宙的設定ながら、ちゃんと落ち着くところに落ち着ける手腕は、軽妙な作風だからと侮れない。サクっと楽しめる作品がサクっと適当に書かれるわけではないということがよく分かる。

このシリーズはまだまだ続くらしく、既に『タイムスリップ釈迦如来』というのが出ている。鯨統一郎のことだから、お釈迦様を素直に偉人として描いているとは思えない。どんなキャラクターになっているのか、文庫化を楽しみに待とうと思う。

最後に、あえて歴史嫌いの人にお薦めしておく。

2006年07月23日

菅浩江『プレシャス・ライアー』(光文社文庫)

菅浩江『プレシャス・ライアー』(光文社文庫)菅浩江『プレシャス・ライアー』を読んだ。

ヴァーチャルリアリティもののSFとして愉しむというよりは、それを前提として創造やオリジナリティや存在意義について考えるための作品だろうか。VRと非VRの区別が付かないレベルにまで技術が発達したとき、非VRに生き続ける意味はあるのか?

作中のVRはまだそこまで完璧なものじゃない。例えば“マトリックス”のように脳を直接刺激する方式ではないのである。精々特殊なスーツで触覚を物理的に刺激するくらいで、基本的に味覚や嗅覚までは再現できない。

そんな、今よりも少し先の過渡期的な時代に、「創造性」を求めるキャラクターたちが、自らのアイデンティティを賭けてぶつかり合う様子が、多少の違和感とともに描かれていく。慣れた人なら違和感の正体は読み始めて間もなく知れるだろう。

もちろん、違和感を持ったまま読み進むという人もいるだろう。そういう人にはそういう人のための驚きがちゃんと用意されている。一方、正体を予想した人が次に考えるべきは、何故そんな使い古された手法をとったのかという点になるだろう。

ここのところの必然性は、ちょっとばかり掴み難い。多少スレた読者なら、この予想の先にドンデン返しを期待して読んだかもしれない。すると、肩透かしを食らう。問題はたぶん、ラストで明らかになる悩みの正体だろう。

その意味でオチの弱さは瑕にならない。

むしろ、あの予定調和は怖い。それは元々ぼくたちが悩むべき悩みだからだ。そして、その種の悩みを悩めること自体が、ぼくたちの人間らしさを担保していたはずだからだ。あれはだから、高度な情報処理能力を備えたぼくたちの姿なのかもしれない。

物語は思索の始まりを示して終わってしまう。

2006年07月18日

新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』(ハヤカワ文庫)

新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』(ハヤカワ文庫)新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』を読んだ。

珍しくSF方面の本である。といっても、SFよりは青春小説といった方がいいかもしれない。作中にも書かれている通り、SFの話題は沢山出てくるけれど、内容はそれほどSFらしくもない。別にタイムトラベルの顛末が語られるわけではないのである。

時間跳躍能力を発現した少女を巡るひと夏の物語。

将来に対する不安、焦燥、諦念、何が欲しいのかも、何をしたいのかも分からない。そのことについて真面目に考えることさえ延々先延ばしにしてしまう。頭でっかちで傲慢で臆病、極めて当たり前な高校生たちの青春群像。

そんなありふれた物語が、独特の持って回ったような、どこかパッチワークじみた言葉で語られる。視点人物を演じる主人公の屈託が、そのまま地の文に活かされている。お陰で思わせぶりな表現が多いのが欠点といえばいえるかもしれない。

性向としてはライトノベル風なんだと思う。理屈っぽくて、ニヒリスティックで、あまり友達にしたくないタイプの少年少女ばかりが登場する。その考え方や行動を許容できるか否か。そこがこの物語を楽しめるかどうかの分水嶺かもしれない。

主人公を始めとするメインキャストの面々は、集団としては個性的かもしれないけれど、個々にはかなりの没個性である。時間跳躍者となる少女以外は全員ブッキッシュで、勉強ができ、賢しくて、ルックスに恵まれている。

衒学的といわれても否定できないような引用や、知的遊戯とでもいうような理屈ばかりの会話はあまりにも空虚で表面的だ。彼らの会話はディスコミュニケーションを前提としたコミュニケーションなのである。

それは正しくイマドキの友人関係の類型なのかもしれない。

一見ドライでイマドキな関係は、いまさらいうまでもなく過剰な自己防衛の結果である。そんな思春期の殻を少しずつ脱ぎ捨てていく。恋愛、友情、家族関係やなんかを通じてその過程描くのがビルドゥングスロマンの王道ということになろう。

この本が成長のトリガーとしているのは、多分、孤独である。タイムトラベルは孤独を実感させるための道具でしかないのかもしれない。そして、孤独を恐れる心からの開放が主人公たちを次のステップへと踏み出させる。

ひとりの少女の極個人的な選択が彼らを閉塞から救い出す。

これはそういう物語なんだろうと思う。

2006年07月10日

近藤史恵『モップの精は深夜に現れる』(ジョイ・ノベルス)

近藤史恵『モップの精は深夜に現れる』(ジョイ・ノベルス)近藤史恵『モップの精は深夜に現れる』を読んだ。

ついついシリーズものを続けて読んでしまった。借り物だということもあったけれど、本の買い置きがなかったということもある。どちらにしても借りた本より先に自分で買った本を読むというのも、なんだか落ち着かない。

別に急かされるようなことはないのだけれど。

ともあれ、1作目の最後が最後だっただけにどう続けるのかと思っていたら、やっぱりキリコの立場はずいぶんとは変わっていた。何より前作のレギュラーキャラを思い切り捨て去っているのが凄い。まあ、今後も続けるならうまいやり方かもしれない。

キリコの利発さ、可愛らしさはもちろん健在だ。ただ全体としては、前作に比べるといくぶん淡白な印象になっている。各話毎に舞台が変わるからだろう。人間関係は続かないし、何よりキリコLOVEの梶本大介までが全然出てこない。

これはさすがにちょっと寂しい。

と思っていたら、最終話でようやく登場してくる。これがグチグチと思い悩む大介君の面目躍如ともいうべき1篇だ。前科があるからこちらはある程度先を見越して読んでいるけれど、本当に天から空が落ちてきてもおかしくない悩みっぷりである。

最終話で大介の主観を利用する趣向は前作のパターンを踏襲している。彼の杞憂はとにかくキリコのデキすぎに由来するところが大きい。そして彼の視点こそがキリコを最大限に活き活きと映し出していたのだなぁと改めて思った。

ハッキリいって、今回のふたりの挿話は、また一段と、とんでもなく甘い。それはもう、読んでいて恥ずかしくなるくらいだ。それ以外の話が相当にシビアで、最後まで棘を残すものが多いだけにそのギャップは凄い。これはもう完全に狙っている。

そして、ぼくはまんまとハマってしまった。あんなクサい話に思わず感動してしまったのである。鬱陶しいくらいウジウジしている大介が、ストレートな行動にでる展開は陳腐なのに、心のツボを押してくる。これは1作目から読んでいてこそのカタルシスだろう。

こればっかりは続けて読んで正解だった。

2006年07月09日

近藤史恵『天使はモップを持って』(文春文庫)

近藤史恵『天使はモップを持って』(文春文庫)近藤史恵『天使はモップを持って』を読んだ。

ビルの清掃業者が探偵役という、いわれてみれば「なるほどっ!」と膝を打ってしまいたくなる設定の短編ミステリである。しかも、市原悦子の家政婦と違って、オシャレで可愛いイマドキの女の子で、しかも相当にデキがいい。

掃除が大好きで、彼女が仕事をした後はすべてがピカピカで手際も良い。これで観察力も想像力もあって、洞察力まで兼ね備えているというのは少々サービス過剰のようにも思えるけれど、それがまた魅力的なんだから文句をつけるわけにもいかない。

そんな彼女の魅力を引き立てるのが、梶本大介という新人サラリーマンである。彼の視点で描かれるのは、OL主体の女社会で起こる奇妙なできごととその顛末だ。絵解きをするのは、もちろん愛しの清掃作業員キリコである。

ふたりが触れる小さな事件の数々は、どれも小振りではあるけれど、どうにもやりきれない棘を残す。デキの良過ぎる美少女探偵や、やたらと登場する美男美女は現実味を欠いているような気もするけれど、それで舐めてかかると不意打ちを食らうことになる。

日常に潜む謎は消えても日常は終わらない。

それは当たり前だけれども、重い事実である。キリコは視界を遮る曇りを取ることはできても、刺さった棘を抜くことはできない。おそらく、彼女に救われているのは当事者たちよりもむしろ、そうした棘や毒に触れて右往左往する大介の方だろう。

もちろん、キリコが介入することで、当事者たちもどこか吹っ切れる部分がないわけではない。目から鱗を落とすケースも多い。そうして自分が見え、周りが見えることで、ようやく何かを判断できるともいえる。ただ、どんな道を選ぶかは本人次第だ。

そのシビアさがこの本の魅力でもある。

それでもどこか温かい印象を残すのは、ウジウジと心配性の大介とどこまでも理想的なパートナーキリコが演じるライトな恋愛劇のお陰だろう。ここだけは本当に甘い。お陰で、ふっと力を抜いて休むことができる。

最終話はこんな読者の気持ちをうまく利用した仕掛けになっている。大介自身にも重い問題を背負わせることで、彼は傍観者から一気に主役に踊りでる。少々内省的過ぎるきらいはあるけれど、引き立て役としてはこの上ない役回りだろう。

結局、キリコは大介の天使でしかないのかもしれない。

2006年07月08日

坂木司『仔羊の巣』(創元推理文庫)

坂木司『仔羊の巣』(創元推理文庫)坂木司『仔羊の巣』を読んだ。

やっぱり主役ふたりが気持ち悪い。

そう思いながらもつい、また読んでしまった。また、というのは、これがシリーズ3部作の2作目だからだ。前作の感想にも書いたけれど、語り手の坂木と探偵役の鳥井は完全な共依存関係にあって、読んでいるとかなりイライラさせられるのだ。

しかも、どういうわけか成長の兆しは、いつもギリギリのところではぐらかされてしまう。タイトルにかけるなら、巣から出ようとしない仔羊たちの物語といったところか。しかも巣に絡め取られているのは、ひきこもりの鳥井よりもむしろ坂木の方である。

心の弱さを極限まで肯定し、たとえ弱さゆえにひきこもり、弱さゆえに人と上手く交われず、弱さゆえに人を傷付け、弱さゆえに成長を拒むのだとしても、それは一切否定されるべきものではないと、そこまでいい切るならぼくはいっそ清々しいとさえ思う。

けれども、彼らはせっせと他人の巣立ちを促して回るのである。そもそも名探偵というのは自分のことを棚にあげなければ成り立たない役回りなのかもしれない。その意味では、鳥井はこの上なく名探偵らしい名探偵なんだろうとも思う。

この気持ちの悪い探偵コンビだけが画面いっぱいに活躍するような話なら、もしかすると、ぼくはこの2冊目を手に取ることはなかったかもしれない。ふたりの巣立ちを準備するであろうキャラクターがちゃんと周りを固めつつある。

そこに期待してしまうのである。

今作では警察官の滝本が、いきなり坂木の内面深くに切り込んでくる。それは本当に唐突で、展開としては少々不自然なのだけれども、その果たすところはあまりに大きい。もっと自然にいかないものかとは思うけれど、これは絶対に必要な切り込みである。

また、木村栄三郎という老寄りからも目が離せない。彼は仔羊たちに一時避難の巣を提供する役回りながら、一方で巣にひきこもることを良しとしない厳しさも持っている。ベタで大時代な「父親像」を一手に引き受けているといってもいい。

彼が探偵をも批評し得るキャラクターとして登場しているお陰で、探偵は神の位置で安穏とすることを許されない。いわゆる刑事事件ではなく、よりプライベートな問題に関わり続けるともなれば、尚更、自身から目を逸らしたままでいるのは難しいだろう。

坂木担当の滝本と鳥井担当の栄三郎。このふたりがうまく機能することで、危なっかしい坂木と鳥井の関係が破壊されていく。それが予定調和というものだろう。もう、脳内世界で幸せならそれでいいとか、そういう展開は飽き飽きだということもある。

このシリーズは次の第3作で完結である。ついに鳥井の怜悧な視線は自分自身に向けられることになるのだろうか。そして、鳥井が最も冷静に見詰めなければならない坂木との関係は、どう再構築されていくのだろう。それとも何も変わらないのだろうか。

それは、とても楽しみでもあり、とても心配でもある。

2006年07月05日

伊坂幸太郎『重力ピエロ』(新潮文庫)

伊坂幸太郎『重力ピエロ』(新潮文庫)伊坂幸太郎『重力ピエロ』を読んだ。

少し変わった異父兄弟の話だ。飄々として乾いた印象のいつもの伊坂節の裏に、家族ものらしいややウェットな情感が潜んでいる。『オーデュボンの祈り』『ラッシュライフ』と世界を共有しているのは、もうお約束といっていいかもしれない。

たとえば、本職泥棒の黒澤が意外な役回りで出てきて、なんとも美味しいところをさらっていく。どうやらこのキャラクター評判が良いらしい。案外、著者も気に入ってるんじゃないかと思う。もちろん、ぼくだって好きだ。

それにしても、この人はあまりミステリというジャンルに執着がないのかもしれない。デビュー作からしてミステリとしては異端だったわけで、印象だけでいうなら既にしてジャンルフリーといえなくもなかった。

その傾向はますます進んでいるように見える。といっても、別にファンタジックになっているわけではない。むしろ、フワフワとした浮遊感は目減りし、地に足がつきつつある。その意味では『オーデュボンの祈り』あたりよりもずっととっつき易いと思う。

また、「ミステリ的な退屈な手続き」といった章題を見ても、ミステリを意識していないわけではないだろう。むしろこうした表現が辛うじてこの作品をミステリらしく見せているといってもいいかもしれない。何しろ謎らしい謎がほとんどないのである。

小さな謎は散りばめられているけれど、それは小説を面白くするためのスパイス程度のもので、ミステリ的な謎とはいい難い。だから、謎の女の正体から放火の犯人に到るまで、あらゆる秘密は登場した直後か、少なくとも開示される前には解ってしまう。

要するに誰が何をしたのかは問題ではなくて、何故そうせざるを得なかったかが問題なのである。いい換えれば、それは個人の価値観の問題である。どんな価値観に従った、あるいは、どんな美学に支配された行動だったのか。すべてはそこに帰ってくる。

だからたぶん、少々個性的な弟、春の価値観を愉しめるかどうかが、この作品を評価する鍵となる。ここで倫理的に許せないと思う人にはたぶん最初からこの本は向かない。確かに倫理の問題も含んではいるけれど、それは副次的なものだ。

そして最後に兄がだす結論こそが本筋なんだろう。それはつまり「家族」という単位の復権だ。ただしそれは旧弊な「家」という単位とはかなり違っている。1番の違いは血縁に対する態度だろう。最初にややウェットだと書いたのはここのところの話だ。

血というある意味で先天的な条件によって生み出される不幸をいかに克服するか。レイプによって生を受けた春の人生は、その来歴によってあまりに強固に規定されてしまった。それはもう引き返すことも曲がることもできないレールである。

そのレールを春は全速で走り抜ける。そんな彼の行動はどう評価されるべきか。そこで家族の歴史という後天的な実感に重きを置こうという主張は、ほとんど書き尽くされたネタである。だから、兄の言葉はたぶん、とても陳腐で、とても的を射ている。

陳腐が悪いわけではない。陳腐がつまらないわけでもない。実のところ少々小ぶりな印象は拭えないのだけれど、陳腐な要素を多く含みながら、作品自体は陳腐に堕さない。それこそがこの著者の個性であり、強みなんだと改めて思い知らされた。

著者のさらなる飛躍を期待してしまう。そんな作品だ。

スポンサードリンク

管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

人気ブログランキング