野中柊『参加型猫』(角川文庫)

野中柊『参加型猫』(角川文庫)野中柊『参加型猫』を読んだ。

世間に猫好きのなんと多いことか。日々愛猫写真を載せ続けるブログは世に溢れているし、猫写真を発表し合うコミュニティはあちこちで好評を博している。『参加型猫』とはうまいタイトルをつけたものである。癪だけれども、つい手に取ってしまった。分かりやすい。

そんな人にとって、当の参加型猫であるチビコは、ちゃんと期待を裏切らないだけの魅力を持っている。猫を飼った経験があれば共感できる描写も多いだろう。この辺りの書きぶりは巧い。内容如何に関わらず、チビコの存在をもって合格とする読者さえいるかもしれない。

ともあれ、猫というのは可愛いだけの生き物ではない。

猫と人間の関係というのは、なんとも不安定な印象がある。どうも猫は人に飼われながらも、自分の世界に生きているように見える。寒くなると暖を求めて擦り寄ってきたり、同じベッドで寝てみたりするけれど、その小さな頭の中が何で満たされているのかは知る由もない。

猫が持つそうしたイメージは、そのままこの小説のイメージに通じる。チビコの飼い主である若い夫婦は、ほのぼのと日々を送っている。引越しという少し特別な日常が描かれるとき、参加型猫というのはチビコにだけ冠された称号ではないのかもしれないと気付かされる。

たとえばそんな飼い主と猫の関係は、そのまま勘吉と佐可奈の関係を思わせる。勘吉の一人称で描かれるふたりの今は、佐可奈が勘吉の人生に参加することで成立しているように見える。佐可奈の頭の中は勘吉とは共有されない沢山のもので満たされているのかもしれない。

こうした普段は意識しない、あるいは意識下に閉じ込めてあるような漠とした不安は、たぶん一方的なものではない。もし主観を佐可奈に移すなら、やはり同じように勘吉は自分の人生への奇跡的な参加者と映るはずである。そこに陳腐な力関係みたいなものはない。

他者を受け入れるとはそういうことだろう。

猫が寝心地の好い場所を求めて常に居場所を移すように、人も自分の居場所をその時々で選び取っていく。そこに絶対なんてものはない。これは何も具体的な場所に限った話ではない。寒いときにもぐりこむ懐や、帰るべき家庭すらそこには含まれているのである。

だから、この作品を読むとほのぼのとしながらも少し不安になる。

ここには今しかない。過去も未来も漠として掴みどころがない。確信も保証もない今を、ただ肯定して生きるしかない。いかにも儚く、刹那的である。そして、そうした根源的な不安定さを、彼ら自身が自覚している。今というのはいつだって限定的な仮の宿に過ぎない。

環境に合わせて居を移すように、心も居場所を変えていく。それは生きている以上当たり前のことだ。時を過ごすということは、変わるということである。ならば、きっと過去や未来で自分を縛ることに意味なんてないのだろう。変化に対して人はどこまでも無力だ。

今を大切にするというのは、実は少し寂しい選択なのかもしれない。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/80

comment - コメント

初めまして、トラバありがとうございます。

気になっていた本のレビューをいくつか発見しました・・読みたくなってきました!

>glassyyさま

コメントありがとうございます。
気になっていた本…がどれなのか気になるところですが、読んで感想をアップされたらTBででもお知らせ頂ければと思います。同じ本を読んで他の人がどう感じたのか、人それぞれで面白いですよね。

コメントを投稿

エントリー検索