京極夏彦『邪魅の雫』(講談社ノベルス)

京極夏彦『邪魅の雫』(講談社ノベルス)京極夏彦『邪魅の雫』を読んだ。

今回、物語の中心にいるのは榎木津だ。

だから、彼はこれまでのような神の振る舞いをほとんど封印されている。彼は中心でありながら、活躍はしない。できない。活躍するのは下僕たちであり、捜査員たちであり、民間人たちである。そして最後に、てんでバラバラな彼らの活躍を共通認識の上に置き直す。

もちろん、黒衣の男の仕事である。

けれども、この中禅寺もまた、今回はあまり出番がない。何しろ、どの事件もいかにも普通だ。そういう事件ばかりをあえて扱っている。しかも、定番の妖怪談義が一切ない。薀蓄を傾ける場面がないのである。語るといえば著者自身の思想を断片的に代弁する程度である。

前作『陰摩羅鬼の瑕』では、個人が生きる世界はあくまでも個人的なものだ、というようなテーマを、それまでのシリーズパターンを敢えて踏襲せず、よりテーマに適した形で提示したものだったと、ぼくは理解している。今回は、そうした個人的世界のズレを、従来のシリーズパターンに戻して、しかもより一般化した形で描いている。

その意味では、前作の延長にある話だと見ることもできる。

前作はひとりの純粋培養された奇人の世界と、いわゆる「普通」の世界とのズレが、かなり単純な図式で描かれていた。そのあまりの分かりやすさに物足りなさを感じたファンも多かったと思う。その点、『邪魅の雫』はそうした人たちには嬉しい展開になっている。

また、前作でほとんど棚上げにされていた普通というものの脆さが存分に描かれてもいる。他人と世界を共有しているという思い込みを、見事に粉砕するようなキャラクターがわらわらと登場する。特に内的世界の比重が大きすぎる人間の、歪んだ主観描写には貫禄すら感じる。

前作でも伯爵は決して特殊なわけではないという理解は促されていたけれど、今回はそれがより具体的な形で明示されている。要するに、この世は伯爵ばかりなんだ、とそういっている。酷く偏った主観を生きているように見える彼らは、つまりぼくたちの姿である。

だから、多視点で描かれる事件は一見錯綜しているし、シリーズらしさ満開のややこしさなんだけれども、実のところ謎らしい謎はないともいえる。であれば、中禅寺は謎を解くのではない。色々な言語で語られた事件を共通の言葉で騙り直してみせるだけである。

そこでは個人の世界は、まるで外の世界とリンクしていない。個人世界の大事件は世界に何の影響も及ぼさない。大きな力などどこにもなく、各々は陳腐で非力な大海原の一滴に過ぎない。思春期の少年の決断が世界を救ったり、少女の恋愛が世界を滅ぼしたりは決してしない。

これは至極意図的な反セカイ系小説であるらしい。

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トラックバックをいただきましたが、同じテーマというだけでこちらのサイトも参照されていないようで、意図を計りかねますので削除致しました。

>Notes Inegalesさま

そちらのサイトポリシーを確認もせず、一方的なトラックバックを送信し、申し訳ありませんでした。色々なポリシーで運用されている方がいることは理解しているつもりでしたが、送信前にきちんと精査しなかったことは当方の怠慢です。以後、そちらサイトへこのようなトラックバックは送信しないように致しますので、今回のことはどうかご容赦ください。失礼致しました。

こんにちは!

とても興味深く読ませていただきました。
>これは至極意図的な反セカイ系小説であるらしい。
京極堂がセカイ系について語ってましたもんね。
確かに、本書で京極夏彦さんのセカイ系に対する考えが垣間見えたような気がします。

>かずはさま

コメントありがとうございます。
セカイ系を真っ向から否定すると、結構身も蓋もないというか、割と救いがないというか、それを前提に巧く生きなきゃダメじゃん、みたいな突き放した印象になりますよね。それを理路整然とやるのも京極作品の魅力のひとつかなとも思います。

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