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2006年06月29日

米澤穂信『さよなら妖精』(創元推理文庫)

books060629.jpg米澤穂信『さよなら妖精』を読んだ。

どちらかといえばマイノリティに属する。そんな心性を持った高校生たちが主役だからだろうか、ちょっと重い青春小説になっている。その重みは物語が進むほどにいや増し、ラストで最高潮に達する。それは青春を押し潰すほどの力を持っている。

だから、これは青春の終わりを書いた青春小説なのかもしれない。

ミステリとしては「日常の謎」の系譜といっていいのだろうけれど、日常というには少々非日常な状況設定になっている。物語はユーゴスラヴィアからやってきた少女マーヤを中心に回り始める。彼女の目に映るニッポンの断片は謎と誤解に満ちている。

そこに正しい解釈を与えるのが守屋と太刀洗の役割である。守屋は多少ヒネてはいるけれど、割と平均的な男子高校生といったキャラクターを与えられている。それに比して、太刀洗の方はほとんど女子高生というブランドを放棄しているかのようだ。

マーヤと太刀洗という両極端なキャラクターは、アニメ的だとかゲーム的だとかいう形容が、ある程度当てはまるかもしれない。真っ直ぐで人懐っこいマーヤと極端に寡黙で孤高に見える太刀洗。類型的といえば類型的だ。そして、どちらも女子高生的ではない。

この手のキャラクターを愉しめるかどうかで、案外好き嫌いが分かれてしまうかもしれない。妙に雑学的な知識が会話の端々に出てくるのも、どこか閉鎖的な空気を助長している。彼らがマイノリティに見える所以だろう。

ありていにいえば酷くオタク的だ。

けれども、マーヤを間に置いたとき、彼らのそうしたオタク的な性質は、俄然意味を持ってくる。文化を学びにやってきたマーヤは触れるものすべてを吸収し、理解しようとする。ここに生まれる、ギブアンドテイクの関係は、多分恐ろしく臆病で慎ましい恋愛関係であり、友情関係なのである。

それは彼らが繰り返す空虚な言動ほどにドライなものではない。

けれども、マーヤの置かれた立場は、そうしたぬるい高校生の日常に埋没することを許さない。彼女は聡明で快活だけれど、脳天気なわけではない。祖国を創るためにすべてをかけている。それは平和の中にあっては想像を絶する生き方である。

「オレなんて」と口にしながら、心の中では「いつかはオレだって」と思っている。自分は無力だと喧伝しながら、実のところ何もできないなんて思ってもいない。思い切りが足りないだけで、踏み出しさえすれば何かが変わる、そんな風に思っている。

そういう青春の形は、たぶん普遍的なものだ。

守屋は一歩を踏み出すための推理を始める。この作品最後の謎解きである。けれども、見所はやっぱり、その謎の先にある。ついに決心した守屋はそこに何を見付けるのか。驚愕の結末なんてどこにもない。きっとそれは予想通りの終幕だろう。

けれども、やっぱり呆然とするしかない。

2006年06月28日

あさのあつこ『バッテリー〈5〉』(角川文庫)

あさのあつこ『バッテリー〈5〉』(角川文庫)あさのあつこ『バッテリー〈5〉』を読んだ。

ついに5巻目だ。ここへきて天才ピッチャー巧に、妙に生っぽい少年らしさが現れ始めた。違和感がないといえば嘘になる。もちろん、前作ですでに兆しはあったし、女房役の豪との関係をきっかけに、不器用に揺れ動く巧という図式は、必然なんだろうと思う。

いずれ、バッテリーは成長物語として完成しつつあるらしい。

5巻目にして話は少年たちの心の襞に入り込み、物語は停滞しているかに見える。それでも、この巻が既刊4巻に負けていないのは、最終巻に向けてお膳立てする瑞垣の働きによるところが大きい。彼のキャラクターは相当に特異だ。

瑞垣というのはライバル校の問題児である。賢しい上に口がすこぶる悪い。はっきりいって、児童文学にあるまじきキャラクターである。当たり前の親なら、我が子に読ませることを躊躇うかもしれない。それほどに歪んでいる。

彼と彼の屈折にひと役買っている天才スラッガー門脇との関係は、恐らく豪と巧の危うさを先取りしている。どうやら瑞垣は豪の反面教師として存在しているらしいのである。それは、天才を正しく理解できてしまうことの悲劇といい換えていもいい。

瑞垣も豪も才能の点では凡人の域ではない。けれども、なまじ能力が高いばかりに、自分にはなり得ない本物の天才を、傍にいる門脇や巧にまざまざと感じ取ってしまう。ここに苦悩が生まれないとすれば、それはキレイごとだろう。

ただ、孤高の天才に見える門脇や巧を、著者はキレイな人形のままにしておかない。瑞垣や豪が苦しむのは、孤高の天才であるはずの門脇や巧が、実は彼らに依存しているせいでもある。しかも、どうやら本人たちはそのことに気が付いていない。

その点で門脇は巧よりも自分が見えている。

この巻で巧は、これまでの身勝手で無意識的な依存から、ようやく脱却する気配を見せる。豪を知りたいという自分の感情を認め始めるのである。これはおそらく巧が弱くなったことを意味しない。むしろ、これを成長として描くのが本筋のはずだ。

裏を返せば、これまでの超然とした態度の方こそ、強さに由来するものではなかったのである。お陰で、この巻の巧のキャラクターには端々に破綻が見られる。しかも、その破綻は修復されず、次巻に宿題を残したまま幕となる。

これでは最終巻に期待しないわけにはいかない。


【関連リンク】
・あさのあつこ『バッテリー』
・あさのあつこ『バッテリー〈2〉』
・あさのあつこ『バッテリー〈3〉』
・あさのあつこ『バッテリー〈4〉』
・あさのあつこ『バッテリー』(全6巻)

2006年06月26日

岡崎隼人『少女は踊る暗い腹の中踊る』(講談社ノベルス)

岡崎隼人『少女は踊る暗い腹の中踊る』(講談社ノベルス)岡崎隼人『少女は踊る暗い腹の中踊る』を読んだ。

第34回メフィスト賞受賞作である。どうやら舞城王太郎風だというのが一般的な感想であるらしい。佐藤友哉が入っているとか、浦賀和宏的だとかいう意見もちらほらと目する。要するにメフィスト賞ながら、モロにファウスト系の正嫡なのである。

ファウストというのは、酷く歪んだヲタク系作家を兄弟誌メフィストから連れ出して創刊された異端の文芸誌である。いわゆるライトノベルとの親和性も高いようだ。今最も売れている文芸誌であり、最もイラスト含有量の多い文芸誌でもある。

それにしても、ここまで特定の色が着いてくると、そろそろバリエーションがないと苦しいんじゃないかと思う。食うたびにうな重では胸焼けもする。舞城や佐藤や浦賀は、それでも特上だったから、時間を置けばまた食べたくもなった。

けれども、今度のこれはあからさまな縮小再生産である。

講談社の文三と呼ばれる部署がファウスト系作家養成機関と化し、ついに量産体制に入ったように見えて仕方がない。この作品にしても、もしファウストに長編の賞があったらこちらから出ていたんじゃないかと思う。

ただし、先駆者たちのレベルではまだまだない。

ペドファイル、近親相姦、トラウマ、心の闇、過剰な猟奇性などなど、こんなものがどれだけ注ぎ込まれていても、この本には恐怖も、興奮も、焦燥も、同情も、嫌悪すらもほとんど感じられない。どれも単なるガジェットに過ぎないからだ。

主人公がすべてをかけてひとりの少女を守る。そんなリリカルな話であるにも関わらず、まったくシンパシィを感じられないのである。全体にのっぺりしていて、心理にも物語にも起伏がないせいかもしれない。これでは感情が乗らない。

それでもテンポだけは悪くないから、読むに苦痛ということはない。ただし、文章もあまり巧くはない。"目についたものから片っ端に放り込む"なんて変な日本語が書かれていたりもする。もちろん、日本語が変だからツマラナイということではない。

たとえば舞城には過剰な愛が、佐藤には過剰な自意識が、浦賀には過剰な内向性があった。それは十分に共感可能で、しかも刺激的だった。この作品には多分、そのすべてがある。あるにもかかわらず、すべてがどこか空々しい。

もしかすると、そうしたありきたりな感情を放棄した先にある作品なのかもしれない。そこにある何かを明らかにするために、あえてリアリティもサスペンスもカタルシスも捨てて、共感不能なキャラクターばかりの物語を世に問うたのかもしれない。

ただ、ぼくはまだその面白さを上手く理解できないでいる。

2006年06月25日

北村薫『街の灯』(文春文庫)

北村薫『街の灯』(文春文庫)北村薫『街の灯』を読んだ。

ずいぶんと久々の北村薫だ。たぶん『盤上の敵』以来だと思う。さほど熱心な読者ではないけれど、『空飛ぶ馬』に始まる円紫さんと私シリーズは毎度楽しみに読んでいた。今作はその円紫さんと私シリーズを思わせるキャスティングの新シリーズだ。

舞台は昭和初期のいかにも不安定な時代。華族1歩手前のお嬢様英子と、運転手のベッキーさんこと別宮が、日常に違和を見出し快刀乱麻を断つ趣向である。この英子とベッキーさんの謎への関わり方がなんともハイレベルなのだ。

表面的な探偵役は英子である。彼女は聡明で、好奇心が強く、また、冷静に自他を見詰めるだけの目も持っている。正しく謎を見つけ出し、推理の糸口を掴み、論理を展開させる様は名探偵の名に恥じない。ものの見方は最早14歳のそれではない。

一方のベッキーさんはあからさまに口を挟んだり、推理を披露したりはしない。けれども、実にさりげなく英子を正しい道へと導いていくのである。この趣向は新しい。探偵モノとてして、かなり斬新なコンビネーションだと思う。

昭和初期の風俗描写がイチイチ丁寧なのも北村薫らしい。

例えば、英子の叔父が吸っているたばこはエアーシップという。調べてみると、明治43年から昭和12年まで販売されていた銘柄で、山並みに飛行船を描いたパッケージは、デザインというよりは一幅の画といった方がいい。

もちろん、そんな煙草のパッケージを作中でわざわざ描写しているわけではない。けれども、こうした小物がまた、それを持つ人のキャラクターに合っているような気がするのである。これを適当に選んだはずはないだろう。そう思わせる。

巻末に並んだ参考資料の量もなかなかのものだ。

あるエピソードに出てくる夜店の配置が、実際の史料に拠っているのには驚いた。こんなものは適当に創作してもよさそうなものである。それをわざわざ史料にあたる辺り、推理作家としての矜持と稚気が感じられる。

今のところ、ベッキーさんの描写はずいぶんと控えめだ。キャラ立ち自体は英子の比ではない。にも関わらず、その類稀な能力を存分に発揮する場面はほとんどないのである。そもそも来歴自体がまったく不透明なのだ。

ここまで出し渋られるといかにも気になる。

このシリーズ1作目の見所はベッキーさんよりも英子だろう。その世の中を見る目の確かさや、あまりに素直な感受性は、この物語における必然である。この主人公の性質が、本作のラストを飾る同級生の人生観に強力なコントラストを与えている。

それはミドルティーンの思考としては早熟に見えるし、恐ろしくもある。ただ、知る由もない階級社会の上流を思えば、さもありなん、という気にもさせられるのだ。こうした歪みを無理なく描くための時代設定でもあるのかもしれない。

ともあれ、続刊ではベッキーさんの活躍にも期待したい。

2006年06月24日

米澤穂信『夏期限定トロピカルパフェ事件』(創元推理文庫)

米澤穂信『夏期限定トロピカルパフェ事件』(創元推理文庫)米澤穂信『夏期限定トロピカルパフェ事件』を読んだ。

前作『春期限定いちごタルト事件』は丸ごと前振りだったんじゃないか。そう思わせるくらいに、この続編は良くできている。その辺りの評価は世評通りだと思う。長編にしたのも良かったのだろう。十分な伏線とその回収の手際は目を瞠るほどだ。

それにしても、ここまで達者な書き手だとは思わなかった。

もちろん、前作だって続編に期待する程度には楽しめたのだけれど、ライトノベル系ということで負の先入観があったのかもしれない。それに、主人公ふたりのいかにもそちら寄りなキャラクターに多少気を殺がれてもいたのだろう。

そんな負の感情は今作で完全に払拭された。

まず驚かされるのが第1章で展開される主人公ふたりの息詰まる攻防だ。これが絶品スウィーツを巡る倒叙ミステリという、なんとも人を食った趣向である。繰り広げられるのは、非日常の大事件でも手に汗握る追跡劇でもない。

ただただケーキを食べた事実を隠蔽するという、それだけのエピソードである。これがすこぶる面白い。しかも、主役ふたりの関係をよく説明してもいる。巧い。サスペンスを生み出すのは、ひとえに話者の手腕なんだということがよくわかる。

この章単体でも短篇として十分に楽しめるクオリティである。と思ったら、どうやら実際に単体で雑誌に掲載されたものらしい。なるほど。それでいて、後続の章にがっちり組み込まれているのだから生半の構成力ではない。

以降、章毎に断片的な挿話が語られ、しかも、少しずつ登場人物が絡まりあっていく。その「意思」が明かされるとき、京極夏彦のファンなら思わず「あなたが―蜘蛛だったのですね」といいたくなること請け合いだ。

そんな懐かしい名台詞はさておき、今回ももちろん爽やかとは対極にあるオチである。タイトルも表紙の絵も文体から受ける印象すらも裏切っていること夥しい。ただし、この作品ではこれが許せてしまう。むしろ、そこに愉しみを見出すべきなのだ。

前作のように小さくまとまらない、力のある1冊だった。

2006年06月21日

大崎善生『ドナウよ、静かに流れよ』(文春文庫)

大崎善生『ドナウよ、静かに流れよ』(文春文庫)大崎善生『ドナウよ、静かに流れよ』を読んだ。

ドナウに身を投げた邦人2人を追ったノンフィクションである。ということに、一応はなっている。けれども。読み終えてみれば、これは私小説といった方がいいのではないかと思う。事実、ノンフィクションとしての成果はあまり多くない。

ただ、私小説としてみれば十分に感動的だ。

何よりも全篇を通して吐露される著者の感傷こそが、この本最大の魅力であり、最大の欠点なのである。亡くなった少女の母親との会話の中で、著者はクリティカルな言葉を投げつけられる。それは「事実」は個人の中にしかないという身も蓋もない批判である。

著者は自問する。そして、それでも客観的な「事実」はきっとあるんだと、実にロマンティックな考えを自分に許す。そして、その一片でも掴むことができれば、と前進するのである。けれども、著者の思惑を他所に、本書はどんどん「大崎善生だけの真実」に向かって突き進んでいく。

確かに、著者はある程度の時間をかけて取材し、19歳の少女と33歳の自称指揮者の男性が死に到るまでの足跡を追っている。けれども、そこで語られるのは常に著者の感傷であり、掴み得た事実の痕跡はあまりにも少ない。

そもそも死の後に残された情報自体が少なかったのだろう。死んでいったふたりは、あまりにも孤立していた。だから、関係者たちの証言も実に断片的で、要領を得ない。少ない時間接しただけの、相当に恣意的な印象論を超えないのである。

そんな情報をたどたどしくかき集めながら、著者は自分の納得できそうな真実をただただ求め続ける。それは無垢な少女と弱い男の愛の物語へと収斂されていく。そこに到る根拠はないに等しい。すべては著者が切望し、創造した真実である。

この真実創造の物語がこの本を感動的なものにもし、不愉快なものにもしている。それは著者の執筆姿勢が、取材対象に対してあまり誠実とはいえないからである。著者が誠実だったのは、いつも自身の感情に対してなのである。

だから、やっぱりこれは私小説なのだと思う。

様々な不幸や不運に見舞われ、異国に渡り、孤独に打ちひしがれ、やがて怪しげな男と心中してしまった「無垢な少女」を幻視する40半ばの男の物語。それが、この本の真の姿である。だから、少女の死は至高の愛の結果でなければならなかったのだろう。

もちろん、提示された情報だけを拾えば、まったく別の解釈なんていくらでも可能だ。もっと救いのない結論だって簡単に導き出せるだろう。例えばふたりの関係を「深い愛情」ではなく「共依存」に読みかえるだけで様相はガラリと変わってしまう。

けれども、いい大人がそんな希望的観測ともいえるロマンティシズムに、恥ずかしげもなく身を預けようとする。その姿こそが、ラストに用意されたカタルシスの正体なんじゃないだろうか。そして、それが大崎善生という人の作家性なんだろう。

いずれにしても、正負によらず心乱される作品だ。

2006年06月13日

浦賀和宏『上手なミステリの書き方教えます』(講談社ノベルス)

浦賀和宏『上手なミステリの書き方教えます』(講談社ノベルス)浦賀和宏『上手なミステリの書き方教えます』を読んだ。

イジメられっ子八木君シリーズの3作目である。前作『火事と密室と、雨男のものがたり』を読んだとき、このシリーズは安定した、良い意味でのマンネリでもって続いていくのだと、ぼくは思った。ところが、その予想は3作目にして早くも覆されることになった。

やっぱり浦賀和宏が一筋縄でいくわけはなかったのである。

もちろん主人公の自虐的なまでの悲観思考は健在だ。くだらないイジメ描写なんて至芸といってもいい。内容が幼稚で低俗なほど、主人公の情けなさ、不甲斐なさがクッキリと浮かび上がってくる。忸怩たる、とは彼のための言葉である。

しかも今回は忸怩たる視点が2つのパートで展開されるのである。これはもう、無茶苦茶シツコイ。オタクによる自己正当化のためのオタク批判という世にも痛々しい展開はまさに真骨頂だ。ここまで悲惨だとほとんどコメディである。

オタクや萌えを俎上にのせるのに、この著者が煩悩を小奇麗に飾り立ててやんわり語ったりするはずがない。それはそれは身も蓋もない舌鋒が一片の躊躇いもなく炸裂している。だから、あまり真面目な人やうら若き女性にはまったく向かない。

きっと猛烈な吐き気や眩暈に襲われる。

ところで、このシリーズには最初から、探偵行為を行うということについて、メタミステリ的な視点が準備されていた。それが今回、そんなメタ要素が一気に突き抜けて、何故かウロボロス的な物語構造になってしまっている。

この作品ではいくつかのイベントが平行して描かれるのだけれど、主には2つのパートを交互に行き来するという、いかにも叙述系な構成になっている。ただ、この構成自体はさほど仕掛けとして重要視されている様子はない。

というか、オマケなんだろうと思う。

そのオマケ部分の関係が明らかになったとき、何故かお互いの世界がお互いを否定し合うような構図になっている。超常らしきものの扱い方もヒネクレている。ここまできて、そんな無茶な壊し方をしなくても、と思ってしまうくらいだ。

この辺りの気持ちの悪いズレ具合が、徹底した1人称描写と見事にマッチしている。気持ち悪い1人称がダブルで超気持ち悪いメタミステリになっているわけだ。伏線が一向に回収されないのも、さらに気持ち悪さを助長している。

ただ、小出しにされた八木の過去に関わる伏線については、どうやら次作『八木剛士 史上最大の事件』で語られることになるようだ。要するにこのシリーズ、最初はまるで個別の物語のような顔をしていたけれど、実は完全に続き物として構想されていたのだろう。

早くも夏に出るという次作に期待が膨らむ。

2006年06月08日

荻原浩『神様からひと言』(光文社文庫)

荻原浩『神様からひと言』(光文社文庫)荻原浩『神様からひと言』を読んだ。

この人の本を読んでいるとなんだか懐かしい気持ちになる。内容にではない。読書体験そのものに感じる懐かしさである。もちろんこれはとても個人的な感覚だろう。ずっと不思議に思っていたのだけれど、今日ようやくその理由が判った。

赤川次郎である。

ユーモアミステリの名手といわれ、ジャンルに縛られない作品を次々と生み出し、そのどれもがとても読みやすく面白かった。家にたまたまあった何冊かの赤川次郎が、小学生のぼくに小説を読む楽しさを教えてくれたのである。

たとえば、ユーモアのラベルを貼られながらも幅広い作品を書いている。そんな漠然とした共通点はあるにはある。けれどもそれは考えてみればそうだというだけで、読みながら感じ取るものではない。感じるのはもっと手触りや匂いに近い何かである。

『神様からひと言』の特徴は何だろう。

実のところ、ユーモアと聞いて想像するほど、この本はお気楽な内容じゃない。どちらかといえば、辛くて、哀しくて、スッキリしない話である。人間は弱い。そこからまず出発している。だから、身につまされるし身に沁みる。現実は思うに任せない。

そして弱さは良心を蝕む。良心を蝕まれた人間は醜い。社内紛争やお客様相談室を舞台にすることで、著者は人間の弱さ、醜さを浮き彫りにしていく。けれども、そこに陰鬱な暗さはない。代わりに、醜さを単純に悪とせず、決して切り捨てない眼差しがある。

これなんだと思う。

この眼差しこそ、ぼくがこの作品に感じた手触りであり、匂いなのである。時にどうしようもない弱さを、醜さを、そして悪意を描きながら、その先にかすかな光を見い出そうとする。その光は、ギリギリのところで手の中に残ったわずかな強さなのである。

それを握り締めることで人は良心や優しさを取り戻す。

笑いというのは、実は強さなのだろう。それも、弱さを知って初めて分かる強さである。著者がユーモアを作品に織り込むのは、それが人を生かすと知っているからかもしれない。失敗を笑い、悲惨を笑い、弱さを笑う。決して嘲るのではない。

嘲笑や皮肉をユーモアとはいわない。それは心根の弱さの表れだからだ。ただの脊髄反射のような笑いもやっぱりユーモアとはいえないだろう。それはネタの尽きた芸人が間のテクニックだけで笑いをとるようなものである。後には何も残らない。

この本には正しいユーモアがある。

そして、ユーモアを生むのは、たぶん知性と優しさである。

2006年06月04日

梅田望夫『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書)

梅田望夫『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書)梅田望夫『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』を読んだ。

タイトルには芸がないけれど、中身は凄い。

どうも『バカの壁』以来の中身の薄い新書ブームには辟易していたのだけれど、これは久々の大当たり。漠然と感じながらもきちんと体系化して考えてこなかった「今」が、シリコンバレーやウェブの世界を通して活写されている。

まず、ウェブで起こりつつあるパラダイムシフトが、とても解り易く説明されている。しかも、ウェブの世界だけに閉じた議論ではない。そこにこの本の本当の意義がある。提示されているのは、実にエキサイティングな世界認識の方法論である。

Googleに代表される新世代のネットベンチャーは、一般に中身が見え難い印象があるんじゃないかと思う。どうやら広告収入で急成長しているらしいなんて噂を聞いても、Googleのどこにそんなメディアとしての力があるのかよく分からない。

検索エンジンが今の潮流を決める鍵だったといわれても、サービス業として彼らの活動を眺めてしまうともういけない。だって、タダじゃないか、ということになる。しかもGoogleのトップページにもどこにもバナーがついてるわけじゃない。

モノもサービスも売らず、広告スペースも持たない。

それでもお金が動く。その仕組みが、とても納得の行く形で示されている。キーとなるのは"ロングテール"と呼ばれる新しいマーケットである。それはテクノロジーによって初めて意味を持ち得た、未だ完全には拓かれてない未知の市場である。

Googleはその未開の地に、強力な頭脳と技術力を持って乗り込んでいった。その働きが、インターネットの世界に新しい経済圏を生み出すに到り、Yahoo!やMicrosoftといった先駆者たちを、物凄い勢いで追い抜いてしまった。

たった7年で時価総額20兆円。

シリコンバレーにあっても破格の急成長である。そのダイナミズムを支える思想は広大無辺であり、それだけに一見荒唐無稽である。けれども、それを夢物語として片付ける知性や感性は、おそらくこれから起こる変化の兆しを見誤る。

Web2.0の世界はまだ始まったばかりである。それは開かれた情報と知の集積によって、新しい知の体系がほとんど0コストで生み出される世界である。そこにどんな新しい経済原理が生まれ、どんな地図が描かれるのかはまだ分からない。

世界を眺める新しい視点を手に入れる。

この本はそのための格好の手引き書となるはずだ。

2006年06月01日

乙一『ZOO 2』(集英社文庫)

乙一『ZOO 2』(集英社文庫)乙一『ZOO 2』を読んだ。

単行本の中から映像化されなかった6篇が収録されている。というような書き方をすると、何やら『ZOO 1』よりもつまらないような印象を与えるから不思議だ。一応断っておくけれども、特に完成度が1に比べて低いということはない。

ただ、映像化にはあまり向いていないかもしれない。

せいぜいその程度のことである。例えば、いかにもミステリ的な叙述を楽しむ「Closet」なんかは、映像化して意味があるとは思えない。文庫版だと5行目で仕掛けが見えるようになっているのだけれど、あれを映像で自然に表現するのは至難だ。

また「冷たい森の白い家」に見られる美醜のコントラストや、「神の言葉」のどこか冗談めいた惨劇は、本当に巧く映像化してくれるなら見てみたい。ただ、少しでもチープな画になると、きっとすべてが台無しになってしまう。

やっぱり、この手のお話は妄想力で愉しむのが一番だ。

それにしても、この人の文体は振れ幅が広い。文章の雰囲気というか表情の変え方が、厭味になる寸でのところで踏ん張っていて、著者の器用さが垣間見える。これはイマドキの若い小説家たちに共通の傾向のようにも思う。

文体がコピーライティングに近い戦略性を持っている。

その意味では『GOTH―リストカット事件』『ZOO』は、良くも悪くもイマドキありがちな傾向の作品だと思う。文体、題材、仕掛けなんかを冷静に組み合わせて、商品としての完成度を基準に作品を書きあげる。職業作家の自覚が強い。

だから、ぼくたちは用意されたアトラクションを、何も考えず、存分に愉しめばいい。もちろん、作家のオリジナリティがないがしろにされているわけではない。あくまでも戦略的に発揮されているというだけのことだ。

ウェルメイドな小説を安心して愉しめる、そんな1冊だ。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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