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2005年02月23日

半村良『戦国自衛隊』(角川文庫)

半村良『戦国自衛隊』(角川文庫)半村良『戦国自衛隊』を読んだ。

最近、本作再映画化の噂を聞いて昔テレビで見た映画版“戦国自衛隊”の無邪気な興奮を思い出した。原作も随分前に読んだはずなのに映画の記憶とチャンポンになっていてよく思い出せない。というわけで、角川文庫から出ていた新装版を購入した。

凄い。無茶苦茶面白い。

プロットの面白さでいうなら映画版の比じゃない。そもそも映画版はノリでアドレナリン出しまくるのが身上のお馬鹿作品。若き千葉真一率いるJACが近代兵器をもって戦国の世で暴れまわり、全く無意味なアクションを繰り広げるという泣く子も引き攣る痛快青春アクションなのだ。要するにプロットらしいプロットなんて初めからないに等しい。

ネタバレになるのでここには書かないけれど、ラストで明かされるSF的オチは映画では完全に無視されていた。こんなによくできた話なのに今思うと本当にもったいない。いわゆるSFにも歴史モノにも興味のない人でも十分に楽しめ、納得できるだけの明快さを持っている。

マニア向けの閉塞したSFではない誰もが楽しめる傑作だ。

ところで、この夏公開の映画版、タイトルが“戦国自衛隊1549”となっている。さらに、よくよく見てみると原作は福井晴敏。話題作“ローレライ”の原作の人だ。

なんと、リメイクではないらしい。

2005年02月21日

舞城王太郎『熊の場所』(講談社ノベルス)

舞城王太郎『熊の場所』(講談社ノベルス)舞城王太郎『熊の場所』を読んだ。

著者初の短編集だ。単行本で出たときはコストパフォーマンスを考えて保留していたのだけれど、ノベルスで出てしまった以上文庫化までは遠いと判断して購入。それでもページ数を思うと高い。

この前に西尾維新の新刊も読んだので、ここのところ「ゼロの波」ばかり固めて読んでいることになる。舞城王太郎は同じ波の中にいて、一人少し歳が離れている。その差異は多少なりとも作品にも表れているように思う。それは幸福だとかそういう幻想に対するスタンスの違いだったり、人間だとか自分だとかいうものの受け入れ方の違いだったりする。

世界は理不尽でどうしようもないものだ、というような夢のない立ち位置は共通しているものの、その先に立ち上がってくる物語はずいぶんと違ったものになっている。悲惨で救いのない現象を描きながら、舞城王太郎のそれには多分に意識的な人間賛歌が感じられる。

こんな世界に生きている以上、力の限り、全力で、暴力も妄想もフルに活用してもぎ取らない限り誰も幸せになんかなれない。だからとりあえず、目の前の問題は解決を考える前に撃破する。そんな一見極端に見えて、その実すこぶるまっとうな原理で舞城作品の世界は語られる。

家族や社会や愛や幸福への極端に意識的な前進。

それは(少なくとも現時点での)西尾維新や佐藤友哉にはない感覚だ。その視点は独特の文体とともに舞城王太郎が特に「文学」系に歓迎される所以でもあると思う。

端的に言うと文体や描写の割りに内容自体は実に甘口だ。

2005年02月18日

浦賀和宏『松浦純菜の静かな世界』(講談社ノベルス)

浦賀和宏『松浦純菜の静かな世界』(講談社ノベルス)浦賀和宏『松浦純菜の静かな世界』を読んだ。

佐藤友哉のことを書いたとき触れた「メフィスト賞」。実はここから出た作家の殆どの作品を読んでいる。読み残しているのは3人だけ。それほどぼくは、この玉石混淆ともいえる賞を楽しみにしている。少なくとも、これほど積極的に新人をデビューさせる賞は他に類例がない。

浦賀和宏もここからデビューした作家の一人だ。

彼は同じくメフィスト組の清涼院流水と並んでえらく叩かれた作家の一人だった。確かにうまい文章だとは思わなかったけれど、ぼくにはそんなことが問題になるようなレベルの作品だとは思えなかった。だから、おおいにハマったし、次回作を本当に心待ちにした。
最近の評価はよく知らないけれど、新しい才能に反発はつきものだと思えば当然の成り行きだったのかもしれない。今や大御所といっていい綾辻行人だってデビュー当時は大変だったようだし。

デビュー作『記憶の果て』から『学園祭の悪魔』までの一般に「安藤シリーズ」と呼ばれる作品群は、当時の新本格全盛期にあって凄まじい衝撃力を持っていた。浦賀和宏が「ゼロの波」を準備したといってもいい過ぎではないと思う。それくらい、彼の登場はエポックメイキングだった。もちろん、今でもその破壊力はいささかも衰えていないし、初期作品の多少の読み難さを棚上げしても読む価値があるとぼくは思う。

『松浦純菜の静かな世界』はシリーズ外の作品だ。そしてかなり普通に推理小説している。浦賀作品としては異常なくらい正統派だ。もともと、本格に対する思い入れは強いのだと思う。だからこそ、その「お約束」を過激なまでに破壊してみせることができた。裏を返せば、正当な本格推理モノも書ける素養があるということだ。実際、安藤シリーズ以外ではそういう一面を見せてもいる。しかも結構高いレベルで着地している。『松浦純菜の静かな世界』も推理小説として十分楽しめる作品だった。

けれども。

ぼくは初期「安藤」モノの衝撃がどうしても忘れられない。ついあの流れの作品を期待してしまう。講談社ノベルスから本が出ると余計に。だから、今回は今回で面白かった。でも、それはあえて横に置いてしまおう。そして。

次こそ「安藤シリーズ」最新作を読めますように。

2005年02月16日

佐藤友哉『鏡姉妹の飛ぶ教室』(講談社ノベルス)

佐藤友哉『鏡姉妹の飛ぶ教室』(講談社ノベルス)佐藤友哉『鏡姉妹の飛ぶ教室』を読んだ。

佐藤友哉は「メフィスト賞」というミステリー系の賞を受賞してデビューした作家だ。けれども、近頃どう考えてもミステリーとはかけ離れた小説しか書いていない。ある時期以降、それがこの賞自体の傾向になっているような気もする。新本格を凄い勢いで突き抜けた先の娯楽小説とでもいった感じだろうか。母体の雑誌である「メフィスト」のコピーを見ても<エンタテインメント小説の宝庫>となっているくらいだから、そういう戦略なのだろう。

彼はまた、舞城王太郎、西尾維新と並んでゼロの波の新人などとも呼ばれる。ただ、講談社がそうやって売り出しただけで、これといった共通点はない。ないけれど、この人たちの作品の読者はかなり重なっているのじゃないかな、とは思う。その程度には共通した空気を持っている。

とてつもなく大雑把で暴力的ないい方をすれば、ぼくが思う彼らの作品の共通項は「過剰性」だ。その手の過剰性は、今までは一部のアングラな人々だけのものだった。世界は悪意や悲劇や苦痛や孤独に満ちていて、うまく生きられないのが当たり前。トラウマや暴力や死はデフォルトでしかない。

そんな中でも佐藤友哉の小説は一層屈折している。その歪み方はそれだけでエンターテイメントの域といっていい。というより、それこそが彼の小説の本領なのだ。先行作品からのあからさまな引用やオタク的描写に満ち満ちた文章は、物語ることを半ば放棄しているのではないかとすら思える。

今回読んだ作品は<鏡家サーガ>と呼ばれるシリーズの最新作である。なんと新人なのに3年振りの新作。表向きの言葉をそのまま信じるなら、どうやら本が売れなかったせいらしいのだけれど、一読、相変わらずの屈折ぶりでまずはひと安心といったところ。

登場人物はみんな図抜けて傲慢だったり図抜けて卑屈だったり、圧倒的に強靭だったり圧倒的に欠落していたりとげっぷが出そうな面々である。死体なんて当然のようにてんこ盛り、残酷描写も垂れ流しだ。なのに全然怖くないのも予定通りだ。ピーター・ジャクソンの“ブレインデッド”みたいなもので、それはそれで正しい読まれ方だと思う。

ただ、その性質がずいぶん西尾維新方面に振れているような気がする。シリーズ前3作ではハッキリとしていた差異が、随分と詰まった印象を受ける。具体的には「裏財閥」「初瀬川研究所」といった設定や、萌え要素のばら撒き方や、「十全」「重畳」といった語彙の選び方だ。時折、西尾維新の<戯言シリーズ>を読んでいるような錯覚を起こしかけた。

ただ、そのお陰もあってか、著者の作品中では、ずいぶんと読みやすい仕上がりになっている。展開もしっかりエンターテイメントしている。クライマックス辺りの大団円など今までの著作にはなかった趣向だ。実をいうとそこが少し物足りなかった。ちょっとらしくないなあ、と思ってしまった。確かに西尾維新は売れている。けれども、ふたりは要らない。

こうなると編集部の入れ知恵だったら嫌だな、などとあらぬ妄想までしそうになる。編集と作家ががっちり四つで頑張るのは結構だけれど、あまりに流れを作り過ぎたのでは作家の個性を潰してしまいかねない。もちろん売れなければ世に問うこと自体できないのだから、職業作家としての計算は必要だろう。

要は程度の問題である。

2005年02月13日

恩田陸『月の裏側』(幻冬舎文庫)

恩田陸『月の裏側』(幻冬舎文庫)恩田陸『月の裏側』を読んだ。

舞台となるのは九州の水郷「箭納倉」。町中を堀が縦横に走る水の町だ。モデルは福岡県柳川市。行ったことはないけれど、観光地としては魅力的な場所のひとつだと思う。

著者独特の文章のイメージ喚起力はいつもながら群を抜いている。不思議に郷愁をともなう情景はもちろん、気温や湿度といったまとわりつくような皮膚感覚までもがとてもリアルに感じられる。いかにも著者らしい人物造形や、印象を伝える比喩表現なんかに相性はあるかもしれない。けれど、その視点の自由さと確かさに、結局は納得させられてしまう。

この作品について語る際のお約束ともいえるので一応触れておくと、作中でも触れられているジャック・フィニィの『盗まれた街』という先行作品がこの作品の状況的な下敷きになっている。この小説は“SF/ボディ・スナッチャー”というタイトルで映画にもなっているので知っている人も多いかもしれない。

要するに、不定形の何者かが人間をそれと分からないうちに乗っ取ってしまうというお話で、SFでは「侵略モノ」なんて呼ばれてひとつのサブジャンルになっている。ちなみに“ブレイン・スナッチャー~恐怖の洗脳生物~”という紛らわしいタイトルの映画も同じジャンルの作品で、ロバート・A・ハインライン『人形つかい』が原作になっている。口さがないSFファンの評を借りるなら、『盗まれた街』『人形つかい』のパクりということになるらしい。

そんな不穏なことを書いておきながら、ぼく自身はオマージュやパスティーシュやパクりの話はややこしい上に面白くもないので余り考えないことにしている。ジャンルやテーマというのは多岐に渡るようでいて実はそうでもないのだろうし、既存の作品と一切関わりを持たないなんてことは土台あり得ない。大事なのは何をどう見せるか、だ。その意味で恩田陸は唯一無二であり、確固としたオリジナリティを持った作家だと思う。

ミステリ風の導入、侵略SF風の状況設定、キング系スーパーナチュラルホラー風の描写。そんなオイシイ要素を満載しながら、個のあり方を問い、人間という存在の弱さや頼りなさを暴露してみせる。前半じわじわと植えつけた価値観を後半ガラリと根元から揺さぶる手腕は実に鮮やかだ。

自我に固執すると同時に、他者との強固な繋がりも求めるアンビバレンツ。もしも、どちらかを捨てなければならなくなったとき、どちらを選ぶのが幸せか。確信は既に揺らいでいる。長靴を脱ぐか否か。

これは最後に究極の選択を迫る作品だ。

2005年02月08日

本橋信宏『フルーツの夜』(幻冬舎アウトロー文庫)

books050208.jpg本橋信宏『フルーツの夜』を読んだ。

著者は元来ノンフィクションの人だ。それも著しくアングラ寄りの。そして『フルーツの夜』は著者初の小説集である。その一見可愛らしいタイトルを裏切って、相当にヘヴィな人間模様が描かれている。それが大袈裟にならないのは、それこそ彼の経歴のなせる技だろう。

舞台となるのは1991年からのおよそ10年間。ノンフィクションライターの「僕」が薬漬けの日々から脱し、やがて夫となり父となるまでの時間が、その特異ともいえる人間関係を軸に語られる。

これはどう読んでみても著者自身の物語だ。

そう感じるのは人の描かれ方や時代風俗の切り取り方がとてもリアルなせいでもあり、登場人物がいちいち現実の著名人を連想させるせいでもある。本橋信宏の他の著作をチラッとでも見れば誰しもそう思うはずだ。もちろん小説として書かれている以上、そこには創作が多寡を問わず含まれ、物語としてコントロールされていることは間違いない。

著者自身の言葉でいえば「外連」だ。

あとがきでのネタバラシは余計だったけれど、連作としての構成にも遊び心を持って気が配られている。その点明らかにノンフィクションとは一線を画している。そういう意味では、私小説と呼ぶのが一番近いかもしれない。

この小説が私小説として稀有なのは、同時にビルドゥングスロマンでもあるところだ。「僕」は作中の10年間で明らかな成長を示す。『フルーツの夜』はその成長した「僕」の視点で語られた物語ともいえる。悲惨さやどうしようもなさの中に、温かみや優しさを感じる所以だろう。

謂れのない漠然とした不安に効く小説である。

2005年02月04日

宮沢章夫『サーチエンジン・システムクラッシュ』(文春文庫)

宮沢章夫『サーチエンジン・システムクラッシュ』(文春文庫)宮沢章夫『サーチエンジン・システムクラッシュ』を読んだ。

著者はそもそも演劇界の人らしい。1992年には岸田國士戯曲賞を取っているというから、その世界では鳴り物入りだったのかもしれない。どちらにしろ、活字が対象の賞を獲っているわけだから、その段階で文才はあったのだろう。

ぼくが読んだのは文春文庫版で、表題作の他に「草の上のキューブ」という短編が収められている。

両収録作ともに初出誌は「文學界」。2000年に芥川賞候補にも挙がっている。つまり純文学ということになるのだろう。純文学と大衆文学という今では殆ど無効化しているのかもしれないジャンルの違いについては、ぼくは勝手にただ文体の違いだと考えることにしている。テーマやモチーフによる区分けなんてできないからだ。その意味でこの著作は正しく純文学的だと思う。

例えば、歯切れの良い短文を重ね、丁寧で判りやすい描写を旨とする正しく大衆文学的な文体が好きな人には少し読み難いかもしれない。ただ、それも最初のうちだけで、その独特のグルーヴ感のある文章は、一度はまり込むと途中で目を上げることができないくらいだ。

表題作は男が探し物をする話だ。探し物はころころと変わっていく。それは殺人犯の旧友の痕跡だったり、「アブノーマル・レッド」という名の風俗店だったり、自称芸術家が道路や壁にひいた赤いチョークの線だったり、謎の会員制クラブの女に指定された喫茶店だったりする。そのどれもが目的を果たせないまま次から次へと移ろっていく。その様子を描く文体は常にどこか朦朧としていて、心地よい酩酊感を生み、現実と非現実の狭間に漂っているような不思議な気持ちになってくる。

それは、何か面白いものはないかとサーチエンジンからリンクをたどって漠然と探し物をしているうちにそもそもの目的が曖昧になっていく様子に似ているかもしれない。本当に欲しているものは何か。わからないのに何かを求めているという確信だけは持っている。

そんな探し物は見つかりようがない。

「草の上のキューブ」は、より直接的にネットワークをモチーフとした話だ。純文学で田舎の中年クラッカーを描くことが珍しいとかそれだけの話ではない。こちらもどこかで確固とした自分が揺らぐ話だ。やっぱりグルーヴ感と酩酊感が全体を支配している。この文体に酔えるかどうかが、この作家を好きになれるかどうかのポイントかもしれない。ぼくは知らない内に酔っていた。心地好い。活字を目で追っていることを忘れる。

この人が小説を書いたらまた読みたいと思う。

2005年02月01日

アンソロジー『時代小説 読切御免第一巻』(新潮文庫)

アンソロジー『時代小説 読切御免第一巻』(新潮文庫)アンソロジー『時代小説 読切御免第一巻』を読んだ。

実をいうと時代物には妙な苦手意識があって今まで極力避けて通ってきた。小学生時分からの歴史嫌いであり、生粋の歴史音痴である。お陰でこのジャンルは、ぼくにとってはいまだニューフロンティアである。そこに新たな愉しみを見出すべくついに手を伸ばしたというわけだ。

親しみのないジャンルに手を出すときは、とりあえず定評ある名作か、アンソロジーを読むことにしている。今回読んだのは新潮文庫から出ているシリーズモノのアンソロジーで、現役人気作家の短編が気前良く収められている。この巻の作家陣は次の通り。

  • 北方謙三
  • 宮部みゆき
  • 小松重男
  • 安西篤子
  • 南原幹雄
  • 皆川博子
  • 船戸与一

たとえ読んだことはなくても、よく聞く名前ばかりだ。こうしてみると、必ずしも時代物イメージの強い面子ばかりでもない。お陰でぼくのようなジャンルにに不案内な人間には取っ付き易かった。

今回の収穫は何といっても安西篤子と南原幹雄だ。

どちらも初めて知った。安西篤子はとにかく文章が好かった。訥々とした語りでじわりとくる。読み易いのだけれど力があって、少々重い目の余韻を残す。南原幹雄は展開がミステリ的で親しみ易い面白さ。本格推理的な読みをすればアンフェアといわれかねない描写があったりもするけれど、それを疵と呼ぶには及ばないと思う。

もちろん他にも面白い話はあったけれど、既に他作で知っている作家だったりもしたので、先の2人ほどには印象に残らなかった。それよりも気になったのは、各作品の後に付された、ちょっとしたコラムのようなものである。これがなかなかに面白い。本編の時代や風俗に絡めて、その周辺の話題が紹介されている。これが下手に解題、解説の類がついているよりもずっといい。

こういうプラスアルファの要素もアンソロジーの良さかもしれない。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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