乾くるみ『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)

books070430.jpg乾くるみ『イニシエーション・ラブ』を読んだ。

本来なら神経質なくらいネタバレに気を遣わなければならないタイプの作品だ。けれども、必ず2度読みたくなるというような宣伝の仕方自体が、すでにミステリファンにトリックの系統を匂わせてしまっている。もちろん、売るための惹句として効果的であれば、その程度のネタバレは已む無しという判断あってのことなんだろう。

ただ、この作品の場合、アレ系だと身構えて読まれることを、ある程度歓迎している節もある。そもそもまったく先入観なしに読みたい人は他人の感想など読まないという、ぼくの手前勝手な憶測に基づいて軽く書いてしまうと、要するにこれは叙述系のトリックがウリの直下型大どんでん返しミステリなのである。

叙述系のトリックだとかいわれても何のことかよく解らない人は、とりあえずこの系譜の作品の試金石、あるいはイニシエーションとして、何も考えずに読んでみるといいかもしれない。きっとイライラするラブ・ストーリーに付き合うだけの価値はある。そういう筋は肌に合わないという人には、貫井徳郎の『慟哭』をお勧めしておく。

この本の読みどころはもう、ちまちまと仕掛けられた伏線がすべてなわけで、それをここで書き連ねるわけにはいかない。なので、搦め手でいく。まず、時代設定がバブル真っ只中の1980年代半ばというのが、ひとつのポイントになる。少し前に“バブルへGO!! タイムマシンはドラム式”なんて映画もあったけれど、流行りなんだろうか。

本を開くとすぐに、その時代感覚が分かる人には分かるようになっている。レコードをモチーフにした意匠で、目次が曲目リストになっているのである。これを懐かしいと思える年頃のミステリ好きなら、とりあえずは楽しめる要素が色々とあるんじゃないかと思う。オメガトライブやCCB、森川由加里辺りが作中の時世的にはど真ん中だろう。

作品自体も前半と後半でSide A、Side Bという区分けがされていて、これ自体も伏線といえるかもしれない。ただ、作中細々と張り巡らされた伏線の中には、その時代を知らない世代には気付きようのないものも若干ある。OA機器に関するくだりや、テレビドラマを利用した錯誤部分などは、知らないことにはどうにもならない。

パズルのように伏線を回収しながら読むのが好きな人は、たとえ途中でネタが割れても最後まで大いに楽しめるだろうし、そういう読み方が苦手な人は軽く読み流して最後の2行で目を点にすればいい。ただ、あんまり読み流しすぎるのも考え物で、著者の仕掛けにまるで気付かないなんてことになりかねない。

この本では大きく2通りの叙述的な仕掛けが施されている。その内の片方が最後の最後で暴露されるわけだけれども、そこから芋蔓式にもうひとつのミスリーディングにも気付くようになっている。そのもうひとつのミスリーディングに関しては、ちょっと錯誤の幅が狭くて分かり難いところがあるかもしれない。

ヒントは「二股」とだけ書いておく。

けれども、話としての醍醐味はこの分かり難い方の錯誤に気付く、その瞬間の後味の悪さにある。これは、特に男性読者にとっては辛いオチである。ヒロインの境遇に同情を寄せ、義憤に駆られながら読んだりすればまさに思う壺。著者のほくそえむ顔が目に浮かぶ。こうして男は手玉に取られるのだなと、薄ら寒い思いをすることになる。

確かに、単なるエピソードとしてこのラブ・ストーリーを見るなら、これは陳腐でどうにもならない。地元を離れて現地妻を作る男の見苦しい自己正当化の過程やら、妊娠、堕胎を巡る阿呆な顛末やら、読んでいて辟易する。けれども、そこで投げ出さないことが肝要なのである。ちゃんと恐ろしい逆転劇が待ち受けている。

陳腐な恋愛譚が痛烈な皮肉に変わる瞬間をぜひご自分の目でどうぞ。

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