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2007年04月30日

乾くるみ『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)

books070430.jpg乾くるみ『イニシエーション・ラブ』を読んだ。

本来なら神経質なくらいネタバレに気を遣わなければならないタイプの作品だ。けれども、必ず2度読みたくなるというような宣伝の仕方自体が、すでにミステリファンにトリックの系統を匂わせてしまっている。もちろん、売るための惹句として効果的であれば、その程度のネタバレは已む無しという判断あってのことなんだろう。

ただ、この作品の場合、アレ系だと身構えて読まれることを、ある程度歓迎している節もある。そもそもまったく先入観なしに読みたい人は他人の感想など読まないという、ぼくの手前勝手な憶測に基づいて軽く書いてしまうと、要するにこれは叙述系のトリックがウリの直下型大どんでん返しミステリなのである。

叙述系のトリックだとかいわれても何のことかよく解らない人は、とりあえずこの系譜の作品の試金石、あるいはイニシエーションとして、何も考えずに読んでみるといいかもしれない。きっとイライラするラブ・ストーリーに付き合うだけの価値はある。そういう筋は肌に合わないという人には、貫井徳郎の『慟哭』をお勧めしておく。

この本の読みどころはもう、ちまちまと仕掛けられた伏線がすべてなわけで、それをここで書き連ねるわけにはいかない。なので、搦め手でいく。まず、時代設定がバブル真っ只中の1980年代半ばというのが、ひとつのポイントになる。少し前に“バブルへGO!! タイムマシンはドラム式”なんて映画もあったけれど、流行りなんだろうか。

本を開くとすぐに、その時代感覚が分かる人には分かるようになっている。レコードをモチーフにした意匠で、目次が曲目リストになっているのである。これを懐かしいと思える年頃のミステリ好きなら、とりあえずは楽しめる要素が色々とあるんじゃないかと思う。オメガトライブやCCB、森川由加里辺りが作中の時世的にはど真ん中だろう。

作品自体も前半と後半でSide A、Side Bという区分けがされていて、これ自体も伏線といえるかもしれない。ただ、作中細々と張り巡らされた伏線の中には、その時代を知らない世代には気付きようのないものも若干ある。OA機器に関するくだりや、テレビドラマを利用した錯誤部分などは、知らないことにはどうにもならない。

パズルのように伏線を回収しながら読むのが好きな人は、たとえ途中でネタが割れても最後まで大いに楽しめるだろうし、そういう読み方が苦手な人は軽く読み流して最後の2行で目を点にすればいい。ただ、あんまり読み流しすぎるのも考え物で、著者の仕掛けにまるで気付かないなんてことになりかねない。

この本では大きく2通りの叙述的な仕掛けが施されている。その内の片方が最後の最後で暴露されるわけだけれども、そこから芋蔓式にもうひとつのミスリーディングにも気付くようになっている。そのもうひとつのミスリーディングに関しては、ちょっと錯誤の幅が狭くて分かり難いところがあるかもしれない。

ヒントは「二股」とだけ書いておく。

けれども、話としての醍醐味はこの分かり難い方の錯誤に気付く、その瞬間の後味の悪さにある。これは、特に男性読者にとっては辛いオチである。ヒロインの境遇に同情を寄せ、義憤に駆られながら読んだりすればまさに思う壺。著者のほくそえむ顔が目に浮かぶ。こうして男は手玉に取られるのだなと、薄ら寒い思いをすることになる。

確かに、単なるエピソードとしてこのラブ・ストーリーを見るなら、これは陳腐でどうにもならない。地元を離れて現地妻を作る男の見苦しい自己正当化の過程やら、妊娠、堕胎を巡る阿呆な顛末やら、読んでいて辟易する。けれども、そこで投げ出さないことが肝要なのである。ちゃんと恐ろしい逆転劇が待ち受けている。

陳腐な恋愛譚が痛烈な皮肉に変わる瞬間をぜひご自分の目でどうぞ。

2007年04月26日

枡野浩一『石川くん』(集英社文庫)

books070426.jpg枡野浩一『石川くん』を読んだ。

石川くんというのは、石川一くんのことである。筆名でいえば啄木、『一握の砂』のあの啄木だ。帯を糸井重里なんかが書いていて何かあるなと思っていたら、どうやら「ほぼ日刊イトイ新聞」で連載していたものらしい。ほぼ日はたまに見ているのだけれど、具には読んでいないものだからまったく知らなかった。

だから、暇潰しに連載の内容だけ読めればいいという人は、買わなくてもほぼ日で過去の連載を探せば読めてしまう。ただし、連載と本の違いはいくつかあって、まあ買っても損はない。まず、朝倉世界一のイラストがふんだんに盛り込まれている。これはかなりのアドバンテージだ。挿絵がこれほど効果的な本も珍しい。

もうひとつ大きいのは巻末の「石川くん年譜」で、著者なりの視点と文章で構成された啄木の生涯がダイジェストで紹介されている。ただの無味乾燥な年譜ではない。ちゃんと著者らしい読み物になっている。ここでもマスノ短歌化された啄木の歌が随所に挿入されている。オマケというにはずいぶんと手が込んでいる。

さて、今「マスノ短歌化された」と書いたけれど、要するにこれがこの本のウリである。90年以上前の歌人石川啄木の歌を、イマドキの歌人枡野浩一が詠み直す。たとえば、帯で紹介されている作例を挙げればこんな感じだ。「一度でも俺に頭を下げさせた/やつら全員/死にますように」…なかなかに素敵である。

もちろん、この本は歌集ではない。読み物としてのメインはエッセイで、これは著者が石川くんに宛てた手紙という体裁をとっている。これがまた、啄木をよく知らない人にとっては衝撃の内容で、油断していると腹筋を痛めるくらい可笑しい。何しろ、その歌風からは想像もできないような、とんでもないダメ人間ぶりが暴露されている。

ざっくりといえば彼は完全な生活破綻者で、「わが生活楽になら」ないのは実は働いてなかったからなのである。しかも、北国に親と妻子を置いて上京し、仕送りもせず借金を重ね、その上で遊女と遊び呆けるという筋金入り。無駄にプライドは高いし、現実は見えていないしで、社会不適応も甚だしい。

読めば読むほど素行は最悪だし内面的にも相当に問題がある。ところが、どうも彼は人に嫌われてはいないのである。そして、不思議なことに、読んでいるこちらまでが、不思議と啄木という愛すべきダメ人間に愛着を覚え始めていることに気付く。どうしても憎めないのである。それは20代の若者の素が見えるからかもしれない。

著者の筆致は軽妙洒脱ながら、歯に衣着せぬ書きぶりで、決して啄木の素行の悪さを庇い立てしたりしない。お笑い風にいうなら、イジってイジってイジり倒す。そして、ベテラン芸人に巧くイジってもらった若手芸人がブレイクするように、一方的に著者にイジられる今は亡き石川くんが次第に愛しく思えてくるという仕掛けである。

さらに巧妙なことには、口語短歌自体にも魅力を感じるように仕組まれている。啄木という類稀なキャラクターをダシに、結局は短歌の面白さを存分に伝えている。今や口語短歌は世に溢れている。インターネットの普及は短歌界にも漏れなく影響を与えたらしく、ネット短歌と呼ばれる作品たちが引きも切らず発表されている。

その牽引力のひとつに、著者辺りも数えられるのかもしれない。

もちろん、こうした潮流には否定的な見解も少なからずあるだろうし、実際ツマラナイ作品が多いことも事実だろうと思う。ネット上に散見される素人小説の多くが読むに耐えないように、短歌だってそうそう誰もが巧く詠めるわけではない。ただ、敷居をある程度下げ、裾野を広げることが業界を豊かにすることはあるだろう。

あるいは歌人は育たずとも、良き鑑賞者は育つかもしれない。良さを認め、愛でてくれる人あっての芸術である。その意味で、著者のような才能が新しい世代を取り込み、糸井重里のような前時代の仕掛け人が、それを面白がってひと役買うという構図は、好もしいものだと思う。面白いものはやっぱり残り続けて欲しい。

それにしても、啄木のキャラ立ちは半端じゃない。

2007年04月25日

蒼井上鷹『九杯目には早すぎる』(双葉ノベルス)

蒼井上鷹『九杯目には早すぎる』(双葉ノベルス)蒼井上鷹『九杯目には早すぎる』を読んだ。

先に『二枚舌は極楽へ行く』を読んでいたから、いきなりこのデビュー作に当たった人に比べれば耐性ができていたかもしれない。にも関わらず、やっぱり面白かった。面白いというか苦かった。これほど健気な小市民がドツボに嵌る姿ばかり描かれる短篇集というのも凄い。人が悪いとはこういうことをいうのである。

短篇やらショートショートばかりだから、どれも説明は最小限である。中には食い足りない印象の話もある。けれども、仮に全部説明してあったとして、それはそれで野暮だろうとも思う。ズルズルと引き込まれるのは、この「もう少し説明を…」という飢餓感にもよるのかもしれない。難しい匙加減をうまくコントロールしている。

テイストは完全にブラックで、奇妙な味わいのフルコースといった趣。哀れを誘うものから思わずゾっとするものまで、その振れ幅は思いのほか大きい。しかも、かなり凝った推理モノになっている話もある。そう思って身構えて読むと、みごとにスカされたりもするから油断ならない。一筋縄でいかない。

ある種の連作ミステリを読みなれている人がこの本を初めて手にすると、まず「大松鮨の奇妙な客」のラストで吃驚することになると思う。何しろ探偵役がアレである。もちろん、こうした仕掛けは目新しいものではない。けれども、うまく読み手の先入観を利用している。しかも、あまりに可愛そうで驚きながら胸がチクチクと痛んだ。

この著者の文体がまた恐ろしくネットリと巧くって、気分を逆なですること夥しい。後味はどれも最低で、スッキリする話なんてひとつもない。「私はこうしてデビューした」や「タン・バタン!」に見るめくるめくディスコミュニケーションの嵐など、神経がねじ切れるほどの絶品である。各主人公にはご愁傷様といういうよりない。

後味の悪さでいうなら、ショートショート「清潔で明るい食卓」が最凶だろう。あっさりとしながらこれほど悪意に満ち満ちた話はない。この短さでこれだけ禍々しい読後感を植えつけるなど、なかなかできるものじゃない。しかも、油断していると、ついさらりと読み飛ばしそうになる。その何気なさがいっそう怖い。

落ち込む話という意味では「見えない線」も凄い。若い男の恋愛譚みたいなものはうまくいかないのが世の常で、大抵は切なさがウリになる類の話である。もちろん、この著者にそんなセオリーは通用しない。最悪の卓袱台返しともいうべき身も蓋もないラストには、主人公のみならず、感情移入していたこちらまで茫然自失の態である。

表題作をはじめ、タイトルのセンスも好い。最後に収められている小説推理新人賞受賞作「キリング・タイム」は、一義的には「暇潰し」の意味である。これが読み終えると洒落にならないダブルミーニングになっている。可笑しいやら哀しいやらで、ついしんみりしてしまった。これぞ正しいスラップスティックの姿だろう。

デビュー作にして手練の風格である。

叶うならば、上質な短篇作家であり続けて欲しい。


【収録作品】
・「大松鮨の奇妙な客」
・「においます?」
・「私はこうしてデビューした」
・「清潔で明るい食卓」
・「タン・バタン!」
・「最後のメッセージ」
・「見えない線」
・「九杯目には早すぎる」
・「キリング・タイム」

2007年04月19日

深水黎一郎『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』(講談社ノベルス)

深水黎一郎『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』(講談社ノベルス)深水黎一郎『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』を読んだ。

メフィスト賞がまた色物を投入してきた。そう思うのが真っ当なミステリファンの反応というものだろう。このタイトルならそれが当然だ。装丁は装丁で円鏡を模した銀の箔押しときている。すわ超地雷級傑作小説かと身構えるのも無理はない。これだけの条件が揃っていて、普通の小説を期待する方がどうかしている。

だいたい、書名の本題が意味不明だ。ネット上の書評を拾い読んでも誰もここには触れていない。仕方がないので自力で調べてみた。どうやらこれはイタリア語で「ULTIMO=最後」、「TRUCCO=化粧」という意味らしい。ぼくの読み方が浅いんだろう。最後まで読んでもこのタイトルの意味はよく解らなかった。

ともあれメインとなるアイデアは完全な一撃必殺系トリックで、失笑するか感激するかは読者の感性次第である。ただ、一発狙いの色物という評価は必ずしも当たっていない。意外に丁寧な推理小説なのである。「読者が犯人」という一発逆転ネタを宣言してしまって、最初からメタな仕掛けを匂わせるやりかたも巧い。

つい読みが丁寧になる。

それを見越して張られる伏線は、さすがに念が入っている。表現的に必ずしもフェアかという話になれば異論もあろうけれど、回収の仕方はしつこいくらいに丁寧だし、およそ無関係そうな挿話まで実に巧く取り込んでいる。それにミステリ談義や超心理学談義は、伏線のことなんか忘れて読んでも結構面白い。

へぇ、と思ったのは自称超能力者の双子の美少女が使うトリックで、すぐにでも実行できそうな実用的なアイデアだなあと感心してしまった。視覚的にも聴覚的にも完全に隔離されたふたりが、いかに相手の選んだESPカードの模様を知り得たのか。伏線として機能してもいるのだけれど、単にネタとしても面白い。

こんな具合に、最後の一発ネタだけに頼らず、ちゃんと意味のあるエピソードでリーダビリティを確保している。視点人物の小説家も超心理学の博士も本好きの友人も、キャラクターとしてはやや一面的だけれど、エンターテイメントとして愉しむ分には、これくらいの書き込みが良い塩梅に思える。

それじゃあ、肝心のメイントリックはどうなんだ、ということになる。

この著者は、作中でどんどん自らハードルをあげていく。具体的な書名には触れないものの、同趣向の過去作品にまで言及し、それらの不完全さを論っているのである。こうなると、どう「落とし前」を着ける気なんだと読んでいるこちらがハラハラしてしまう。これはなかなかの糞度胸である。

最大のポイントは、「すべての読者が例外なく犯人でなくてはならない」という点だろう。つまり、一読者たるぼくも、読み終えた段階で「作中の事件に影響を及ぼしてなければならない」ということである。これはなんともあり得そうにない話である。単にメタフィクショナルな仕掛けでは苦しい。

以下2段落ほど、真相に関わる記述があるので未読の向きはご注意を。

著者が繰り出す奥の手は、メタとフィクションの境界線上にあるような微妙な設定である。問題になってくるのは、視点人物が書いている新聞小説である。これが、読者を犯人にするための重要な伏線となっている。著者はこのトリックについて、メタではないといい切っているらしい。実際にはこれがどうにも怪しい。

何しろ、ぼくは自分が犯人だと思えなかった。理由は明快だ。ぼくが読んでいたのは本だ。新聞ではない。「自分は新聞を読んでいたのか」と素直に思える人でないと、このトリックは意味を成さない。読者は実は新聞連載を読んでいたという「設定」なのである。つまり「メタであることに気付かない」ことが重要なのだ。

この作品が本当に新聞連載だったらと思うとちょっと残念だ。

個人的な感想をいえば、メイントリックはギリギリ及第点、推理小説としては十分に及第点といったところだろうか。アイデアと緻密な構成がウリの作家であれば、文章に味はなくとも、変な癖もないから問題はない。いずれ、宣伝のされ方やタイトルのインパクトだけで引いてしまうのはもったいない。

書名や装丁や帯の惹句とは裏腹に、実に堅実なつくりの推理小説である。

2007年04月14日

浦賀和宏『世界でいちばん醜い子供』(講談社ノベルス)

浦賀和宏『世界でいちばん醜い子供』(講談社ノベルス)浦賀和宏『世界でいちばん醜い子供』を読んだ。

ここまでくると、書名にシリーズ名と連番を付すべきじゃないかと思う。なにしろ、シリーズモノだけど単体でも楽しめる…みたいな配慮は全然ない。『松浦純菜の静かな世界』から順に読み進むことが、この本を愉しむための絶対条件となる。と、前振っておいて、今回の感想はこれだ。

意外性炸裂。

前作の破壊的顛末に固唾をのんだ読者を、あたかも嘲弄するかのようなスカした展開である。モンスターとして開眼したかに見えた八木剛士が、なんとほとんど出てこない。というのも、視点人物が八木からヒロインの松浦純菜にシフトしてしまったのである。

ルサンチマンと呼ぶには壮絶すぎる八木節は、5作目『さよなら純菜 そして、不死の怪物』で臨界を迎えた。主人公が鬼畜と化す。それが読者の溜飲をさげるという、いかにも著者らしい屈折。だからこそ、誰もが八木の変貌後の姿に期待したはずなのである。

ところが、ここで素直に一皮むけた八木君の姿など描かないのが浦賀和宏という作家の持ち味だろう。もしかすると、このシリーズは今作で後半戦に入り、松浦純菜の物語にシフトしたのかもしれない。これから5冊をかけて純菜の飛翔が描かれる。そんな風にも思える。

これまで八木視点で描かれてきた純菜の姿は、まさしく地上に舞い降りた天使のごときものだった。腕に障害があるとはいうものの、容姿、行動力、コミュニケーション能力に優れ、本来なら自分とは住む世界の違う女の子。自分との繋がりはただ特殊な「力」のみ…というのが八木の主観的世界だった。

純菜視点に切り替わった意味がここにある。

八木視点では完全に勝ち組のひとりだった純菜が、実はかなり深刻な劣等感に苛まれている。純菜視点では、完全に八木、南部寄りのドロップアウト組の一員なのである。にも関わらず、自分は彼らよりはマシだと見下す心を否定できない。それは相当に苦しい立ち位置である。

のめりこんで読むと気付き難いけれど、今回も純菜の行動自体はとても積極的だ。ところが内面描写が加わるだけで、なんともドロドロと煮え切らない態度の連続に読めてしまう。まったく同じ展開を八木視点で描いていたなら、オタクの自分を見捨てて飛翔するアクティブな美少女のままだったはずだ。

実は、今回はっきりすることがひとつだけある。純菜の八木に対する気持ちである。これまでは、八木がひとり悶々と想像を巡らせるばかりで、なんとも歯痒い状態が続いていた。これに一応の答えが与えられる。ただし、今度は純菜の独り相撲という形で、である。

これまで八木の妄想に引きずられて純菜を神格化してきた読者にとって、ここで描かれる彼女の内面は簡単には受け止め難い。歓迎すべきでもあり、どこか残念でもある。そして、なによりもシンパシーを感じてしまう。考えてみれば、これは結構な力技である。

コペルニクス的転回とかベタなことをいいたくなる。

結局はラブストーリーを書いている。そう思いたくなるくらいに、この作品は純菜と八木のすれ違いの物語と化してきた。そして、そうした読みに心地好ささえ感じ始めている。けれども、これはたぶん罠だろう。浦賀和宏という人がこの手の甘い期待に応えるような作家だとは思えない。

果たして著者はふたりの物語をどこへ繋げようとしているのか。

これほど心に引っかかる小説もなかなかない。


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浦賀和宏『松浦純菜の静かな世界』(講談社ノベルス)
浦賀和宏『火事と密室と、雨男のものがたり』(講談社ノベルス)
浦賀和宏『上手なミステリの書き方教えます』(講談社ノベルス)
浦賀和宏『八木剛士史上最大の事件』(講談社ノベルス)
浦賀和宏『さよなら純菜 そして、不死の怪物』(講談社ノベルス)
浦賀和宏『世界でいちばん醜い子供』(講談社ノベルス)

2007年04月12日

武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社ペーパーバックス)

武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社ペーパーバックス)武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』を読んだ。

例に漏れず3月25日の“たかじんのそこまで言って委員会”がきっかけである。実はその時点では特に買ってまで読もうとは思っていなかったのだけれど、梅田の旭屋書店を通りかかったときにふと目に留まってしまった。

何しろ、目立つ帯がかけられ、目立つ棚にズラリ並んでいるのだから、ああ、あのときのテレビのあれね、と思わず手に取るのが人情というものである。確かに環境問題の欺瞞を告発する話は面白かったし、流行にのるのも悪くはない。

この著者はたぶん、なかりどっぷり科学の人なんだろう。とにかく、目の前の事実というものを、単刀直入にぶつけてくる。これは実に分かりやすい。表現も極めて平易だ。図表やグラフも豊富で、証拠好きの期待にも十分応えてくれる。

ただし、ひとつだけ留意すべきは、科学的態度と論理的態度は必ずしもイクォールではないという点である。ここでいう科学的というのは、経験主義や実証主義的なものを指している。これは案外に重要なポイントだ。

何故なら、本書は冒頭第1章の1節目から、いきなり論理的ではないからである。これは決して間違っているという意味ではない。著者の主張が正しい可能性もあるけれど、違う可能性も十分にあるという意味である。

著者が示す科学的データは「ペットボトルの消費量」と「ペットボトルの回収量」と「再利用量」の年度毎の変化である。付されたグラフはまさに一目瞭然で、消費量と回収量はほぼ同じ角度で年々急増、再利用量は極めて微増というものだ。

平成5年は消費量が12万トン分別回収は始まっていない。平成8年には回収が始まっており、消費量が18万トン、回収量は0.5万トンとなる。これが平成16年になると消費量が51万トン、回収量は24万トンにまで膨れ上がっている。

こうした事実を元に著者は「ペットボトルの分別回収が進むと販売量、つまり消費量が増えたことがわかる」と書く。科学的には間違った記述ではたぶんない。ただし、論理的にはすこぶる弱い。相関関係と因果関係の問題が不明瞭だからだ。

示されたデータからわかることは、「分別回収が進む」ことと「消費量が増える」ことには何らかの相関関係がありそうだということだけで、分別回収が原因で、消費量増加が結果だという根拠はどこにもない。

例えば、消費量が増えたのは、ペットボトルが生産者、消費者双方にメリットが多かったためかもしれない。その結果、急増したペットボトルのゴミ問題が取り沙汰され、分別回収が推進されたのだとすれば、先の因果は逆転する。

誤解のないように書いておくけれど、ぼくはこの本の信憑性が低いとか、眉唾だとかいいたいわけではない。もしかすると、明示されていないだけで、分別回収⇒消費量増加という著者の説明にもちゃんと論拠はあるのかもしれない。

そもそも限られた紙幅で、これだけ完結明瞭な内容に仕上げようと思えば、すべての論拠を記述することなんてことは不可能だろう。先の例に限らず、計算や推定の道程に、論理的に不明瞭な部分が結構散見される。

つまり、そこはある程度ニュートラルな視点で読むべきだろうというのが、ぼくの率直な感想なのである。何しろ、著者の書き方があまりにも明快なために、スルスルと頭に入ってきすぎる。これはちょっと危ない。

また、利権がらみの糾弾にもなっているため痛快でもある。官に対する不信や、利権に対する嫌悪は、少なからず誰しもが持っているものだろう。そうなると、著者に肩入れする気持ちが、論拠の弱いところまで丸呑みにさせかねない。

そこは多少の注意が必要だと思うのだ。

とはいえ、ここに書かれている環境問題に関わる欺瞞の告発は、概ね納得のいくものばかりである。ただセンセーショナルなだけではない。「分別回収」が先か「消費量増加」が先かは判らずとも、圧倒的な再利用の少なさに変わりはない。

そもそもこの本に書かれている客観的、あるいは歴史的事実の部分だけを並べてみても、これまでマスを通して印象付けられてきた環境問題との落差を知るには十分だ。著者の見解を保留したとしても十分に読む価値がある。

ペットボトルはほとんど再利用できないしされていない。再利用には新しく作るより余計に石油が必要になる。猛毒のはずのダイオキシンによる患者はひとりもいないし、森林は総合的に見れば二酸化炭素を吸収しない。

温暖化で海水面があがって大変なことになるというトンデモ説が、実は朝日新聞のシミュレーション記事が発端だったというのも面白い。これはもう当たり前すぎることだけれど、北極の氷がとけても海面は上昇したりしない。

当たり前な事実から意外な事実まで、覚えのある話題ばかりで飽きない。

ただ、締めくくりの「本当の環境問題」に関するくだりは、少々問題ありかもしれない。著者は近い将来の石油資源の枯渇とそれに伴う食糧危機を危惧しているのだけれど、これはまあ、現時点では反論の声の方が大きいかもしれない。

石油資源の問題については誰にも100%なんてことはいえないにしろ、現状では枯渇しないとする説の方に説得力があるように思う。ただ、需要と供給のバランスで、安い石油を大量に使うなんてことはできなくなるかもしれない。

これはこれで苦しい状況になることは考えられる。この場合、次に石油の価格が下落するときは、石油の価値がなくなったとき、即ち、別の有力なエネルギー源が確保されたとき、ということになるだろう。

いずれエネルギー問題は予測の条件が流動的すぎてなんともいえない。

ちなみに、ぼく個人の環境に対する考えはまったく別の方向を向いている。

まあ、それはまた別の話である。


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2007年04月06日

あさのあつこ『バッテリー 6』(角川文庫)

books070406.jpgあさのあつこ『バッテリー 6』を読んだ。

人気シリーズの最終巻である。賛否があってしかるべき内容だろう。何しろ、一向にスッキリしない。著者も思い切ったことをする。この終わり方は、無責任だといわれても文句はいえない。そもそも最後で割り切れるような展開にはなっていなかった。であれば、覚悟の上でやったことに違いない。それだけの葛藤が見える。そういう終わり方だった。

著者自身、つかみ切れなかったといっている。そもそも完結などありえない話だったのだろう。少年たちの生きる姿を追うドラマである。終わりなどないのが当たり前なのかもしれない。だから、これは彼らのほんの短い少年期を切り取って見せた、大きな物語の一部だったともいえる。そういう物語はいくらもある。

ただ、鮮やかに切り取られた少年時代の1ページ…ともいえないのが、この物語の難しいところかもしれない。シリーズ1冊目は、そういう匂いのする話だった。少年たちの日常や葛藤は分かりやすい瑞々しさを湛えていたし、天才ピッチャーの巧は一際明るく輝いていた。1冊で終わってもおかしくない。そういえるような物語らしい快感があった。

シリーズが長期化する内、そうした分かりやすさは徐々に薄れ、巧が決定的に揺らぎ始めた辺りから雲行きが怪しくなっていく。彼は物語の中で求心力を失っていくのである。そして、終盤の物語を牽引するのは、むしろライバル校の生徒たちである。特に瑞垣という異様にクレバーな少年が、ほとんど主役コンビを食ってしまう。

とにかく彼の屈託は頭ひとつ抜けている。ようやく人間らしさに目覚めて苦悩する巧などより、よほど人間臭い。瑞垣の屈託は、門脇と巧というふたりの天才の邂逅を機に、堰を切ったように溢れ出す。エリートチームの豪腕バッターと生意気な年少ピッチャーの一騎打ち。本来ならこれこそが本筋だろう。にもかかわらず、瑞垣なのである。

普通なら、最終巻で本筋に戻そうとする。そういうものだろう。けれども、あさのあつこという作家は、走り出した筆を止めない。一度少年たちの内面に踏み込むと、なかなか戻ってこない。脇道に逸れたとしても、その道を踏破するまで決して引き返さない。物語は見事に停滞する。その傾向はシリーズ後半辺りからすでに顕在化していた。

もちろん、それは必ずしも瑕にならない。物語が停滞する代わり、少年たちが生き始める。ダイナミズムは物語にではなく、巧の中に、豪の中に、海音寺の中に、門脇の中に、そして瑞垣の中にある。1、2作目で期待したような巧の成長物語は、極めて小さな要素へと矮小化してしまった。爽快感のある小さなヒーローの物語ではなくなったのである。

かようにこのシリーズは初期と中後期で、ほとんどその性質を変えてしまっている。

もちろん、カッコいい少年たちが活躍するキャラクター小説としても申し分ないできである。今時の中学生はこんななのかどうなのか知らないけれど、屈折の仕方や苦悩の仕方までがやたらスマートで恰好好い。ある種の腐女子ウケしてもおかしくないこうした性質が、実はこの作品が児童書らしくない本当の理由かもしれない。

ちなみに、このシリーズ完結後に著者は瑞垣にフォーカスした『ラスト・イニング』という本をものしている。いかに著者の関心が瑞垣に動いていたかが伺える。また、6作目のその後を描いているという点では、視点こそ違えど、ほとんど正編の後日談といっていい。落とし前をつけたのかもしれない。これを蛇足と取るか否かは読み手の好みの問題か。

いずれ、ぼくは文庫化を待つ身なので当然未読である。

2007年04月05日

豊島ミホ『檸檬のころ』(幻冬舎文庫)

豊島ミホ『檸檬のころ』(幻冬舎文庫)豊島ミホ『檸檬のころ』を読んだ。

著者は若い。早稲田大在学中にデビューし、本作を書いたのはその3年後だから、プロフィールから計算すれば23歳のときということになる。それで著者の分身と思しき女子高生たちをショートストーリー仕立てで書いている。ほんの数年前の過去を振り返って、あの頃のわたしは…とやるわけである。お陰でえらく生々しい。

パラパラと立ち読みしたあげく買わなかった『底辺女子高生』という本がある。その名の通り、ド田舎の無様な(と本人がいっている)女子高生時代をえらく率直に綴ったエッセイである。なるほど、『檸檬のころ』のキャラクターたちは、かなりの割合で著者自身の構成要素を割り振られている。そして、確かに内にこもってもいる。

みんなそれぞれになにがしかの屈託があり、挫折がある。連絡短篇というよりは群像劇に近い作りで、複数の視点からそれぞれの物語の主人公たちが相対化されていく。ある視点からは憧れの的であっても、別の視点からは忌避や妬みの対象であったり、主観ではうじうじとしたコンプレックスの塊だったりする。若い人が親近感を持つ所以だろう。

彼女たちは孤高の美少女であったり、音楽オタクであったり、教師と校内恋愛中であったり、軽いセックス依存であったり、保健室登校であったり、性的潔癖症だか不感症みたいなものだったりする。痴漢のチン○ンをカッターで切りつけたり、特別教室で教師とセックスに励んだり、失恋で家出したりと、いかにも情緒不安定である。

どうやら、これが地味で平凡な田舎の女子高生の姿であるらしい。

自慢じゃないけれど、ぼくも田舎育ちである。田舎というのは人間関係が煮詰まりやすい。ビバヒル状態になりやすいともいえる。ただ、それは学生同士の人間関係において、底辺だとか平凡だとかいった立ち位置の人間に起こることではなかった。そういう起伏のない青春時代を過ごしたぼくには、彼女たちの学生生活は十分に刺激的に映る。

本作でいうなら、男子生徒に親しくされて舞い上がった末に、相手にその気のないことを知ってしまう女の子くらいが、ぼくの知る平凡な等身大学生の限界だ。それでも、そんなエピソードのひとつもあるだけで恵まれている。保健室登校だの、家出だの、学生社会不適応もそこまでいけば立派な青春物語だ。大人には許されない特権的行為である。

平凡とは、そんな挿話のひとつもないことをいうのだと、個人的には思う。そんなものはたぶん小説にならない。そう思って読めば、ここに描かれているそれぞれの青春は、十分に波乱万丈である。だからこそ、この本は誰にでも面白く読めるのだし、それこそ共感可能な程度に平凡で浅はかな精神構造が可愛いくもある。巧いものだと思う。

要するに、個々に起こる事件や置かれた状況は、必ずしもありふれたものだとはいえない。けれども、思うようにいかない青春時代というのは、多くの人にとって共感可能なものだろう。その意味で、これは普通の女子高生の平凡な日常を、そのあるかなきかの輝ける瞬間と共に描き出すという、とても危ういバランスの上に成り立っている。

もしかすると、これは著者自身の自己肯定の物語なのかもしれない。

ちなみに、この小説は映画化されていたりもする。


【関連リンク】
・映画“檸檬のころ - れもんのころ -”公式サイト

2007年04月04日

池谷裕二『進化しすぎた脳 中高生と語る[大脳生理学]の最前線』(ブルーバックス)

池谷裕二『進化しすぎた脳 中高生と語る[大脳生理学]の最前線』(ブルーバックス)池谷裕二『進化しすぎた脳 中高生と語る[大脳生理学]の最前線』を読んだ。

難しいことを平易に語ることは大変に難しい。よくいわれることでもあり、よく実感することでもある。この本の美点は、とにかく広範に渉る脳関連の話題を、極めて分かりやすく語っている点にある。高校生相手の講義がベースになっているため、話し言葉で書かれているのも、この場合は効を奏しているといえそうだ。

高校時代に読んでいたら世界が変わっていたかもしれない。…とは、本書についてよく目にする評判である。確かに、今のぼくが高校生だったらかなりの影響を受けたかもしれないとは思う。それくらいに面白い。ただ、ここに出てくる学生たちはえらくクレバーである。なるほど、これくらい冴えた高校生だったなら得るものも大きかったろうと思う。

残念ながら、学生時代のぼくは彼らよりもずっと盆暗だった。

それはさておき、表題の「進化しすぎた脳」というのは、この本全体のテーマになっているわけではない。脳の能力は脳が置かれた環境、つまり、搭載された肉体(ハードウェア)の性能によって規定されてしまう。恐らくは、より高性能なハードに今の脳を乗せても、ちゃんと順応し、使いこなせるだけのポテンシャルを脳はすでに持っている。

そのことを「進化しすぎた脳」と表現しているのである。

この本が滅法面白い理由のひとつには、かなり新しい科学的知見や、いまだ定説化していないような話題にまで自由に羽を広げている点が挙げられる。心脳問題のような哲学的領域もカバーしながら、科学誌からの引用や実験の紹介も随所に挿入されている。また、自身の研究や個人的見解に言が及んでも、口を濁すことなく実に平明に語られている。

脳とコンピューターの差異、意識と無意識の境界、神経とクオリアの関係、人間が曖昧な記憶しか持てない理由、その仕組み、認知症に関わる最新の知見など、それなりに分厚い本のどこをとっても大変に興味深い。今やご意見番と化している養老孟司や、最早思索の人といっていい茂木健一郎らにはない、一線の研究者としての勢いが感じられる。

たとえば、人は所詮自分の脳を通してしか世界を把握できないというのは、特に科学的な説明なんてなくても共通理解が得られるほどに一般化した考え方だと思う。この点で養老孟司の『唯脳論』が果たした役割は大きかったろうと思う。初めて読んだときの興奮はいまだ忘れ得ない。けれども、本当の意味でこの事実を実感することは案外難しい。

これを著者は視覚を例にとって科学的に説明する。実は人の視神経は100万本程度しかない。一見多く思えるけれど、デジカメの画素数と比較してみると、ずいぶん荒いことに気が付く。けれども、人は低解像度のデジカメやモニターが映し出すようなガタガタの景色を見たりはしない。つまり、性能の悪い入力系を脳が補完していることになる。

これは大袈裟にいえば捏造である。

何しろ、実際には神経系が拾っていない情報を脳が勝手に書き加えているのである。敷衍すれば、知覚系と脳の性能が、今ある世界を規定していることになる。可視光線の帯域にしてもたまたま人の身体がそうできているだけで、電磁波まで見える目を持てば同じように存在しているはずのこの世界は、まったく違ったものに見えるはずだ。

この一事からも、人間がいかに脳を頼って世界を把握しているかが解かる。著者の話の運びはこんな風に極めて具体的で、直感的に理解しやすい。また、俎上に載せる話のレベル設定も絶妙で、たとえば「恐怖」の感情と扁桃体を巡る話や、神経系に働きかける薬の話など、漠然と知ったつもりになっていたことがクリアになる快感も味わえる。

また、こうした話題選びの妙や説明能力の高さだけでなく、科学的研究の意義や、やり甲斐みたいなものにまで言及している点も、この本の特徴的なところだろう。後進の科学者を啓蒙するという思惑も多少はあったのかもしれない。ブルーバックス版で追加された最終章などは、職業としての研究者のあるべき姿を議論して締められている。

これほど脳研究の世界を面白く伝える門前書は恐らく類例がない。

著者が自画自賛するだけのことはある。

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名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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