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2006年11月29日

冲方丁『マルドゥック・ヴェロシティ』[全3巻](ハヤカワ文庫)

冲方丁『マルドゥック・ヴェロシティ』[全3巻](ハヤカワ文庫)冲方丁『マルドゥック・ヴェロシティ』を読んだ。

この若い作家に感じられるポテンシャルの高さは凄まじい。情念と技術の融合を相当に高いレベルで実現している。表面的には酷く荒唐無稽なSFアクション小説である。肉体に特殊な改造を施した超人たちが紅白に分かれて常軌を逸した戦闘を繰り返す。ひと言でいえばそういう話だ。

これが読み始めるとページを閉じられなくなってしまう。

この小説には前作がある。『マルドゥック・スクランブル』といって、本作の未来を描いている。そこで主人公たちの好敵手として立ちはだかるディムズデイル・ボイルドという男が、この作品では主役ということになっている。重力を自在に操る元戦闘機乗りという設定だ。

前作で彼は異常にストイックなヒールを演じている。それでいて、満ち足りない何かを希求し続けているようにも見える。そんな人間味を時折垣間見せる。その由来が本作の主軸となっている。再び過去の悲劇は描かれる。けれども彼は決して通り一遍の悲劇のヒーローではない。

彼の悩みは、実は現代人のごくありふれた悩みそのものである。

生の目的がただ生き延び、種を存続させることのみに止まらなくなったとき、人は生きる実感を失ってしまった。何のために生きるのか、生きることで自分は何を欲しているのか。自分が生きる意味とは何なのか。青臭いけれど、切実な問いである。

ボイルドはただ戦闘の中にのみ、その何かを辛うじて見い出している。けれども、彼は得たいものの幻影を追いながら、ボロボロとその何か失い続けているように見える。戦闘に没入すればするほど、人間らしい生の実感を失い、ストイックな戦闘マシンに近付いていく。

その痛々しい矛盾が通奏低音となって、この物語全体の印象を決定付けている。重苦しい空気が常に世界を取り巻いて離れない。一方で、息をつく間もなく展開される奇想に満ちたアクションシーンや、気の効いたセリフの数々が、すこぶる高いリーダビリティを担保している。

架空の未来世界を構築するために鏤められた情報の断片、そこに付けられたあらゆる名称、紡ぎだされるひと文字ひと文字が著者のセンスの確かさを物語っている。これほどに確固とした世界観を、ほとんど説明らしい説明をすることなく感得させる腕は瞠目に値する。

もちろん、これをまったく瑕のない作品だとは思わない。

たとえば、前半頻出する箇条書きのような文体は、小説としていささか馴染み難いものだ。けれどもこの瑕瑾を、ぼくはさしたる問題だとは思わない。これが独特のテンポやスピード感を生んでもいるからだ。やり方は少々粗雑かもしれないけれど、確かに効果は上がっている。

また、明確に色分けされたキャラクターたちや俯瞰される世界観に、過去のエンターテイメントの影響を見ることは比較的容易だ。多くの人が自分の知っている過去の物語に似たような風景を見るだろう。けれども、それは著者のオリジナリティを損なうものではまったくない。

ちゃんと彼の言葉でしか語り得ないことが語られている。

実は、前作を読んでいれば、この物語のキーとなる事件の帰結は、すべて事前に分かってしまう。ラストは予想を超えているものの、伸びた枝の先にどんな実がなっているかは予め分かっている。だから本当に注視すべき事柄は、すべて過程で語られるディテールにこそ込められている。

これほど密度の濃い小説に出会うことは、なかなかできない。

最後に実を食べる手段として言葉を重ねるのではない。重ねられたひとつひとつの言葉が果実そのものであり、その集積によって世界を語り、人間を語ろうとしているのである。もの凄い力技である。思うに任せない内面を物語に変え、あまつさえ世界を立ち上がらせる。

ジャンル小説に閉じ込めておくべき作品ではない。

2006年11月16日

宮崎哲弥『新書365冊』(朝日新書)

宮崎哲弥『新書365冊』(朝日新書)宮崎哲弥『新書365冊』を読んだ。

これはブックガイドの類なのだし、読書とはいわないかも知れない。ともあれ、新書流行りで何を読んだら好いものやらさっぱり分からない。何を読んでもそれなりに面白いとは思うけれど、その中でもやっぱり当たり外れはある。

できれば面白い本に当たりたい。

何しろ、生涯に読める本はそう多くない。もちろん、楽しめるかどうかは相性もある。だから、他人の評は必ずしもアテにならない。だから、ガイドに付された評価は参考程度に考えておく。それよりも、どのように紹介されているかが重要である。

その点、この宮崎哲弥のガイドは好い。何といっても、読んでいる冊数が尋常ではない。つまり、より多くの中から目に留まったものを選んでいることになる。生涯3冊しか本を読まなかった人の推薦よりは、1万冊読んだ人の推薦の方が、当たりを掴む可能性は高そうである。

この本自体は雑誌連載の再編集版である。だから、時期的には少し前に出版された本が対象ということになる。それにしても、連載中、毎月出版される新書を全冊読んでいたというから凄まじい。60冊から100冊近く読んだ月もあるらしい。

しかもその中から、これは、というものを選び出して書評を付けるのだから、ただ漫然と流し読んでいるわけではない。無論、批評家としての選書眼を問われる仕事だから下手なこともできない。だからこそ、買ってみようと思ったわけである。

これが実に分かり易いブックガイドになっている。

その本の社会的な意味や業界的な立ち位置などが、しっかりと明記されていて、果たして自分のレベルに合った本なのか、あるいはより入門的な本に当たるべきなのか、といった適性までちゃんと推し量ることができる。実に親切な作りである。

しかも、時事や周辺事情に絡めるなど本自体に興味が向くような話題作りがなされていて、まるで知らないジャンルの書評も愉しく読むことができる。本というのは読み出すと近視眼的に信じ込んだり反発したりするものだけれど、一歩引いた冷静な視点を与えてもくれる。

優れた点はどこか、欠点はどこか、何が新しいのか、どういう流れを汲む思想なのか…そうした情報があちこちに散りばめられている。これは使える。数珠繋ぎ的に興味を引き出してくれる。宮崎哲弥の書評というのは初めて読んだのだけれど、こんなに巧いと思わなかった。

読み終えると、本が付箋だらけになっていた。

2006年11月15日

浦賀和宏『さよなら純菜 そして、不死の怪物』(講談社ノベルス)

浦賀和宏『さよなら純菜 そして、不死の怪物』(講談社ノベルス)浦賀和宏『さよなら純菜 そして、不死の怪物』を読んだ。

シリーズ5作目。時節到来。ようやく読者のこれまでの忍耐が報われる時がきた。単品で読む本ではない。シリーズというよりは続き物である。著者は、最初の 2作ではメタミステリ風の割りに手堅いシリーズを匂わせながら、3、4作目で思いっきり卓袱台をひっくり返してしまった。

その時点でこれは1冊で楽しめる作品ではなくなった。前作なんかは激しくストレスフルな展開で、間違って最初にあれを読んでしまっては目も当てられないという作品だった。けれども、シリーズを通して読んでいれば、それはマゾヒスティックな悦びに満ちた一篇だったはずだ。

このシリーズの特異なところは、なんといっても、主人公八木剛士の徹底したマイナス思考と虐められ体質にある。その虐められっぷりは完全に常軌を逸していて、周囲の人間すべてがいかに八木君が虐げられているかを証明するためだけに存在しているかのようである。

だから、ここに描かれる虐め描写はまったくもってリアルではない。八木の忸怩たる内面描写は恐ろしくリアルなのにもかかわらず、である。要するにわざとやっているのだろう。そもそも、著者は現実のイジメ問題をテーマに小説を書いているわけでは絶対にない。

徹底して滑稽な被虐キャラである八木君は、今作でついにモンスターとして目覚めることになる。それはタイトルからもわかることだし、巻頭でいきなり明らかになることでもある。この掴みは前作までを読んできた読者には覿面に効く。効かないはずがない。

この坂本ハル視点のモノローグは各章間に繰り返し挿入される。中には箸休めほどの意味しか感じ取れないシーンもあるけれど、時間を遡行していく構成はいかにも憎らしい。決して凝ったやり方ではない。にもかかわらず、よくできた予告編のように心を掴まれてしまう。

何しろ4作分のストレスが開放される瞬間が約束されているのだ。期待に胸を膨らませるなという方が無理である。今回ばかりはどんでん返しなんて要らない。ただただ主人公視点での巻頭シーンを待ちわびながら読んだ。そして、ついに結願のときはやってきた。

この負の力の発動には説得力がある。

ひと昔前によく聞いた「キレる」若者とは対極にある壊れ方である。骨髄反射みたいなキレ方ではない。怒髪天を衝くわけでも、頭の血管がキレるわけでもない。到って淡々としている。淡々として容赦がない。換言すれば、冷静にキレている。これは強い。

恐怖、激昂、遠慮、分別…そういうものをすべて消し去って、ただ捩じ伏せることだけに集中する。冷静だけれど理性的ではない。興奮はしていないのにまったく手加減がない。やろうと思ってできる芸当ではない。八木剛士だからこそ許される展開である。

復讐劇はその前段階が肝である。主人公の境遇に同情できてこそのエンターテイメントだからである。分かっていたこととはいえ、浦賀和宏という作家は普通にことを運ばない。ずいぶんと危ない橋を渡ったものだと思う。何しろ八木は同情できるようなキャラではない。

とにかく過剰な内向性が読者を底なしのイライラに引きずり込む。つまり、同情ではなく苛立ちが、いい加減キレろよ!という負の感情を生み、期待を募らせるのである。まさに不快のエンターテイメントである。普通やろうとは思わない。

ともあれ、ストレスに耐えて読み続けてきた甲斐は十分にあった。

ラスト、全浦賀読者の歓喜の雄叫びが聞こえた気がした。


【関連記事】
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2006年11月09日

西尾維新『零崎軋識の人間ノック』(講談社ノベルス)

西尾維新『零崎軋識の人間ノック』(講談社ノベルス)西尾維新『零崎軋識の人間ノック』を読んだ。

殺人鬼集団を主人公とした人間シリーズの2冊目だ。いわゆる戯言シリーズの番外ということになるんだろう。オフィシャルな2次創作みたいなものである。よって、シリーズ読者以外には徹頭徹尾楽しめない作品だと思う。その分、ファンサービスは盛大だ。

戯言というのはやたらと変な名前のキャラクターを登場させては、コロコロと死なせてしまうイカレたシリーズだった。それもアニメチックな萌え少女がほとんどで、竹というイラストレーターの挿画も手伝ってシリーズ完結後も死人のファンが全国各地で増殖中らしい。

そんな彼女らの若かりし頃、否、幼かりし頃が描かれるのがこの番外シリーズなのである。なんとファン思いのシリーズだろう。しかも、主要登場人物の多くが小中学生ときている。ついでに玖渚友の半裸生活まで描かれるのだから、幼女好きにはたまらない作品である。

そんな過剰なファンサービスに彩られたこの作品は、看板を背負ってるにも関わらず零崎軋識がさほど活躍しない。もちろん、これは必然である。彼は視点人物として、人気キャラたちの過去を紹介する。そういう役目を負っている。ある意味、可哀相な主人公である。

それでも殺人鬼集団「零崎一族」の中でツートップの一翼を担うくらいだから、芸はなくともケンカは強い。それなりにキャラも立っている。でも、それだけである。両シリーズを通して一番普通な男だといってもいいかもしれない。それがかえって新鮮だ。

ストーリーはまあ、どうでもいい。良い話でも心に残る話でもない。来月の今頃には、きっとキレイに忘れている。『ベルサイユのばら』は心に残っても、外伝はすぐ忘れ去られるのと同じことである。2次創作クオリティの限界であり、宿命である。もちろん、それでいい。

何しろファンなら絶賛のデキである。

それはさておき、いくらなんでも本体価格1,200円は酷い。ボリュームに比して高すぎる。つい買うのを躊躇ったほどだ。この程度の厚さでこの価格は紛う事なきボッタクリである。トレーディングカードなるものが6枚付録で付いてくる。きっと、そのせいだろう。

正直、要らない。

トレーディングカードなしのバージョンも作って欲しかった。そうすれば迷わずそっちを買ったのに。こんな余計なもののために貴重な読書予算を費やしたのかと思うとなんだか悲しい気持ちになる。西尾作品は絵があって初めて成立する小説だということなんだろう。

次も余計なオマケ付だったら、もう買わないかもしれない。

2006年11月05日

米原万理『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社文庫)

米原万理『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社文庫)米原万理『オリガ・モリソヴナの反語法』を読んだ。

奇妙な語感の書名だ。けれどもこれは、衒いも何もない極めて即物的なタイトルである。オリガ・モリソヴナはキーパーソンの名前だし、彼女の吐く特徴的な罵言は反語表現の宝庫なのだ。だから、このタイトルから豊穣なフィクションの香りを嗅ぎとるのは少し待った方が良い。

実をいうと、このタイトルに対する印象は、作品全体にも敷衍される。確かにこれは著者初の長篇小説と銘打たれている。けれども、これを小説として読むのは案外難しい。ぼく自身は未読だけれど、著者は元々エッセイやノンフィクションで知られた人である。

この小説もまた、過剰にノンフィクション的なのである。

筋立ては著者を髣髴させる弘世志摩という女性が、少女期を過ごしたプラハ留学時代の謎を追うという、一種ミステリ仕立ての内容になっている。回想の中に見終え隠れする予兆、次々に手繰り寄せられる悲劇の証拠など、とにかく題材に力がある。

とても活き活きと描かれるソビエト学校の回想などは、著者の体験なしには語り得なかったものだろう。日本の画一的な義務教育からは考えられない奔放な学校のありようを知るだけでも面白い。そこではこれからを生きる子供たちの躍動がありのままに受容されている。

魅力的な教師たちが、魅力的な子供たちを育む。それはとても力強く、理想的な姿に映る。けれども、そうした環境の裏側には、あまりに不安定な世情が見え隠れしてもいる。だからこそ、彼らは強く活き活きとして見えるのかもしれない。

とにかく登場人物がみんな強烈な謎と個性を持っている。

謎多き老ダンス教師オリガ・モリソヴナはもちろん、彼女と常に行動を共にしているフランス語教師、祖母のような年齢のふたりをママと呼ぶ転校生、子供らしさを捨てたように暗い目をした少年など、すべての魅力的なキャラクターたちが当時の謎を解く鍵となる。

思い出の謎に迫る現在のシークエンスは、ややご都合主義に見えないこともない。この辺りもノンフィクションとして書かなかった理由のひとつかもしれない。語るべき主題を明確に語るための方便なのだろう。もちろん、この程度のことが瑕瑾になるような弱い話ではない。

志摩はソビエト学校時代の親友らと共に、当時を語る人々、残された資料などを通して知ることになる。それは激動の時代を生き抜いた人々の凄絶としかいいようのない人生である。歴史に疎いぼくにとって、スターリン大粛清時代の悲劇を知ることはまさしく衝撃だった。

この辺りの語り口はほとんどノンフィクションのそれで、小説としてみれば破綻しているかに見えなくもない。ただし、この小説に限ってはそれが欠点にならない。かえってリアリティの源泉になってもいる。そして、率直で飾らない文体は、会話の良さも手伝って読み易い。

彼女たちの言葉の中に生きる力を感じ取ることができる。

それは圧倒的な悲劇を描きながら、ただ悲愴になることを良しとしない著者自身の志向の表れなのかもしれない。だから、この小説は人の残酷さ、残忍さを余すところなく描きながら、どこまでも前向きである。読後はむしろ、平穏に生きるぼくの方が力付けられていた。

正直に書けば、必ずしもシンパシーを感じるタイプの作風ではない。巧い小説だとも思わない。けれども、人当たりの良い人間ばかりが良き友人でなく、耳触りの良い音楽ばかりが感動的なわけではないように、この作品には心に訴えるだけの芯が通っている。

著者の人となりなんかは知らない。もっといえば、さしたる興味もない。ただ、作品にだけ目を向けるなら惜しい人を亡くしたと思ってしまう。米原万理は今年5月25日に不帰の人となった。小説家としてこれからどうなっていったかは未知である。

けれども、次作を読んでみたかったと思わずにはいられない。

2006年11月02日

いしいしんじ『プラネタリウムのふたご』(講談社文庫)

いしいしんじ『プラネタリウムのふたご』(講談社文庫)いしいしんじ『プラネタリウムのふたご』を読んだ。

たぶん「救い」について書くことは難しい。安易さや陳腐さが微かにでも臭うと、すべてが台無しになってしまうからだ。だから、この物語はとても悲しい。悲しいけれど惨めではない。徹底した喪失の物語でありながら、とても強くしなやかだ。

世界にはどうしようもなく起こってしまうことというのがある。そのこと自体は特別なことではない。人の悪意や奸智が引き起こすような卑小な事件の話ではない。本人も周囲も誰の不幸も望んではいない。それでも、否応なく降りかかる不幸。避けることは誰にもできない。

そんなとき人を救うものはいったい何か。

主人公の双子は、そんな問いを登場からその身に負っている。彼らの来歴は、一般的には不幸なものだろう。けれども、ふたりが不幸な子供だとは、たぶん、誰も思わない。そういう風に描かれている。つまり最初から、この本のテーマはこのふたりに仮託されている。

プラネタリウムのふたごであるテンペルとタットルは、予め両親を失っている。母親の手でプラネタリウムに置き去りにされた捨て子である。と同時に、満天の星と永遠を語る父を得てもいる。星だけを見て生きてきた泣き男と呼ばれる父だ。そんなふうにして物語は始まる。

彼らが暮らす土地は聖域によって外界から閉ざされている。そこにはいまだ習俗が生きる世間がある。異端としてのふたごは、だからこそ、特別な子供として、ごく当たり前に受け入れられる。けれども、そうした閉じた平穏は当然のように失われる運命にある。

巨大産業が聖なる山を少しずつ侵食し始める。

それは古い習俗を少しずつ侵し、感傷を生みはするけれど、疎むべき変化だとは限らない。新しいものが古いものに取って代わるときに、様々な摩擦があるのは当然だろう。それは変化を望む気持ちと古きに惹かれる気持ちのアンビバレンツとして表出する。

そして、ふたごは外を知る。

変化は否応なく人々を巻き込み、ふたごは離れ離れになる。物語は急速に回転を始める。この別れは、けれどもまだ、外部の侵食に続くふたつめの大きな予兆に過ぎない。ふたりは世間の内と外で、それぞれに確かな生を生きる。互いは互いを失ったわけではない。

テンペルを外の世界へと連れ出した魔術師テオ一座。彼らを巡る物語は、多くのかけがえのないものとの出会いと喪失の物語である。憎む対象のあり得ない悲劇は、怒りを生まない分だけ、ずしりと重い。それでも共同体は幸福な幻想足りうることを教えてもくれる。

幻想は有効だ。著者ははっきりとそう主張する。

確かに冗長な部分はある。もしかすると、もう少し刈り込んだ方が完成度は高かったかもしれない。聖域が戻ってくるラストだってできすぎといえばできすぎだ。それでもこの本はキチンと伝えることに真摯である。適当な誤魔化しがない。そのまっすぐな言葉に心打たれる。

文体にさえ馴染めれば、きっと心に残る作品になると思う。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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