米澤穂信『さよなら妖精』(創元推理文庫)

books060629.jpg米澤穂信『さよなら妖精』を読んだ。

どちらかといえばマイノリティに属する。そんな心性を持った高校生たちが主役だからだろうか、ちょっと重い青春小説になっている。その重みは物語が進むほどにいや増し、ラストで最高潮に達する。それは青春を押し潰すほどの力を持っている。

だから、これは青春の終わりを書いた青春小説なのかもしれない。

ミステリとしては「日常の謎」の系譜といっていいのだろうけれど、日常というには少々非日常な状況設定になっている。物語はユーゴスラヴィアからやってきた少女マーヤを中心に回り始める。彼女の目に映るニッポンの断片は謎と誤解に満ちている。

そこに正しい解釈を与えるのが守屋と太刀洗の役割である。守屋は多少ヒネてはいるけれど、割と平均的な男子高校生といったキャラクターを与えられている。それに比して、太刀洗の方はほとんど女子高生というブランドを放棄しているかのようだ。

マーヤと太刀洗という両極端なキャラクターは、アニメ的だとかゲーム的だとかいう形容が、ある程度当てはまるかもしれない。真っ直ぐで人懐っこいマーヤと極端に寡黙で孤高に見える太刀洗。類型的といえば類型的だ。そして、どちらも女子高生的ではない。

この手のキャラクターを愉しめるかどうかで、案外好き嫌いが分かれてしまうかもしれない。妙に雑学的な知識が会話の端々に出てくるのも、どこか閉鎖的な空気を助長している。彼らがマイノリティに見える所以だろう。

ありていにいえば酷くオタク的だ。

けれども、マーヤを間に置いたとき、彼らのそうしたオタク的な性質は、俄然意味を持ってくる。文化を学びにやってきたマーヤは触れるものすべてを吸収し、理解しようとする。ここに生まれる、ギブアンドテイクの関係は、多分恐ろしく臆病で慎ましい恋愛関係であり、友情関係なのである。

それは彼らが繰り返す空虚な言動ほどにドライなものではない。

けれども、マーヤの置かれた立場は、そうしたぬるい高校生の日常に埋没することを許さない。彼女は聡明で快活だけれど、脳天気なわけではない。祖国を創るためにすべてをかけている。それは平和の中にあっては想像を絶する生き方である。

「オレなんて」と口にしながら、心の中では「いつかはオレだって」と思っている。自分は無力だと喧伝しながら、実のところ何もできないなんて思ってもいない。思い切りが足りないだけで、踏み出しさえすれば何かが変わる、そんな風に思っている。

そういう青春の形は、たぶん普遍的なものだ。

守屋は一歩を踏み出すための推理を始める。この作品最後の謎解きである。けれども、見所はやっぱり、その謎の先にある。ついに決心した守屋はそこに何を見付けるのか。驚愕の結末なんてどこにもない。きっとそれは予想通りの終幕だろう。

けれども、やっぱり呆然とするしかない。

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