あさのあつこ『バッテリー 6』(角川文庫)

books070406.jpgあさのあつこ『バッテリー 6』を読んだ。

人気シリーズの最終巻である。賛否があってしかるべき内容だろう。何しろ、一向にスッキリしない。著者も思い切ったことをする。この終わり方は、無責任だといわれても文句はいえない。そもそも最後で割り切れるような展開にはなっていなかった。であれば、覚悟の上でやったことに違いない。それだけの葛藤が見える。そういう終わり方だった。

著者自身、つかみ切れなかったといっている。そもそも完結などありえない話だったのだろう。少年たちの生きる姿を追うドラマである。終わりなどないのが当たり前なのかもしれない。だから、これは彼らのほんの短い少年期を切り取って見せた、大きな物語の一部だったともいえる。そういう物語はいくらもある。

ただ、鮮やかに切り取られた少年時代の1ページ…ともいえないのが、この物語の難しいところかもしれない。シリーズ1冊目は、そういう匂いのする話だった。少年たちの日常や葛藤は分かりやすい瑞々しさを湛えていたし、天才ピッチャーの巧は一際明るく輝いていた。1冊で終わってもおかしくない。そういえるような物語らしい快感があった。

シリーズが長期化する内、そうした分かりやすさは徐々に薄れ、巧が決定的に揺らぎ始めた辺りから雲行きが怪しくなっていく。彼は物語の中で求心力を失っていくのである。そして、終盤の物語を牽引するのは、むしろライバル校の生徒たちである。特に瑞垣という異様にクレバーな少年が、ほとんど主役コンビを食ってしまう。

とにかく彼の屈託は頭ひとつ抜けている。ようやく人間らしさに目覚めて苦悩する巧などより、よほど人間臭い。瑞垣の屈託は、門脇と巧というふたりの天才の邂逅を機に、堰を切ったように溢れ出す。エリートチームの豪腕バッターと生意気な年少ピッチャーの一騎打ち。本来ならこれこそが本筋だろう。にもかかわらず、瑞垣なのである。

普通なら、最終巻で本筋に戻そうとする。そういうものだろう。けれども、あさのあつこという作家は、走り出した筆を止めない。一度少年たちの内面に踏み込むと、なかなか戻ってこない。脇道に逸れたとしても、その道を踏破するまで決して引き返さない。物語は見事に停滞する。その傾向はシリーズ後半辺りからすでに顕在化していた。

もちろん、それは必ずしも瑕にならない。物語が停滞する代わり、少年たちが生き始める。ダイナミズムは物語にではなく、巧の中に、豪の中に、海音寺の中に、門脇の中に、そして瑞垣の中にある。1、2作目で期待したような巧の成長物語は、極めて小さな要素へと矮小化してしまった。爽快感のある小さなヒーローの物語ではなくなったのである。

かようにこのシリーズは初期と中後期で、ほとんどその性質を変えてしまっている。

もちろん、カッコいい少年たちが活躍するキャラクター小説としても申し分ないできである。今時の中学生はこんななのかどうなのか知らないけれど、屈折の仕方や苦悩の仕方までがやたらスマートで恰好好い。ある種の腐女子ウケしてもおかしくないこうした性質が、実はこの作品が児童書らしくない本当の理由かもしれない。

ちなみに、このシリーズ完結後に著者は瑞垣にフォーカスした『ラスト・イニング』という本をものしている。いかに著者の関心が瑞垣に動いていたかが伺える。また、6作目のその後を描いているという点では、視点こそ違えど、ほとんど正編の後日談といっていい。落とし前をつけたのかもしれない。これを蛇足と取るか否かは読み手の好みの問題か。

いずれ、ぼくは文庫化を待つ身なので当然未読である。

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