荻原浩『神様からひと言』(光文社文庫)

荻原浩『神様からひと言』(光文社文庫)荻原浩『神様からひと言』を読んだ。

この人の本を読んでいるとなんだか懐かしい気持ちになる。内容にではない。読書体験そのものに感じる懐かしさである。もちろんこれはとても個人的な感覚だろう。ずっと不思議に思っていたのだけれど、今日ようやくその理由が判った。

赤川次郎である。

ユーモアミステリの名手といわれ、ジャンルに縛られない作品を次々と生み出し、そのどれもがとても読みやすく面白かった。家にたまたまあった何冊かの赤川次郎が、小学生のぼくに小説を読む楽しさを教えてくれたのである。

たとえば、ユーモアのラベルを貼られながらも幅広い作品を書いている。そんな漠然とした共通点はあるにはある。けれどもそれは考えてみればそうだというだけで、読みながら感じ取るものではない。感じるのはもっと手触りや匂いに近い何かである。

『神様からひと言』の特徴は何だろう。

実のところ、ユーモアと聞いて想像するほど、この本はお気楽な内容じゃない。どちらかといえば、辛くて、哀しくて、スッキリしない話である。人間は弱い。そこからまず出発している。だから、身につまされるし身に沁みる。現実は思うに任せない。

そして弱さは良心を蝕む。良心を蝕まれた人間は醜い。社内紛争やお客様相談室を舞台にすることで、著者は人間の弱さ、醜さを浮き彫りにしていく。けれども、そこに陰鬱な暗さはない。代わりに、醜さを単純に悪とせず、決して切り捨てない眼差しがある。

これなんだと思う。

この眼差しこそ、ぼくがこの作品に感じた手触りであり、匂いなのである。時にどうしようもない弱さを、醜さを、そして悪意を描きながら、その先にかすかな光を見い出そうとする。その光は、ギリギリのところで手の中に残ったわずかな強さなのである。

それを握り締めることで人は良心や優しさを取り戻す。

笑いというのは、実は強さなのだろう。それも、弱さを知って初めて分かる強さである。著者がユーモアを作品に織り込むのは、それが人を生かすと知っているからかもしれない。失敗を笑い、悲惨を笑い、弱さを笑う。決して嘲るのではない。

嘲笑や皮肉をユーモアとはいわない。それは心根の弱さの表れだからだ。ただの脊髄反射のような笑いもやっぱりユーモアとはいえないだろう。それはネタの尽きた芸人が間のテクニックだけで笑いをとるようなものである。後には何も残らない。

この本には正しいユーモアがある。

そして、ユーモアを生むのは、たぶん知性と優しさである。

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