池谷裕二『進化しすぎた脳 中高生と語る[大脳生理学]の最前線』(ブルーバックス)

池谷裕二『進化しすぎた脳 中高生と語る[大脳生理学]の最前線』(ブルーバックス)池谷裕二『進化しすぎた脳 中高生と語る[大脳生理学]の最前線』を読んだ。

難しいことを平易に語ることは大変に難しい。よくいわれることでもあり、よく実感することでもある。この本の美点は、とにかく広範に渉る脳関連の話題を、極めて分かりやすく語っている点にある。高校生相手の講義がベースになっているため、話し言葉で書かれているのも、この場合は効を奏しているといえそうだ。

高校時代に読んでいたら世界が変わっていたかもしれない。…とは、本書についてよく目にする評判である。確かに、今のぼくが高校生だったらかなりの影響を受けたかもしれないとは思う。それくらいに面白い。ただ、ここに出てくる学生たちはえらくクレバーである。なるほど、これくらい冴えた高校生だったなら得るものも大きかったろうと思う。

残念ながら、学生時代のぼくは彼らよりもずっと盆暗だった。

それはさておき、表題の「進化しすぎた脳」というのは、この本全体のテーマになっているわけではない。脳の能力は脳が置かれた環境、つまり、搭載された肉体(ハードウェア)の性能によって規定されてしまう。恐らくは、より高性能なハードに今の脳を乗せても、ちゃんと順応し、使いこなせるだけのポテンシャルを脳はすでに持っている。

そのことを「進化しすぎた脳」と表現しているのである。

この本が滅法面白い理由のひとつには、かなり新しい科学的知見や、いまだ定説化していないような話題にまで自由に羽を広げている点が挙げられる。心脳問題のような哲学的領域もカバーしながら、科学誌からの引用や実験の紹介も随所に挿入されている。また、自身の研究や個人的見解に言が及んでも、口を濁すことなく実に平明に語られている。

脳とコンピューターの差異、意識と無意識の境界、神経とクオリアの関係、人間が曖昧な記憶しか持てない理由、その仕組み、認知症に関わる最新の知見など、それなりに分厚い本のどこをとっても大変に興味深い。今やご意見番と化している養老孟司や、最早思索の人といっていい茂木健一郎らにはない、一線の研究者としての勢いが感じられる。

たとえば、人は所詮自分の脳を通してしか世界を把握できないというのは、特に科学的な説明なんてなくても共通理解が得られるほどに一般化した考え方だと思う。この点で養老孟司の『唯脳論』が果たした役割は大きかったろうと思う。初めて読んだときの興奮はいまだ忘れ得ない。けれども、本当の意味でこの事実を実感することは案外難しい。

これを著者は視覚を例にとって科学的に説明する。実は人の視神経は100万本程度しかない。一見多く思えるけれど、デジカメの画素数と比較してみると、ずいぶん荒いことに気が付く。けれども、人は低解像度のデジカメやモニターが映し出すようなガタガタの景色を見たりはしない。つまり、性能の悪い入力系を脳が補完していることになる。

これは大袈裟にいえば捏造である。

何しろ、実際には神経系が拾っていない情報を脳が勝手に書き加えているのである。敷衍すれば、知覚系と脳の性能が、今ある世界を規定していることになる。可視光線の帯域にしてもたまたま人の身体がそうできているだけで、電磁波まで見える目を持てば同じように存在しているはずのこの世界は、まったく違ったものに見えるはずだ。

この一事からも、人間がいかに脳を頼って世界を把握しているかが解かる。著者の話の運びはこんな風に極めて具体的で、直感的に理解しやすい。また、俎上に載せる話のレベル設定も絶妙で、たとえば「恐怖」の感情と扁桃体を巡る話や、神経系に働きかける薬の話など、漠然と知ったつもりになっていたことがクリアになる快感も味わえる。

また、こうした話題選びの妙や説明能力の高さだけでなく、科学的研究の意義や、やり甲斐みたいなものにまで言及している点も、この本の特徴的なところだろう。後進の科学者を啓蒙するという思惑も多少はあったのかもしれない。ブルーバックス版で追加された最終章などは、職業としての研究者のあるべき姿を議論して締められている。

これほど脳研究の世界を面白く伝える門前書は恐らく類例がない。

著者が自画自賛するだけのことはある。

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