上坂冬子『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)

上坂冬子『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)上坂冬子『戦争を知らない人のための靖国問題』を読んだ。

面白い本だと思う。

それは何も共感できるとか納得させられるとかいった意味ではない。戦争だとか靖国だとかを語る難しさを、この本自体が証明してしまっているところが興味深い。恐らく著者が感じているであろう歯痒さを、反対のことをいう人たちも感じるだろう内容である。

要するにこれは「事実」をどうこういう問題ではなく、「解釈」や「心情」の問題でしかないということがよく分かる。何しろこの本は本当の出だしから、一貫して大きな矛盾を抱えている。批判対象に「論理」を求めながら、自らは論理的に破綻しているのである。

著者は基本的に、先の戦争について日本を一方的に悪者だとする戦後史観に懐疑的である。いわゆる「自虐史観」というやつである。著者には、戦時下というのっぴきならない状況での国民なり軍なり政府なりの判断を、現在の視点でのみ批評し、あれは間違っていただの悪かっただのというのはちょっと違うんじゃないかという思いがある。

つまり評価基準に疑問を感じているのである。

著者が主張しているのは、当時の「時の流れと世の趨勢」を考慮すべきだという持論である。もう、いきなりのワイルドカードである。みんな当時の状況についてあまりに無知だ、当時としてはあれが精一杯の判断だったのだ、という理屈はどこまで応用できてしまう。

これが著者の意図に反して、決定的に以降の論旨を脆弱にしてしまっている。この姿勢を貫くなら、現在の「時の流れと世の趨勢」を考慮して首相の靖国参拝に反対する人々を非難することはできないはずだし、同じように先の戦争を大いなる間違いとして自省する戦後史観だって否定はできないことになる。

さらにいえば、たとえば現在の北朝鮮の動きや、中国やら韓国やらが日本に対して向ける反日行動だって、「時の流れと世の趨勢」を考えれば、それらの国にとって精一杯の最善なのだという理屈が成り立ってしまう。これでは「なんでもあり」といっているに等しい。

それならば、著者は追い詰められた北朝鮮が日本にミサイルを撃ち込み、自国存続のために決起したとしても、それも仕方がないことだと許容するのだろうか。果たして、反日国に辛辣な主張を繰り返す著者にそこまでの論理的態度が望めるとは思えない。

著者は冒頭、靖国問題について議論が「上滑り」になり、「心情的にも論理的にも話が噛み合」わないと嘆く。けれども、著者の主張は多分に「心情的」ではあるけれど、残念ながら大筋において「論理的」ではないのである。お陰で細部の論理が死んでいるのはもったいない。

戦争が善悪で割り切れるほど簡単なものじゃないとか、戦時中は辛くてミジメなことばかりだったなんてのは嘘だとかいう主張は正しいと思う。色々な史料や資料をあたっていて、引用が豊富なのも好感が持てる。それだけに、自分の意に反する主張を簡単に切り捨ててしまう安直な態度が残念でならない。

歴史というのは過去の追認であり、評価である。純粋な「事実」なんかではない。歴史認識という言葉があることからもそれは知れる。事実と思われる事象をある観点から認識し、物語として共有する。それが歴史の実質的な姿だろう。

もしも歴史が単なる事実の羅列なら、「日本は自国の繁栄のため中国へ侵攻を開始した」だとか、「日本は亜細亜全土の繁栄のため中国に駐留し教化を開始した」なんて記述は共にあり得ない。もちろん自衛戦争や侵略戦争という言葉も使えないはずである。

何故なら、これらはある主観に基く歴史認識であって、事実かどうかは誰にも証明できないからである。事実だけを記録するなら、「日本からは軍人が何人と民間人が何人中国に渡って、結果何人の中国人と何人の日本人が死にました」というような内容にしかならない。

目的や理由が書かれた瞬間、それは誰かの主観になってしまう。

著者の言葉に説得力がない理由はもうひとつある。何といっても著者は幸福な戦争体験者である。国策によってマインド・コントロールされていたことに後年気付きはしたものの、当時はただひたむきに世界平和の礎となることを信じて邁進する少女時代を送ることができた。

そして、今まで生き延び、時に当時を「一種の爽快感をともなって」思い出すことができるのである。戦時中の一種宗教的な高揚感や、お国のために団結し命を懸けて頑張る充実感は、手酷いしっぺ返しに合わない限りはいい思い出になっても不思議ではない。

一方で、大本営の欺瞞を常に感じ取り、自分たちの正義を信じられず、苦しみ、悶え、非国民と罵られながら、同胞に見放されるようにして死んでいった人だっていたはずである。彼ら、彼女らは、果たして自分の国を愛し、誇りを持って死ぬことができただろうか。

凄絶なトラウマに苛まれながら苦しい生を長らえた人、被爆し見るも無残な後遺症を抱えながら半死半生の人生を送った人、戦時下の狂気に翻弄され多くを失った人たちは、果たして戦争を知る世代として著者と同じような主張をするだろうか。

ぼくにはとてもそうは思えない。

要するに、この著者がまるで戦争を知る世代の代表のように語る言葉が、ぼくにはある幸福な戦争体験者による、あくまでも個人的な感慨以上のものには聞こえないのである。著者のいう通り、戦争というのは多面的なものだろう。だからこそ、著者の主張とてその一面を捉えているに過ぎないと知って読むべきなのである。

そんなわけだから、この本はとても興味深かったし、読んで良かったとも思うけれど、それはひとつの主観として面白かったのであって、議論そのものが面白かったわけではない。ましてや昨今の根拠の見えないナショナリズムに共感して読んだわけでは尚更ない。

何やら批判めいたことばかり書いたけれど、欠点があることは無価値であることを意味しない。ただ、こうした強気の主張が気分として流行っていることに対する気持ち悪さがあるだけだ。マスコミは旗を振るだけだということも先の戦争が証明している。そのこともこの本を読めば分かる。著者がその旗振りに利用されているのは皮肉である。

断っておくけれど、これはと思う意見だって沢山書かれていた。特に日本の甘さ曖昧さ弱腰に対する苛立ち、それに対する批判なんかは条件付で共感可能だ。目新しい主張ではないし、その主張が諸外国を納得させることは考え難いけれど、それなりに頷ける部分もあった。

靖国や戦争に少しでも興味があるなら読んで損はないと思う。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/71

comment - コメント

タイトルにつられて読みました。記事にあげることはおそらくないと思いますが、この問題に関して、この本1冊で読むのを止めてはいけないと思わせてくれる1冊でした。

きしさん、コメントありがとうございます。
このタイトルや帯やカバー折り返しの惹句は、少々内容に勝ちすぎている嫌いがありますよね。ぼくもタイトルに惹かれて読んだ口です。仰るとおり、ぼくもこれで分かったつもりになっていたのでは話にならないなぁと思いました。といいながら、勤勉じゃないぼくは次に誰かの同じテーマの本を読む予定は特にないのですが…。

コメントを投稿

エントリー検索