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2005年07月28日

栗田有起『ハミザベス』(集英社文庫)

栗田有起『ハミザベス』(集英社文庫)栗田有起『ハミザベス』を読んだ。

なんだか新しい。

真摯で深刻かもしれない題材を、真摯で深刻かもしれないけど、でもね…という絶妙なバランスで綴っている。何故か笑って読めてしまう。うまくはいえないけれど、そんな感じの作品だった。表題作と併録の「豆姉妹」、どちらもその感触は変わらない。これがこの著者の作風なんだろう。

とても得難いバランス感覚だと思う。

このふたつの作品には、それぞれの主人公にとってキーパーソンともいうべき変人さんが出てくる。彼女たちの言動や行動は、どう考えても一般的じゃない。とりあえず、変わっていることは間違いないと思う。ただ、共感できなくはない。これがまた絶妙。

ああ、変な人がちゃんと生きてるなあと思いながら読んでいて腑に落ちた。このふたつのお話に出てくる変な人たちは、結局のところ自分をしっかりと持ちすぎてるから面白いだけなんだと。そして、その変な人が、ごくごく自然に主人公たちの今やこれからに影響を及ぼしていく様が、読んでいて物凄く心地好い。

そして、さらに面白いことに、ユーモラスな笑いを提供するのは、そんな変わった人たちではない。その役を担っているのは、どちらかというと主人公や、その他の普通の人たちなのだ。このあたりの巧さは、天性のものかもしれない。

ファンになった。

他の作品も読んでみたいと思う。

2005年07月18日

本田透『電波男』(三才ブックス)

本田透『電波男』(三才ブックス)本田透『電波男』を読んだ。

正直これほどのものとは思わなかった。

ネット上で議論が炸裂し倒しているのも頷ける。これはかなりハイレベルなエンターテイメント大作だ。えらくネット寄りな文体や、オタクにありがちな引用過多も、その面白さに水を差すどころか棹差す勢いだ。そして、どのページのどの言葉を切り取っても侃々諤々自己主張バトルのネタにもってこいという、古今稀に見る超高密度地雷原なのだ。

今更その枝葉についてどうこういうつもりはない。その辺りの濃い議論なら検索一発で腹を下すくらい読むことができる。なのでここではあっさりスルーして、全体的な感想だけを書くに止める。

この本の根幹をなす「萌えで幸せになろう」というアイデアは、何も目新しい考え方ではない。作中にも引用されている養老孟司『唯脳論』や岸田秀『ものぐさ精神分析』辺りを読んでいれば、なるほどそっちにもってくか、くらいの軽い気持ちで受け入れられるものだ。

著者のいう「恋愛資本主義」にしてもそうだ。恋愛や結婚が男女(または同姓)間において何某かの「価値」を媒介に成立する契約関係であり、より良い契約を結ぶ(パートナーを手に入れる)ためには相応の投資が必要だというようなことは、何も最近になっていわれ始めたことじゃない。面白いのはその仮想敵に超大手広告代理店「電通」を据えたことくらいだろう。

それじゃあ、何が問題なのか。

そこにおさまり切らないルサンチマン(怨念)の発動…これに尽きる。著者は半ば意図的に行き過ぎた発言をしている節がある。たとえそのために論理的弱点をさらけ出したとしても、それがあるからこそ歪だけれど心を掻き乱す強い力がそこには宿っている。同時に、この本が(特に「負け犬」と呼ばれる)女性の反感を買う所以でもあろう。

ただ、その行き過ぎたルサンチマンはこの本のスパイスであって決してメインではない。「非モテのキモオタ」や「負け犬」といった立ち位置で、溜飲を下げたりムカついたりしながら読むのもいいけれど、それだけで消費してしまうにはあまりにもったいない。何故なら、著者は今時本気で「愛」を語ろうとしているからだ。それも「電車男」、「いま会い」、「セカチュー」といったブームの尻馬にのった気持ちのいい純愛の話ではない。人間なら誰もが一度は願うであろう切実で根源的な「愛」についてだ。

それこそが著者最大の地雷なのである。

本文は徹頭徹尾エンタメ路線を崩さない。ニュートラルな立場で読みさえすれば最後まで存分に楽しめる内容といっていい。けれども。

著者最大の地雷は「あとがき」で炸裂する。

ここで「ドン引き」するか涙するかでこの本の印象は180度違ったものになると思う。そこでは、迸るエンタメ・パワーの源流が語られる。当然、極々個人的な話だ。ぼくは敢えてこれを書いた著者の本気を信じたいと思う。ここだけはエンタメにできなかった著者の叫びは、ただの露悪趣味や同情を得るためのポーズなんかじゃない。

ぼくはこの本の本当の価値は、新しい価値観や思想の啓蒙にあるのではないと思っている。だから「女性にこそ読んで欲しい」という煽りなどは2次的なものだと捉えている。というのも、この本はやっぱり「オタク」を救う可能性があると考えるからだ。こと、彼らの暴力衝動を、だ。

『電波男』はオタクの鬼畜化抑止の真に正しい処方箋なのである。

2005年07月14日

林望『リンボウ先生の閑雅なる休日』(集英社文庫)

林望『リンボウ先生の閑雅なる休日』(集英社文庫)林望『リンボウ先生の閑雅なる休日』を読んだ。

この本を手に取ったのは、全くの偶然といっていい。いつもは現行の本を読み終える前に次の本を買い置いておくのだけれど、このときはどうもタイミングが合わず、買う前に読み終えてしまった。書店に行ったはいいけれど、電車の時間が迫っている。選んでいる暇はない。平置きの一番端にあった文庫本を取ってレジに向かった。

結果、好い本に当たったと満足している。

内容は、多趣味、博学の著者によるエッセイ集。読んだのは初めてだけれど、林望という名前は普段からよく目にしていた。気にはなりつつ、何やら読者層にスノッブな匂いがして避けていたようなところが、正直あった。これをして偏見という。実によろしくない。本当にリンボウ先生のファンであれば、スノッブなどとは対極にあることは間違いないのである。そんなことは少しでも読めば分かることだ。

確かにリンボウ先生の暮らしぶり、趣味、学識の豊かさは、まかり間違えば厭味にもなろう。けれども、リンボウ先生は努力の人、意志の人であるらしいのだ。文中に垣間見えるそういった一面がまた、著者の大きな魅力になっている。恵まれた環境と多忙な生活の中に、意志の力で"閑雅"を求める。その中で培われた哲学が、決して大上段に構えない視線と筆致で綴られている。楽しく読めて、得るところも多い。

結局のところ偏見で一番損をするのは自分自身なのだ。

ともあれ、書店での偶然に偏見で曇った目を濯がれ、新しい楽しみが増えたのは幸運だった。心の楽しみリストに林望の名を追加。これからも折に触れてその著作に手を伸ばそうと思う。

2005年07月11日

浦賀和宏『火事と密室と、雨男のものがたり』(講談社ノベルス)

浦賀和宏『火事と密室と、雨男のものがたり』(講談社ノベルス)浦賀和宏『火事と密室と、雨男のものがたり』を読んだ。

暗い暗い青春ミステリだ。『松浦純菜の静かな世界』に続くシリーズ2作目。極めて不細工かつオタクな苛められっ子が主人公で、当然のように殺人事件だって起こるのだから、話の明るくなる道理がない。実はほんの少しくらいは光の射す場面もあるのだけれど、ささやか過ぎてカタルシスになどなり得ない。それは前作のラストを踏まえて読むと尚更よく分かる。

もっといえば、前作と合わせて読むと、シリーズの方向性がある程度見えてくる。すでに「お約束」はできあがっているらしい。その「お約束」の中で事件は起こり、真相らしきものが明かされ、ひとまず終息を迎える。流れとしては驚くくらいオーソドックスなミステリなのだ。おそらくこのシリーズは今後もこのパターンを踏襲するだろうと思われる。

ただし、その真相が真実である保証は全然ない。

それにしても、このシリーズキャラクターの弱さ加減は、読んでいてとても気持ちが悪い。グチグチと煮えきらず自意識過剰でプライドが高い。しかも、そのことに自覚的で、時に自虐的ですらある。ぼくのような人間はどことなく身に覚えがあるだけに始末が悪い。

主人公八木剛士はとことん突き抜けられない男だ。

あらゆる意味で前シリーズの主人公安藤直樹とは正反対のメンタリティの持ち主といえる。いや、安藤直樹もシリーズ初期作品ではどちらに転んでもおかしくない人格だったのだけれど、壮絶な鬼畜体験で完全に人間らしい柵をぶち破ってしまった。その点で彼は主人公らしい主人公だったともいえる。翻って、八木剛士ほど主人公向きじゃないキャラクターもいない。

なかんずく、懐かしき江川達也の漫画『東京大学物語』ばりのモノローグは実に鬱陶しい。言わずもがななことを敢えて書き散らかして、読者の気分を害する芸風は著者ならではかもしれない。いや、その手の露悪自体は最近のオタク系作家によくある習性なのだけれど、浦賀和宏の書くそれは苦笑いにもならないしつこさなのだ。

共感したくはないけれど、読む不快が味になってくる。

それにしても、著作の魅力を語れば語るほど、悪口を書いているように見えるのが辛いところだ。確かにぼくは、安藤シリーズの方が気に入っている。けれども、八木君だって嫌いじゃない。そして、量産できるのは明らかに八木シリーズの方だろう。この「お約束」の世界で、どんなドンデン返しを見せてくれるのか。そんな期待をしてしまうのも、安藤シリーズの後遺症なのである。

兎にも角にも、ガンダムオタクにこの本はお勧めできない。

2005年07月09日

池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社文庫)

池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社文庫)池永陽『コンビニ・ララバイ』を読んだ。

あざといまでの人情物だ。それがどういうわけだか好もしい。登場人物の誰もがありふれた、けれども深刻で誰にも肩代わりできない傷を負っている。そんな話はもうお腹一杯だと、読み始めてすぐに思った。けれども、そんな感想はすぐに霧消した。

ありふれた絶望が、ありふれた感傷が、ありふれた愛憎が、ありふれたエピソードにのせて語られる。それでいい。人情話とはそういうものだ。あとは語りの腕ひとつ。登場人物に愛を感じられるかどうかにかかっている。その点、著者の腕に狂いはない。

それこそがこの本の最大の魅力といっていい。

どんなにみっともなくても、どんなに情けなくても、その人の幸せな姿を見たい。どうか、幸せな結末を用意してあげて欲しい。読めばきっとそんな風に思うはずだ。著者はもちろん、彼らに安直で甘い人生を用意したりはしない。描かれるのは彼らの人生のほんの一部だ。そこには始まりも終わりもない。彼らのこれからが少しだけ変わるかもしれない。そんなできごとが、丁寧に、けれども深い追いすることなく描かれている。

その切り取り方は絶妙という他ない。

人はきれいなばかりでも、汚いばかりでも、強いばかりでも、弱いばかりでもない。この本は、そんな当たり前のことを思い出させてくれる。

2005年07月07日

志村史夫『こわくない物理学―物質・宇宙・生命』(新潮文庫)

志村史夫『こわくない物理学―物質・宇宙・生命』(新潮文庫)志村史夫『こわくない物理学―物質・宇宙・生命』を読んだ。

まず、これは物理学についての本ではない。物理学的な知識をもった人が自然の驚異にアプローチする。その姿をダイジェストで垣間見るための本である。物理学に関する突っ込んだ記述がないという意味では、確かに文系でも「こわくない」内容といえる。

シロウト向けに書かれた本で、内容そのものはまったく難しくない。これまでに自然科学が解き明かしてきた成果を、ごく簡単に紹介しながら話は進められていく。お陰で、漠然とした聞きかじりの知識を再確認したり、これまで知らずにきた科学的自然の姿に感心したりと、ちゃんと知的好奇心を刺激する内容になっている。

科学者というのは神秘に突き当たるための職業なのかもしれない。

この本を読み通した感想だ。著者自身もあとがきに書いている。「科学」をやればやるほど、「科学」の限界を実感し、「宗教心」が芽生えるのも自然な気がする、と。念のために書いておくけれど、ここでいう「宗教心」は必ずしも既存の宗教に帰依する心をさしているわけではない。最先端の知の先には人知を超えた何かしかない。それは言葉の上からも自明だ。

それは安直な神秘思想とは一線を画すものだ。

そんな思想のもとに書かれた一般書だから、援用されるのは自然科学の知識だけに止まらない。多分に哲学的な記述が含まれている。古来、哲学者と科学者の間に区別などなかったのだから、これは別に珍しがるようなことではない。科学を支えているのはロマンに満ちた直感ではないかとさえ思う。

生命の起源、宇宙の起源を追い掛けながら、人間の知的冒険の軌跡を手軽に概観する。答えなんてものはない。だからこそ魅力的な本だと思う。難点をいえば、文章が少しばかりスマートじゃないことくらいだ。とはいっても、もともと作家でもない人が書いた本だ。表現がなかなか端的にならないのは、科学者らしい真摯さの表れともとれる。それに、端的でない分、知を楽しむヒントがたくさん詰まっている。ただ、疲れているときの読書には向かないかもしれない。

ともあれ、飽くなき好奇心こそが神秘の扉を開く鍵であるらしい。

2005年07月02日

澁澤龍彦『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(学研M文庫)

澁澤龍彦『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(学研M文庫)澁澤龍彦『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』を読んだ。

著者最後のエッセイ集だ。1980年代前半から、咽頭癌で幽界の人となる1987年までに書かれたものが、テーマに依らず幅広く採られている。身辺雑記的なものも含む随想、書評や推薦文など書物関連の短文、絵画や写真などビジュアル方面の作品に寄せて書かれたもの、博物学的興味に寄り添って書かれたエッセイ、東京や鎌倉周辺の今昔、そして、生前かかわりを持った文人たちへの追悼文。

著者の人となりが偲ばれる、比較的珍しい著作だと思う。龍子夫人の手になる「あとがき」もいい。文字通りの最愛を誓い、実践するため、敢えて子を成さない人生を選んだというのだから、その絆の深さが一通りでなかったことは想像に難くない。夫に先立たれて二年余、星霜に削がれぬ哀惜の念が滲む、胸に沁みる文章だと思う。

以下、個人的なことを書く。

ぼくは、学生の頃初めて触れた澁澤本に魅せられ、河出文庫の「澁澤龍彦コレクション」をよく読んでいた。そこに紹介される幾多の人物や挿話は、エロスとタナトスに彩られ、異端の香りに満ち満ちていた。決して冗漫に語られるのではない。そんなめくるめく耽美の世界が、硬質で端正な文体で綴られているのである。

ぼくが著者の本を読み始めたとき、すでに彼の人は鬼籍に入っていたわけだけれど、その独自の美学とダンディズムに惚れ、憧れを抱かずにはいられなかった。もちろん、著者が好んで俎上にのせる幻想文学、異端文学の数々にも惹かれてはいたのだけれど、さほど読書家ではないぼくが実際に手にし、読んだ本はとても少ない。それよりも一貫して異端、幻想を偏愛する著者の姿勢そのものや、怜悧な文章に魅力を感じていたのだと思う。

ぼくが一時オカルティズムに傾倒したのも澁澤龍彦の影響だった。『黒魔術の手帖』でその価値観の多様性に蒙を啓かれ、コリン・ウィルソンの『オカルト』なんて百科事典的な本を読んだりもした。果ては大学の卒論にまでオカルトがらみの話を採りあげたりと、結構なハマりようだったと思う。

なんて書くと思い入れたっぷりに見えるけれど、実はそれほど網羅的に著作を読んだわけでもない。前にも書いたけれど、ぼくは、かためて同じ著者の本を沢山読むということをしない。だから、未読の著作はまだまだいくらでもある。著者が亡くなってはや18年。もうその著作が増えることはない。けれどもぼくは、これからも折に触れて、澁澤本に手を伸ばすことができる。

思い立って帰る場所があるというのは幸福なことだと思う。

2005年07月01日

恩田陸『劫尽童女』(光文社文庫)

恩田陸『劫尽童女』(光文社文庫)恩田陸『劫尽童女』を読んだ。

超能力少女のお話だ。著者自身がいう通り、極秘に行った超能力開発の実験体を組織が追っているという設定はスティーブン・キングの『ファイアスターター』を下敷きにしたものだろう。人為的に強大な力を植え付けられた少女。その力を巡る軍や地下組織によるパワーゲームというバックグラウンドはもろに大友克洋の漫画『AKIRA』の世界でもある。とはいえ、そこは恩田陸のこと、素直な超能力アクションであるはずもなく、むしろ、超能力の発動シーンは思ったより少ない。それよりも、一筋縄でいかない構成の妙に、唸りながら読むのが正しいと思う。

ステレオタイプともいえるSF的世界観をモチーフにしながら、そこに描かれるのは、「化け物」として生まれついた少女が、その血に塗れた過酷な人生の中で、生きる意味と居場所を見付けるまでの成長物語だ。核ミサイルを巡るエピソードなど、著者の作品中でも比較的大掛かりな仕掛けが楽しめる作品でもある。意外に人情味に溢れているあたりも含め、宮部みゆきのSF寄りの作品が好きな人なんかにもウケそうなテイストだ。

それにしても、"力"の表現に関して大友克洋の果たした役割は大きい。

『童夢』で試みられた"見えない力"の視覚化の方法は、その後間もなく完全にスタンダード化してしまった。それは狭義での超能力に限らず、"気"や"オーラ"を持ち出すバトルアクションでも不可欠な表現となっている。この『劫尽童女』でも、力の兆しを示す場面や、大きな力が爆発する場面で、その視覚的イメージをそのまま言語化したような表現が多々見られる。ついでに言えば、力の副作用で外見が急速に老化しているトオルや、ガラスケース越しに中のおはじきを自在に動かす訓練など、『AKIRA』を思い起こさせるシーンは少なくない。

誤解のないように書いておくけれど、ぼくは何もオリジナリティについての話をしているわけではない。いくら先人の発明した表現を多用していようとも、恩田陸がオリジナリティ溢れる作家であることに変わりはない。何といっても『劫尽童女』は良質なビルドゥングスロマンである。ラストに見られる眩いまでの少女の成長は、ストーリーテラーとしての著者の実力を十分に示している。

先人が発見した豊かな水源を後世に伝える。

それも語り部が果たすべき大切な仕事のひとつだと思う。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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