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2006年08月29日

大槻ケンヂ『リンダリンダラバーソール』(新潮文庫)

大槻ケンヂ『リンダリンダラバーソール』(新潮文庫)大槻ケンヂ『リンダリンダラバーソール』を読んだ。

ついにオーケンがバンドブームを書いた。個人的には80年代後期に勃興したこのブームにさしたる思い入れはない。バンドインフレを決定付けたいわゆる「イカ天」の頃、ぼくは中学生だった。バイトに明け暮れ、アングラに浸かるには幼く、住んでいる土地も辺境に過ぎた。

経済原理に乗ってアングラカルチャーはメインカルチャーへと飛翔した。その節操のなさは才能の有無を超えて若者たちに夢を見させ、粗製濫造の末にブームを短命にもした。派手で泡沫的な狂騒の後には、悲喜こもごもの人間模様が長く糸を引いている。

筋肉少女帯の一員として狂騒の真っ只中にいたオーケンが、自らを狂言回しにその糸を手繰ってみせる。これは、そういう趣向の小説である。エッセイではないし、事実をありのままに描くのでもない。ひとりのバンドマンの目を通して見た、ブームへの感傷であり郷愁である。

若者は空虚な表現欲をもてあまし、悶々とする。やってやる、と拳を振り上げるも、やるべきことがない。そして、奇妙な服を着、奇怪な詩を詠い、無意味に過激なパフォーマンスを繰り返す。そんな彼らが訳も分からないまま、突如キラキラと輝く桧舞台に立たされる。

バンドブームというのはそういうものだったんだろう。

狂騒は闇雲に加速し、ひた走る彼らはいつか梯子をはずされるだろうと感じながらも、既に止まることも引き返すこともできない。そして、宙を舞った彼らの落ち着く先は様々である。オーケンはそのひとつひとつを拾い集めながら、彼らの生き様を肯定して回る。

著者は生来のロマンチストなのだろう。

時に情けなく愚かに見える彼らの生き様を、いっそしみじみと愛しているのかもしれない。ブームを乗り切り大成する者、居場所を見付け軟着陸に成功する者、地面に叩きつけられ転がされても立ち上がろうともがく者、彼方へ霧散し見えなくなる者…。

キレイ事ではないからこそ、そこにはロマンティシズムが必要なのだし、ロックというのはそういう痩せ我慢の音楽でもある。オーケンは今でもロックしている。ロマンティシズムに生きている。キレイ事ではないロマンティシズムを生きている。

そしてバンドブームは確実に著者の一部になっている。

泣き笑いの青春群像につい胸が熱くなった。

2006年08月28日

機本伸司『神様のパズル』(ハルキ文庫)

機本伸司『神様のパズル』(ハルキ文庫)機本伸司『神様のパズル』を読んだ。

キラキラしたアニメのような表紙ほどに気楽な作品ではない。主人公は内向的で内省的だし、ヒロインはツンデレに着地することもなく、最後まで我が道を歩き続ける。そもそも、表面的な書き分けはされているものの、全てのキャラクターに共通の暗さがある。

お陰でこの作品に描かれる大学生活は妙にリアルである。

要するに、爽やかな学園ドラマを期待して読む本ではない。青春モノにつきものの失恋や挫折は描かれるけれど、その先に分かりやすい成長が描かれるのはヒロインの天才少女についてだけで、ストーリーテラーたる主人公に到っては何をやっていたんだかわからない。

それに、ヒロインの「天才」は少々冠負けしている感がある。天才というよりは博識や博覧強記の類で、単に辞典的な才能の持ち主としてしか描かれていないのである。何しろクリエイティビティがないことはヒロイン自身が認めている。

彼女は試験には滅法強いだろうし、実務的なブレーンとしても優秀だろう。けれども、天才と呼んだのでは何かが違う。彼女はテクニカルな人間ではあっても、クリエイティブな人間ではあり得ない。そして、理系の先端というのはもっとずっと創造的なもののはずである。

この本の興味のひとつは「宇宙の作り方」にある。多分に創造的で哲学的な問いである。それは「物事の根本」を問う行為だからである。なればこそ、ヒロインを含む登場人物たちには少々荷が勝ちすぎている。必要なのは既存の知識ではなくクリエイティビティである。

ここで期待されるのがストーリーテラーたる主人公の存在ということになる。天才がおちこぼれの突飛な発想に期待する。これは一種のお約束ともいえる。ところが、これがまるで役に立たない。彼は議論を一般読者の地平に引き降ろすくらいの役割しか果たさないのである。

ヒロインに対してすらクリティカルな影響を与え得たとは思えない。

青春の甘酸っぱい感動を期待できない読者の興味は、否応なく宇宙論に向けられることになる。この辺りの割り切りは大したものだ。萌え路線を捨て、自意識の物語を捨て、ビルドゥングスロマンまで殆ど放棄してしまうのだから、よほど宇宙創造の着想に自信があったのだろう。

となれば、これをいかに愉しめるかが鍵ということになる。

観察されるものを端的に「ある」と信じてそれ以上考えない。それが日常を生きるということである。物が落ちるのは重力があるからだし、重力の大きさは質量の大きさに比例する。これで納得するのが日常性を保つ大人の態度である。

けれども、何故物には重力があり、しかも質量に比例しているのかという、さらなる問いが消えるわけではない。その背後には無限の問いが連なっている。ある現象を説明するための定理が発見される。すると今度はその定理を説明する定理が求められる。

この無限ループの先にあるのが宇宙論なんだろうと思う。とすれば、これは何も理系に限った問題ではない。無から生まれる有とは何か。とても文学的な問いである。だから、何もこれは、必ずしもSFとして読むべき作品だとは思わない。

事実、文系出身のぼくにも十分楽しめる内容だった。

学生たちの物事分かっているようでどこか浅薄な思考や、壮大な決意に比して卑小な着地…そんなイタい現実を余すところなく描いているところや、一方的な価値観に疑問を持たせるような視点にも好感が持てる。デビュー作でこれだけ書けるなら今後を期待してもいいと思う。

ところで、ラスト、ヒロインは予定調和ともいうべき変化を遂げて成長したというオチがつく。斜めから見ると、これは異端として生きる道を見限って、世間の物差しを知ることから始めようという、とても社会的教訓に満ちた結末とも読める。

そう考えると相当にオフビートな話でもある。


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2007年1月23日追記
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このエントリーにスパムコメントが集中しているため、しばしコメントを閉鎖します。

2006年08月23日

上坂冬子『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)

上坂冬子『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)上坂冬子『戦争を知らない人のための靖国問題』を読んだ。

面白い本だと思う。

それは何も共感できるとか納得させられるとかいった意味ではない。戦争だとか靖国だとかを語る難しさを、この本自体が証明してしまっているところが興味深い。恐らく著者が感じているであろう歯痒さを、反対のことをいう人たちも感じるだろう内容である。

要するにこれは「事実」をどうこういう問題ではなく、「解釈」や「心情」の問題でしかないということがよく分かる。何しろこの本は本当の出だしから、一貫して大きな矛盾を抱えている。批判対象に「論理」を求めながら、自らは論理的に破綻しているのである。

著者は基本的に、先の戦争について日本を一方的に悪者だとする戦後史観に懐疑的である。いわゆる「自虐史観」というやつである。著者には、戦時下というのっぴきならない状況での国民なり軍なり政府なりの判断を、現在の視点でのみ批評し、あれは間違っていただの悪かっただのというのはちょっと違うんじゃないかという思いがある。

つまり評価基準に疑問を感じているのである。

著者が主張しているのは、当時の「時の流れと世の趨勢」を考慮すべきだという持論である。もう、いきなりのワイルドカードである。みんな当時の状況についてあまりに無知だ、当時としてはあれが精一杯の判断だったのだ、という理屈はどこまで応用できてしまう。

これが著者の意図に反して、決定的に以降の論旨を脆弱にしてしまっている。この姿勢を貫くなら、現在の「時の流れと世の趨勢」を考慮して首相の靖国参拝に反対する人々を非難することはできないはずだし、同じように先の戦争を大いなる間違いとして自省する戦後史観だって否定はできないことになる。

さらにいえば、たとえば現在の北朝鮮の動きや、中国やら韓国やらが日本に対して向ける反日行動だって、「時の流れと世の趨勢」を考えれば、それらの国にとって精一杯の最善なのだという理屈が成り立ってしまう。これでは「なんでもあり」といっているに等しい。

それならば、著者は追い詰められた北朝鮮が日本にミサイルを撃ち込み、自国存続のために決起したとしても、それも仕方がないことだと許容するのだろうか。果たして、反日国に辛辣な主張を繰り返す著者にそこまでの論理的態度が望めるとは思えない。

著者は冒頭、靖国問題について議論が「上滑り」になり、「心情的にも論理的にも話が噛み合」わないと嘆く。けれども、著者の主張は多分に「心情的」ではあるけれど、残念ながら大筋において「論理的」ではないのである。お陰で細部の論理が死んでいるのはもったいない。

戦争が善悪で割り切れるほど簡単なものじゃないとか、戦時中は辛くてミジメなことばかりだったなんてのは嘘だとかいう主張は正しいと思う。色々な史料や資料をあたっていて、引用が豊富なのも好感が持てる。それだけに、自分の意に反する主張を簡単に切り捨ててしまう安直な態度が残念でならない。

歴史というのは過去の追認であり、評価である。純粋な「事実」なんかではない。歴史認識という言葉があることからもそれは知れる。事実と思われる事象をある観点から認識し、物語として共有する。それが歴史の実質的な姿だろう。

もしも歴史が単なる事実の羅列なら、「日本は自国の繁栄のため中国へ侵攻を開始した」だとか、「日本は亜細亜全土の繁栄のため中国に駐留し教化を開始した」なんて記述は共にあり得ない。もちろん自衛戦争や侵略戦争という言葉も使えないはずである。

何故なら、これらはある主観に基く歴史認識であって、事実かどうかは誰にも証明できないからである。事実だけを記録するなら、「日本からは軍人が何人と民間人が何人中国に渡って、結果何人の中国人と何人の日本人が死にました」というような内容にしかならない。

目的や理由が書かれた瞬間、それは誰かの主観になってしまう。

著者の言葉に説得力がない理由はもうひとつある。何といっても著者は幸福な戦争体験者である。国策によってマインド・コントロールされていたことに後年気付きはしたものの、当時はただひたむきに世界平和の礎となることを信じて邁進する少女時代を送ることができた。

そして、今まで生き延び、時に当時を「一種の爽快感をともなって」思い出すことができるのである。戦時中の一種宗教的な高揚感や、お国のために団結し命を懸けて頑張る充実感は、手酷いしっぺ返しに合わない限りはいい思い出になっても不思議ではない。

一方で、大本営の欺瞞を常に感じ取り、自分たちの正義を信じられず、苦しみ、悶え、非国民と罵られながら、同胞に見放されるようにして死んでいった人だっていたはずである。彼ら、彼女らは、果たして自分の国を愛し、誇りを持って死ぬことができただろうか。

凄絶なトラウマに苛まれながら苦しい生を長らえた人、被爆し見るも無残な後遺症を抱えながら半死半生の人生を送った人、戦時下の狂気に翻弄され多くを失った人たちは、果たして戦争を知る世代として著者と同じような主張をするだろうか。

ぼくにはとてもそうは思えない。

要するに、この著者がまるで戦争を知る世代の代表のように語る言葉が、ぼくにはある幸福な戦争体験者による、あくまでも個人的な感慨以上のものには聞こえないのである。著者のいう通り、戦争というのは多面的なものだろう。だからこそ、著者の主張とてその一面を捉えているに過ぎないと知って読むべきなのである。

そんなわけだから、この本はとても興味深かったし、読んで良かったとも思うけれど、それはひとつの主観として面白かったのであって、議論そのものが面白かったわけではない。ましてや昨今の根拠の見えないナショナリズムに共感して読んだわけでは尚更ない。

何やら批判めいたことばかり書いたけれど、欠点があることは無価値であることを意味しない。ただ、こうした強気の主張が気分として流行っていることに対する気持ち悪さがあるだけだ。マスコミは旗を振るだけだということも先の戦争が証明している。そのこともこの本を読めば分かる。著者がその旗振りに利用されているのは皮肉である。

断っておくけれど、これはと思う意見だって沢山書かれていた。特に日本の甘さ曖昧さ弱腰に対する苛立ち、それに対する批判なんかは条件付で共感可能だ。目新しい主張ではないし、その主張が諸外国を納得させることは考え難いけれど、それなりに頷ける部分もあった。

靖国や戦争に少しでも興味があるなら読んで損はないと思う。

2006年08月19日

野中ともそ『宇宙でいちばんあかるい屋根』(角川文庫)

野中ともそ『宇宙でいちばんあかるい屋根』(角川文庫)野中ともそ『宇宙でいちばんあかるい屋根』を読んだ。

ああ、こういうのが流行りなんだなと思う。

とにかく何かを抱えた人やら家族やらが登場して、けれども、そんなことは何も特別なことじゃないんだという顔をしている。今の時代、みんな多少壊れているくらいが当たり前だということになっているらしい。それくらいの方が設定としてリアルなんだろう。

ストレスとかリストラとか鬱とか不倫とかセックスレスとか家庭崩壊とか虐待とかDVとかイジメとか精神障害とか理由なき暴力とか不治の病とかなんだとか、とにかく暗い要素にはことかかない世の中だから、ネタとしてはよりどりみどりである。

主人公が比較的ノーマルな女子中学生ということもあって、この作品ではそこまで極端な負の要素はない。それでもやっぱり、いくつかの典型的な家族の問題を扱っている。それは主人公と継母の関係であったり、幼馴染のお姉さんの難しい恋愛の問題だったり、元カレの奔放な母親の問題であったりする。

あえてこんなありふれた問題がひとつも出てこない方が、新しい考察が生まれそうな気もする。けれども、話に幅を持たせるにはあった方が便利だろう。それに、この作品の場合は、「壊れてるくらい当たり前」という前提が巧く利用されてもいる。

キーパーソンとなる老婆に謎が生まれるのである。

主人公の少女が星ばあと呼ぶその老婆は、自分は空を飛べるんだと主張する。そしてやたらと屋根に詳しい。ここで読者は迷うことになる。素直にファンタジーとして受け止めるべきか、それとも孤独な老人の虚言妄想の類ととらえるべきか。

そもそも主人公の少女がもっともファンタジーを信じていない。空飛ぶ老婆を信じる中学生なんてものは、いくら小説の中でも存在し得ないのである。だから、ラストで星ばあの秘密が明かされるまで、読者はこれがファンタジーなのかどうかさえ分からない。

正直にいえば、ラストは多少ご都合主義に見えなくもない。エピソードとしてはお約束の組み合わせでしかないともいえる。星ばあの孫が判明するくだりから特にその印象は顕著になる。ただ、星ばあの秘密も含めてキレイにまとまっていることは確かだ。

たいていの出来事が落ち着くところに落ち着く中で、ひと握りの不思議を残す。ああ、こういうのが流行なんだなと、もう一度思う。比喩としてのファンタジーではない。空飛ぶ老婆は何かを象徴してはいない。ただ、そういう役割を負っているに過ぎない。

みんなそれぞれ色々あって大変だけど、なんだかちょっぴり良いこともあって、ちょっぴり切ない別れなんかもある。周りをちゃんとみれば、決して悪いことばかりじゃない。辛いときはひと息ついてみる。そしてとにかく、最後にはほんのり前向きになれる。

そんな話が読みたいときは、誰にだってあると思う。

2006年08月18日

米澤穂信『氷菓』(角川文庫)

米澤穂信『氷菓』(角川文庫)米澤穂信『氷菓』を読んだ。

なるほど、ここから始まったのか、と素直に思えるデビュー作だ。少々流れの悪い文章が目に付くものの、後続の作品群に見られる魅力の種は十分に感じ取ることができる。他愛ない日常の謎から、個人史に関わる重いテーマに誘導する構成は『さよなら妖精』に近い。

この著者の小説作法として、登場人物の紹介と探偵役の肩慣らしのために超小粒の謎を提示するというパターンがある。これはたとえば、ホームズが部屋に入ってきたばかりの依頼者の職業やなんかをズバズバと当てて見せるシーンに相当するだろう。

ホームズはほとんど短篇だから、これがほんの1頁ほどでテンポ良く展開される。ところが、『氷菓』『さよなら妖精』は長編だから、物語の半分くらいがこの小粒事件に費やされることになる。もちろん、平行して最後の謎に向けた伏線を張りながらではある。

その間に登場人物たちの性格や境遇の説明、青春ストーリーとしての土台作りがなされていくのだから、もちろんまったく無駄なシークエンスではない。ただちょっと導入の引きが甘いことは否めない。後半の重い展開に比して、前半の状況説明は少々物足りない。

ちょっと感情移入もし難いところがある。

主人公の奉太郎にしても、もっと徹底していれば偏屈も魅力になるのだろうけれど、妙に物分りが良かったり、通す筋を持っていなかったりするから、今ひとつ魅力に乏しい。手紙と電話でしか出てこない姉の方が、キャラクターとしては面白そうですらある。

何事にも最小限の反応しか示さず、極力無駄なことはしたくないというメンタリティは、たぶん普遍的なものだ。そんな高校生はこの日本に五万といるだろう。つまり、奉太郎は凡庸なる語り手として生み出されたということになる。

それが他力本願の巻き込まれ型体質で謎に直面し、それを解くことで他人と関わっていく。最初はまるで仕方がないといった風情で、そして次第に自らの意思を自覚して。要するにビルドゥングスロマンである。青春モノの王道である。

奉太郎の無気力に感情移入するような読者には、彼が探偵として頼られる展開は魅力的なものに違いない。自己完結的な心というのは、他人の評価を得られなかった結果に過ぎない場合が多い。だから、要らないという顔をしながらも求めているのが普通だ。

だから一見地味なミステリでも、イマドキの輝かしい青春ストーリーとして十分以上に機能している。若くして達観して見えることは、たぶんあまり健全なことではない。その達観は、できれば虚勢であって欲しいし、無知故の蛮勇であって欲しい。

続編『愚者のエンドロール』『クドリャフカの順番―「十文字」事件』で彼らがどんな変化を見せているのか。著者自身ミステリ作家として磨きがかかってきているだろう最近作に期待したい。とにかくキャラは立っている。

あとは説得力だ。

2006年08月17日

舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』(講談社ノベルス)

舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』(講談社ノベルス)舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』を読んだ。

突き抜けた愛の短篇が2つ。この人はそもそもずっと愛について書いてばかりいる。だから、暴力的でも血塗れでも、最後には甘い匂いを置いていく。それがついにど真ん中の恋愛を書いた。事実かどうかは別として、これを時代の要請ととるのは面白い。

要するに『世界の中心で、愛をさけぶ』『Deep Love』に対する本物からの回答だという見方である。ファストフードの存在は否定されるべきものではないけれど、世の中には懐石だってフレンチだって美味い料理はまだまだあるんだよ、という話である。

泣きたい人が泣くために泣ける作品を選ぶことは消費行動として自然なことだし、マルチメディア戦略で莫大な利潤を生むことも全然罪ではないと思う。泣くことはカタルシスを伴う立派な娯楽だ。それだけみんなが抑圧からの開放を望んでいるんだともいえる。

だから、そうした要求に応える小説や映画やドラマがあるのは自然なことだ。ただ、作家がみんなそういうことをやりたいわけではないし、そういうもので感動できる消費者ばかりでもないのも事実だ。そこで舞城王太郎みたいな作家が歓迎されることになる。

これは泣けない恋愛小説である。

個人的には、純文学よりずっとエンターテイメント寄りの作風だと思っている。ただ、先に挙げた作品たちのような類型的な分かり易さとは無縁だ。難しくはないけれども、突き詰めた作風なのである。類型の先にあるものを見せてくれる。

表題作は類型的な設定からどんな新しい世界を想像し創造し得るかという、著者なりの回答なのかもしれない。恋人の死なんてどうしようもないテーマで、どれだけライトユーザーを取り込み、かつ簡単には泣かせないエッジの効いた作品をものするか。

少なくとも後者については十分にクリアしていると思う。

ライトユーザーの取り込みに関してはデータがないから分からない。ネット上に散見される書評類を見れば、この作品以前からの読者が多いようにも思える。まあ、ライトユーザーは趣味で書評を書いたりはしないだろうから、実は結構いるのかもしれない。

若干メタフィクショナルな構成もあって、タイトルほどにストレートな作品ではない。その分独特のアクも薄まっていて、割りとライトユーザー向けの作品だと思う。だから、より刺激を求める人には併録の「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」の方が向いている。

こういう個性を持った作家の作品は、とにかくその文体に触れて初めて魅力が分かる。逆にいえば、文体が肌に合わなければどうにもならないということだ。ぼくがイマイチ町田康にのめりこめないように、舞城節に没入できないという人がいても不思議ではない。

ただ、片山恭一を最高と思う人にも読んでみて欲しいとは思う。

2006年08月15日

浦賀和宏『八木剛士 史上最大の事件』(講談社ノベルス)

浦賀和宏『八木剛士 史上最大の事件』(講談社ノベルス)浦賀和宏『八木剛士 史上最大の事件』を読んだ。

やっぱり浦賀和宏は期待を裏切らない。

いや、期待通りに期待を裏切ってくれる。史上最大の事件はあまりに滑稽で陳腐だ。それは恋愛ドラマのワンシーンでしかなく、かつ、八木君史上最大であることは誰にも否定できない。ただこの一点において、この作品はギャグである。

それも、読者の心を弄ぶだけ弄んだ挙句のギャグである。

なかなかできるものじゃない。この著者や編集者の胆力はひと通りではない。普通に考えれば、焦らすだけ焦らしておいてそれはないだろうと文句のひとつもいいたくなるあっけなさである。家で読んでいたものだから、思わず声を上げて笑ってしまった。

八木君の堂に入ったイジメられっぷりにイジケっぷりは、すでにお家芸の安定感を見せている。読んでいるだけでゲップがでるくらい惨めったらしい。だからこそ余計に、ありえないと思いながらもつい、期待してしまうのである。

八木君にもとうとう春がくるのだ、と。

彼の忸怩たる毎日が悲惨であればあるほど、ただ一条の光を掴んで欲しいと願わずにいられない。光の天使ともいうべき純菜は、八木君にも読者にも十分な期待を抱かせる。期待に踊らされた読者がどんな仕打ちを受けるかは読んで感じるよりない。

これはけれども、巧いやり口なのだ。来るべき春は暗雲に包まれつつも、それが花曇りである可能性を捨てない。どこまでも純菜は光であり続ける。これはまた、著者に連なるメフィスト系の作風に馴染んでいればいるほど、危うい光に思えるという仕掛けでもある。

実をいうと、そこにぼくは少しばかり厭な臭いを感じている。何やら裏組織めいた設定が見え隠れしているのである。主人公の感知しないところで、強大な力なり意思なりが働いていた、なんて展開は望むところではない。彼の出生は平凡なものであってほしい。

ただ、本当の平凡を望むには、どうにも疑惑が多すぎるのも事実だ。両親の死や、拳銃を持った外国人など、未だ納得のいく説明のないのが怪しい。疑えといわんばかりである。しかももう、ただの不運で片付けられる展開ではなくなっている。

ここをどうにか裏組織なしで乗り切ってもらいたい。

“トゥルーマン・ショー”的な欺瞞や“Vフォー・ヴェンデッタ”的な誕生秘話は要らない。そういう話ならデビュー作に始まる安藤君シリーズがある。あれで存分にやって欲しい。以前にも書いたけれど、あちらもぼくは大好きだ。新刊が出れば喜んで買う。

八木君には是非ヘタレのままで逆転劇を演じてもらいたい。

2006年08月12日

吉村萬壱『ハリガネムシ』(文春文庫)

吉村萬壱『ハリガネムシ』(文春文庫)吉村萬壱『ハリガネムシ』を読んだ。

なんて不快な小説だろう。

と、大抵の人が思うだろうし、ぼくも思った。厭わしいならまだいい。破って捨てれば済む。ところが一度開いたが最後、もうページから目を話すことはできない。それは、この本の主人公が自分の糞から目が離せなくなるのに似ている。

確かにこの本は中途半端で不恰好な性や暴力に溢れている。けれどもそれ以上に、あまりに救いのない主人公のありように心が腐れる。これはそんな小説である。そして、芥川賞を獲っていることが不思議ではない程度に純文学的な作品でもある。

ちなみにぼくが思う純文学のイメージは偏っている。

安易なカタルシスを認めない。比喩的であって説明的でない。私小説的だ。普通に面白くはない。現代社会に一石を投じない。でも、なんだか気になる。そして、文章だけは妙に巧い。要するに、分かり難さや据わりの悪さを愉しむものと思っている。

だから、この本に性と暴力が愛に昇華していくような心地好い展開はあり得ないし、蟷螂に寄生するハリガネムシと主人公が腹に飼っている欲望の対比は消化不良気味だ。現代人の複雑な倫理観や、病んでいるらしい社会への処方箋としても機能しない。

そこにはただ、自分の腸を開いて体内の汚物を仔細に観察するような、変質的なまでの真摯さがあるばかりである。何をそんなにしてまで、面白くも珍しくもない自分の腹を探らねばならないのか。その倒錯した気持ち良さこそがこの本の真骨頂なのである。

当然のように出てくる人出てくる人が気持ち悪い。それはまるで主人公の閉塞が作り出してしまったかのような世界である。銭湯で赤黒い血尿を搾り出す貧相でマゾのオッサンや、歯を剥き出してもほもほ笑う娼婦サチコなどまさに出色である。

けれども、一番の嫌悪は主人公の平々凡々たる半端さに向けられることになるだろう。閉塞を打ち壊すかに見える凶暴な衝動さえ、性愛に溺れることも、暴力に突き抜けることも、愛に目覚めることもできない程度の不発弾に過ぎない。

もしも主人公がサチコをサディスティックな性愛行為の末に嬲り殺し、妄想相手でしかない同僚の女教師を犯し、凄惨なイジメをゲーム感覚で繰り返す学生たちを皆殺しにでもすれば、立派な負のエンターテイメントになっただろう。

そうならないところがつまり純文学なんだと思う。

2006年08月04日

伊藤たかみ『ミカ×ミカ!』(文春文庫)

伊藤たかみ『ミカ×ミカ!』(文春文庫)伊藤たかみ『ミカ×ミカ!』を読んだ。

少し前にここにも感想を書いた『ミカ!』の続編である。といっても、いかにも続編な仕上がりではない。前作に頼るところがほとんどないのである。前作の後に居を移し、双子の兄妹ミカとユウスケは中学生になっている。

何しろ主人公のキャラ以外はほとんど何もかも刷新されている。

友人の顔ぶれだけにとどまらず、パパの恋人まで前作とは変わってしまっている。もちろん、前作のミカやユウスケを知っていればこその感慨というのはある。けれども、それは読んだ方が勝手に感じることで、何も前作を下敷きにしているわけではない。

ここまで思い切って前作から独立した続編を書く作家というのはイマドキ珍しいように思う。むしろ「世界観」を演出するためにほとんど無関係な著作同士でさえ細い糸で繋ぐような作風の方が主流かもしれない。そんな中、この思い切り方は清々しい。

そういえばこの著者、何やら芥川賞を獲ったらしく、最近やたらと平積みが増えている。その受賞作「八月の路上に捨てる」は読んでいないから知らないけれど、なんともらしくない賞を貰ったものだと思う。作風が変わったんだろうか。

この人の作品の良さのひとつは、良くも悪くもブンガク的でない分かりやすさや丁寧さにあるのだと思う。だから、芥川賞作家の作品だと思って『ミカ!』『ミカ×ミカ!』を読むと、かなり違和感を覚えると思う。まったくそちら方面の作風ではない。

文庫の帯に「祝芥川賞」なんてつけるのはどうなんだろう。

少なくとも今回読んだ2冊は純文学的ではまったくないけれど、十分に面白かったし、むしろそんな先入観はマイナスでしかないように思う。エンターテイメントとして含みのない平易な文章は決して瑕ではない。これはそういう本だろう。

話が逸れた。本題に戻ってもう少しだけ。

前作のオトトイに変わって、今回活躍するのは幸せの青い鳥である。まあ、シアワセと名付けられたインコなのだけれど。オトトイに比べれば少し破壊力は落ちるものの、ユウスケの耳の穴に嘴を突っ込んで人語を話す姿はなかなかに愛らしい。

このインコがオンナノコになり始めたミカを、また1歩次のステップに引き上げる役割を果たす。もちろんこれを手伝わされるのは兄ユウスケの宿命である。正直にいえば、今回のシアワセはちょっとあざとい。いかにもご都合主義的である。

けれども、この話なら許せるから不思議だ。

ラストの展開なんて、もう半ばお約束といっていい。少し切ない余韻を残すのも常套だ。ただもう、この手は中学生までが限界なんじゃないかと思う。高校生になるともう、らしさを守るのは難しい。そういうキャラ設定だし、そういう作風だと思う。

この続きは、気になるけれど読みたくない。

それが今の正直な気持ちだ。

2006年08月03日

ロバート・A・ハインライン『夏への扉』(ハヤカワ文庫)

ロバート・A・ハインライン『夏への扉』(ハヤカワ文庫)ロバート・A・ハインライン『夏への扉』を読んだ。

今更これを読む。しかも初読である。これで、ぼくが全然SFファンじゃないことが知れる。買ってから知ったところによると、これはハードでも新奇でもないにも関わらず、多くのSFファンに支持されている名作であるらしい。

何も知らないくせに読む気になったのは、少し前に読んだ新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』に出てきた名前を書店で見付けたからである。ぼくは本の選び方にあまりこだわりがない。だから、その程度の理由でも十分に読む理由になる。

この作品が長く支持され続けている理由は読めばすぐに分かる。何しろ素直で読みやすい。晦渋な表現も無駄なガジェットも何もない。それでいて、いいように気持ちを持っていかれる。ストレートで正直な、一種の青春ストーリーである。

コールドスリープともっと直接的なタイムマシンが絶妙に交錯し、主人公ダンの人生を2転3転させていく。確かにその仕掛け自体はそれほど驚くようなものではない。にも関わらず、ダンの選択や心の動きはときに意外で、しばしば感動的である。

これほど心地好く感情移入できる主人公というのも珍しい。

ダンの不当な転落劇に憤り、不遇を嘆き、それでも前向きに走り出す姿に心打たれる。陥れられ、愛するものたちからさえ引き離されながら、まっすぐな心で立ち上がり、自分らしい人生を取り戻すために全力を尽くす。すべてが正のパワーに満ちている。

だから、この物語は復讐劇にはならない。

ダンの生きる目的は、先の幸福だけを見ている。八方塞がりに見える現状にも腐らず、次から次へと人生の扉を開けて回る彼の姿は、冒頭で語られる飼い猫の挿話に重なっていく。猫のピートは冬の間中、家中の扉の向こうに夏を探し続けるのである。

すべての猫好きに捧げられたこの小説は、けれども、この冒頭とあと少しくらいしかピートの出演シーンはない。それでも、やっぱりこれは猫好きに捧げられた物語であり、冒頭のそれがもっとも印象に残るエピソードであることに間違いはない。

本当に行き詰ったときこそ、夏への扉を探し続けること。

けれども、これはビジョンを持つ人間にだけ許された救済である。人生は必ずしも明確な夢や希望に彩られてはいない。だからこそ、序盤のダンは不甲斐ない姿を晒すのだろう。彼は確かに類稀な技術を持ってはいるけれど、とても普通の人間だと思える。

こうして終盤のカタルシスは約束される。

これをSFファンだけの名作にしておくのはもったいない。

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管理人について

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大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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