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2005年03月31日

田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』(角川文庫)

田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』(角川文庫)田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』を読んだ。

これまで読んだことのなかった田辺聖子を、今更読む気になったのは、きっかけが二つ重なったせいだ。ひとつは4日前に書いた中島らも。もうひとつはまだ観ぬ同名映画だ。週末にはTSUTAYAをのぞいてみるのだけれど、いつも空のケースばかりが数本並んでいる。

それにしても思ったよりも古い作品で驚いた。角川文庫版の初版が昭和62年とあるから、発表年はそれよりもさらに数年は前になる。ざっと20年は前の作品だろう。読んでみて田辺聖子という作家の感性の確かさを思い知った。恋愛小説と聞いてすぐに思い浮かぶような、時代風俗に流されがちなイメージとは無縁といっていい。また20年後に読んでも、変わらずじんわり心に沁みるに違いない。

この本には表題作をはじめ、本当に色々な「女」が描かれている。

きれい事ではない。ただ、大事なものはちゃんと見定めているようなところがある。そういう「女」たちと、そんな女に「選ばれた男」たちの話だ。

田辺聖子が女を描くのが得手なのはわかる気がする。けれども、相手を務める男の描写がまた情けなかったり小賢しかったりと妙に生々しい。読んでいて気持ちが分かってしまったりする。女性の手になる男性キャラに男が感情移入できるのは凄い。

コテコテの関西弁も心地いい。

自分の生き方について思い定めている人間というのは強い。強かというのは悪いことでは全然ない。多様な関係のありようを、あるいは自分の今のありようを、決め付けることなく自然体で楽しんだり慈しんだりできる人というのは、とても魅力的だと思う。

好く生きる。その技を少し垣間見たような気になれる本だ。

2005年03月28日

ジョルジュ・バタイユ『眼球譚(初稿)』(河出文庫)

ジョルジュ・バタイユ『眼球譚(初稿)』(河出文庫)ジョルジュ・バタイユ『眼球譚(初稿)』を読んだ。

ぼくは学生時分、割りと澁澤龍彦やなんかを好んで読んだりもしたので、この手の話には比較的耐性がある。なので、かなり楽しめた。なんとなく知っていながら今まで読まずにきたのだけれど、ほぼ想像していた通りの感触だった。

ちなみに『眼球譚(初稿)』はポルノグラフィーだ。

ただし、余りオカズにはならない。抑圧と開放だとかエロスとタナトスだとか、そういう理屈っぽさが全編を支配している。バタイユは思想や哲学の人でもあって、哲学なんて理屈の権化みたいなものだから、これは当然のことかもしれない。何事もグチグチと突き詰めるのが本分だろう。お陰で、性表現としては少々アブノーマルでもある。

一例、のっけから少年少女が小便をかけあったりしている。

このあたりで思い切りひくような人は読まない方がいいかもしれない。主人公たちを駆り立てる衝動は止まるところを知らない。ただし、物語が進むほど、エロ小説とはかけはなれたものになっていく。

そして、この作品には問題の第二部や序文がついている。

これが甚だ理屈っぽい。結局衝動より理屈が勝っている。バタイユの屈折具合が分かろうというものだ。こういう曲がり方は嫌いじゃない。

なだんか久々に丸尾末広が読みたくなった。

2005年03月27日

中島らも『砂をつかんで立ち上がれ』(集英社文庫)

中島らも『砂をつかんで立ち上がれ』(集英社文庫)中島らも『砂をつかんで立ち上がれ』を読んだ。

ぼくは割りと適当に本を選ぶ方だ。書店でタイトルを見てとか、文庫なら背表紙のあらすじを見てとか。けれども、本を途切れさせないがモットーのぼくは、日頃からある程度気にかけておかないと、いざ手持ちの本を読了した時に困ることもある。たまたまピンとくる日ばかりとは限らないからだ。

そこで重宝するのが、好きな作家が好きな本。

好きな作家の作品とその作家の読書歴とは基本的に無関係なのだけれど、好きな作家の嗜好にはいくばくかの関心があるし、なんだかんだいっても、どうしようもない本を愛読書にあげる作家なんてそうそういない。少なくとも帯やあらすじよりは信用できる。

『砂をつかんで立ち上がれ』には中島らもが読んだ色々な本や漫画についてのエッセイが沢山収録されている。いわゆる書評とは違って、読み物として楽しめる内容だ。中には文庫用の解説まである。解説文がエッセイの水準に達しているのはさすがただの変人ではない。

お陰でまた読みたい本が増えた。

名前だけしかしらないバタイユやセリーヌ、バロウズといったちょっと異端な面々。現役日本人作家のメジャーどころでは夢枕獏、田辺聖子などなど。実は早速バタイユの『眼球譚(初稿)』を買った。本当はセリーヌ『なしくずしの死』を探したのだけれど、残念ながら近所の書店には置いてなかった。

中島らもを深夜テレビでしか見たことがない人は、彼の文章を読むとビックリするかもしれない。中島らもという人は破天荒だけれど理知的な人だ。考えた末に道を踏み外すタイプともいえる。その挙句に階段を踏み外して死んでしまった。

王の家臣をみんな集めてもハンプティ・ダンプティを元には戻せない。

2005年03月24日

みうらじゅん『愛にこんがらがって』(角川文庫)

みうらじゅん『愛にこんがらがって』(角川文庫)みうらじゅん『愛にこんがらがって』を読んだ。

いわずと知れた「文科系サブカルオヤジ」の処女長編小説。長編といってもそれ程長い話じゃない。サクっと読める。けれども、妙に切ないモヤモヤが残る話でもある。

みうらじゅんのことははんなりと好きだ。彼もぼくも京都育ちだからいってみた。いや、要するに物凄く熱心に好きなわけでもないけれど、常に気になる存在ではあるということだ。

サブカル系なのにメジャーで必ずしも作家が本業じゃない。そういう意味で似た系統の作家、大槻ケンヂの小説はかなり好きだ。二人には共通点が結構あると思う。

  1. 妙なものに偏愛を示す
  2. ロックに拘りがある
  3. 少し変わった題材を好んで書く
  4. 自伝的小説を書いている

うん。似ている。

けれども、そんなのは上辺の話だろう。実際みうらじゅんの小説を読んでみると、全然タイプが違う。オーケンは辛い現実の先に突き抜けたロマンティシズムを、みうらじゅんは突き抜けられない現実をそれぞれ書いているのだと思う。

文才という意味ではオーケンに軍配があがるけれど、みうらじゅんの文章も平易で読み易い点では好感が持てる。ともあれ、どちらも作家として、著名人の手慰みの域を超えた作品をものしているところが、なんといっても最大の共通点だろう。

ところで『愛にこんがらがって』とはいかにもみうらじゅんらしい語感のタイトルだと思う。けれども、実はこれ文庫化の際に改題されていて、単行本では『SLAVE OF LOVE』といったらしい。これは主人公のミュージシャンが物語終盤に書く楽曲のタイトルでもある。

こんなところでまでチヨ・フリークなのがまた好い。

2005年03月23日

伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』(新潮文庫)

伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』(新潮文庫)伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』を読んだ。

圧倒的なオリジナリティ。

やりつくされたとまでいわれるミステリというジャンルで、ここまで新鮮な感動を生み出せるものかと正直かなり驚いた。それも「このミス」に代表されるような広義でのミステリではなく、限りなく本格寄りのそれで、だ。

方法だけの話をすれば、山口雅也の『生ける屍の死』なんかが近いといえなくもない。ぼくたちの依って立つ現実とは別のルールで成り立つ世界をつくり、その中でしか成り立たない謎と解決をあくまでもフェアなやり方で提示してみせる。そこでは平気で死者が蘇ったり、未来を知るカカシが喋ったりする。ただ、『生ける屍の死』の世界がはっきりトリックに奉仕する前提で構築されているのに対し、『オーデュボンの祈り』は不思議とまず世界観があって、その上での思考実験といった印象がある。

だから本格寄りといいながら、相当にファンタジックな読み物でもある。

細かいことをいえば、ところどころ文章が拙いと感じる部分や、登場人物の視点に浅いなと思う部分があったりはする。けれども、この著者独自の語りはそんな欠点を補って余りある。荒唐無稽な世界ながら存在感と魅力に溢れたキャラクターたち。それに、奇妙な人ばかり描いているようで、人間の弱さや醜さともちゃんと真摯に向き合っている。

物語的にもミステリ的にも美しいラストは、思わずため息が出るほどだ。

この作家、文庫化されたデビュー作を読んだだけのぼくなんかが今更推すまでもなく、これ以降の作品でメキメキと評価を上げ方々で絶賛されている。それら世評によれば、文章や会話表現の腕も随分と上がっているらしい。まだ拙さの残るデビュー作でこれなのだから、近作はかなりのできだろう。

まず間違いないと思える作家の本に巡り合う。滅多とないだけにこれは嬉しい。けれども、ぼくは続けて同じ作家の本は読まないことにしている。これは自分ルールなので曲げない。気に入ったなら尚更、慌てて読んだのではもったいない。

少しずつ楽しみに読んでいこうと思う。

2005年03月17日

村上春樹『海辺のカフカ』[全2巻](新潮文庫)

村上春樹『海辺のカフカ』[全2巻](新潮文庫)村上春樹『海辺のカフカ』を読んだ。

既に老人の域に達しつつあるこの人気作家の作品を、ぼくは今までに2冊しか読んでいない。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』だ。そして、もうそれ以上読む気にはなれなかった。

ありていにいえば、人が好きになれなかったからだ。

これらの作品に出てくる登場人物たちは、殆ど複数出てくる意味がないのじゃないかというくらい、書き分けがされていない。それは殆ど自問自答の世界といっていい。恵まれた環境で不幸振って甘えているような印象ばかりが残っている。

彼らが繰り出すような会話に過剰なまでの意味を見出したり、自分もあんな風にと憧れたりする人がいるようだけれど、そんな人とはあまり友達にはなりたくない。恰好いいとも思えないし、お洒落だとも思えない。

それなのにまた村上本を読む気になったのは、単にいつもの気紛れだ。前掲2冊を読んだのはずいぶん前のことだし、それらとは執筆時期にも大きな隔たりがある。これだけ売れる本なのだから、読めば案外面白いかもしれない。そう思ったからだ。

結論を言えば『海辺のカフカ』は娯楽小説としてよくできていると思う。

適度にややこしいことも書かれているし、かといって難し過ぎることもない。二つの筋に沿ってバラバラに語られる物語も、読み進むほどにちゃんと全体像が見えてくるような書かれ方をしている。リーダビリティは高い。普段小説を全く読まないという人には伏線を拾うのが多少大変かもしれないけれど、活字を追うことに慣れている人なら問題なく楽しめるはずだ。

中でも、しりあがり寿の『真夜中の弥次さん喜多さん』を髣髴させる(全然違うけど)ナカタさんとホシノくんの道行きは文句なしに面白い。これだけでも十分に読む価値はあると思う。正直にいうと、ぼくは殆どこちらサイドばかりを楽しみに読んでいた。

案の定カフカ少年サイドはそうはいかない。

カフカ少年も例によって単純に感情移入できるようなキャラクターではない。それは多分ぼくのやっかみなんだろうと思う。彼はどう考えても恵まれ過ぎている。頭脳にも体格にも容姿にも恵まれ、性的なコンプレックスとも無縁、周りには理解者が何人もいて無条件に受け入れてくれる。そんな状況で贅沢な悩みを悩んでみせるのだ。まさに拗ねた振りして甘え放題といえる。

15歳という設定だけれど、そのことに余り意味はない。例え25歳という設定でも、その描写に大差はないだろうからだ。要するに、誰もが歳に関係なく持っている、あるいは著者自身の中にもある未熟で甘い感性を、ただ少年というキャラクターに仮託しているだけのことだ。

だから、カフカ少年は全く子供らしくない。

そこに15歳の自分を重ね合わせるような人は、多分底抜けに幸せな人だ。周囲の人は誰一人賛同してくれないに違いない。うぬぼれるのもいい加減にしろ、と。

結局のところカフカ少年の成長物語として読むと、ぼくなんかは馬鹿にするなといいたくなる。それは殆ど受動的といっていい少年のあらゆる問題を、周りのみんなが自動的に処理してくれて、少年自身は殆ど何もすることなくめでたく現実世界に帰還するという実に都合のいいお話だからだ。

この夢物語の向こうに作中で言及されるようなメタファーとしての現実を見ようとすれば、それはそれは偏った薄っぺらなものしか見えてこない。これはもう著者の一貫した嗜好と技巧が生み出す、内に向かって閉じた世界の一部でしかない。

結局は単純に娯楽ファンタジーとして読むべき作品なのだと思う。

2005年03月11日

高田崇史『QED 鬼の城伝説』(講談社ノベルス)

高田崇史『QED 鬼の城伝説』(講談社ノベルス)高田崇史『QED 鬼の城伝説』を読んだ。

シリーズものの9作目だ。歴史ミステリと言われるジャンルは高橋克彦とこの人くらいしか読まない。どちらも歴史に疎くても全く問題ないのが嬉しい。読んでいると何やら歴史に詳しくなったような気持ちにすらなる。ただ、どこまでが一般論でどこからが著者の持論なのか皆目見当がつかないので、下手に人には喋れない。そもそも読み終える頃には半ば以上忘れていることの方が問題か。

最近の著者の傾向としては、「まつろわぬ人々」を扱った作品が多い。歴史は時の権力者、支配者たちが後世に残すもの。彼らに与せず歴史の闇に追いやられた人々の真実を、様々な史料を元に考察し見出していく。
歴史観の希薄なぼくには説得力があり過ぎて、毎度のことながら展開される仮説を真実と思い込んでしまいそうになる。桃太郎の鬼退治が題材と聞いて、話の方向性はすぐに想像できたけれど、それにしても固定観念を覆す手際はみごとの一語に尽きる。

正直ミステリ部分は食い足りないことも多い。今回も例外ではなかったけれど、眼目は歴史解釈とそれに連なるホワイダニットにこそあって、そこは納得のいく内容だったのだから問題はない。

ただ、複数の登場人物を使って、岡山の歴史について延々語らせる場面はもう少しどうにして欲しかった。話の性格上、全体の長さに比して、情報提示に割かれる場面が多いのは仕方がない。観光案内や歴史講義を聴かされているような気持ちになってしまった。これまでの作品の中でも特に、情報の出し方に工夫が足りなかった気がする。好きなシリーズだけに残念だ。

この傾向が今後強まらないことを願う。

ちなみにシリーズ過去作品では『QED 東照宮の怨』が個人的お勧め。

2005年03月08日

福井敏晴『亡国のイージス』[全2巻](講談社文庫)

福井敏晴『亡国のイージス』(講談社文庫)福井敏晴『亡国のイージス』を読んだ。

著者は“ローレライ”“戦国自衛隊1549”“亡国のイージス”と作品の映画化が相次ぎ、近頃何かと話題の作家だ。ぼくは世評というものを半ばほどは信用している。ここまで人気があるというのなら、そうそうつまらないはずがない。

日本推理作家協会賞日本冒険小説協会大賞、大藪春彦賞のトリプル受賞は伊達じゃなかった。確かにガンダム世代の刻印は顕著だし、文章に読み易さ以上の魅力はない。けれども、たとえエンターテイメントが過去作品のサンプリングでしかないのだとしても、それを生み出すには才能も技術も必要なはずだ。福井敏晴にはそれがある。そう思わせるに十分な傑作だ。

ぼくは軍事モノには基本的に余り興味がない。『沈黙の艦隊』だって一度も読んだことがない。自衛隊についての知識もこれといってないし、国防ひいては国の主体性について突っ込んで考えたことも全然ない。けれども、そんなことは全く問題ではなかった。御託はいらない。

これはよくできた映画やアニメを観ているような小説だ。

文体で読ませる作家ではない。文章は物語るための記号でしかなく、読んでいるという意識すら希薄だった。緻密な背景描写や肩入れし過ぎではないかと思うような内面描写に埋め尽くされるうち、本来リアリティなど持ち得ないような多彩な登場人物たちが生きて動き出す様は圧巻だ。

カタルシスがそこいら中に転がっている。

シラケ世代なら、ガンダム世代なら、オタク世代なら、日本人なら、これを読んで涙を振り絞れ。文庫本を握り締めて電車で嗚咽しろ。冷笑的になる必要なんかない。映画を待つな。長さに臆することはない。素直に読めば誰でも楽しめるだけの要素が詰め込まれている。ぼくたちはただエンターテイメントを全面的に受け入れればいい。

福井敏晴は希代のストーリーテラーに違いない。


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福井敏晴『亡国のイージス(上)』(講談社文庫)
福井敏晴『亡国のイージス(下)』(講談社文庫)

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名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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