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2008年04月25日

ジェイムズ・P・ホーガン『ガニメデの優しい巨人』(創元SF文庫)

ジェイムズ・P・ホーガン『ガニメデの優しい巨人』(創元SF文庫)ジェイムズ・P・ホーガン『ガニメデの優しい巨人』を読んだ。

傑作の続編が期待を裏切らない、稀有な例のひとつだと思う。前作『星を継ぐもの』を超え、本作ではなんと2500万年にもわたる人類の来歴が語られる。前作で積み残した謎が、生きた異星人ガニメアンの登場によって明らかにされていく。けれども、この作品の面白さは謎解きにのみ還元されない。本作を快作たらしめているのは、何をおいてもその牧歌的ファーストコンタクトの描写である。書名にある通りガニメアンは優しい。これほど友好的かつ障害の少ないファーストコンタクトは地球人同士でも難しいだろう。その軟着陸ぶりは映画“E.T.”を超えている。

愛すべきガニメアンとの交流は、理知的かつ自愛に満ちている。地球人類を遥かに凌ぐ彼らの知性と、生来的に穏健な性質がそれを可能にしている。なかでも特筆すべきは、そんな彼らの知性と優しさが生み出したコンピュータ、ゾラックの存在である。この人工知能は英語を学び、コミュニケーションを助けるばかりでなく、ほとんど人格を認めたくなるようなコミュニケーションスキルを発揮する。特に英語を知ったすぐからユーモアを解するシーンは印象的だ。2001年のHALにはない友愛の情を感じざるを得ない。いや、心温まるSFというのもまったく悪くない。

そんなガニメアンの優しさ、否、優しさゆえの苦悩がラストの彼らの選択に繋がる展開はあまりに見事だ。人類の謎と物語がしっかりと有機的に結びついている。知的興奮とエモーショナルな感動が抱き合わせでやってくる。巧い。ガニメアン文明の進んだ科学技術の扱い方がまたツボを心得ている。遥かに進んだ文明や科学技術は何でもありのご都合主義になりやすい。ところが、本作では主にコミュニケーションに資するのみで、彼らの知識なり技術なりが謎の解明を促したりはしない。ただ過去に与えた重大な影響だけが取り沙汰されるのみである。

実は、ガニメアンの優しさは生物学的必然であることが比較的早い段階で明かされる。それは同時に地球人類の性質を語る契機にもなる。そして人類の歴史は戦争の歴史であるという常套句にひとつの説明がなされる。前作の謎の中心だったルナリアンの歴史とも矛盾することなく、人類進化の謎にさらなる新事実が浮かび上がってくる。前作の顛末を包含しつつ、さらにひとまわり大きな歴史を語る手腕は生半ではない。しかも嬉しい驚きに満ちたエンディングが、そのまま次作への伏線になっている。無矛盾に世界をスケールアップする至高のセンスオブワンダー。

ぼくはSFフリークではないけれど、これこそSFの醍醐味だろうと思う。


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ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(創元SF文庫)
ジェイムズ・P・ホーガン『ガニメデの優しい巨人』(創元SF文庫)
ジェイムズ・P・ホーガン『巨人たちの星 』(創元SF文庫)
ジェイムズ・P・ホーガン『内なる宇宙』[上](創元SF文庫)
ジェイムズ・P・ホーガン『内なる宇宙』[下](創元SF文庫)

2008年04月23日

北方謙三『水滸伝』[全19巻](集英社文庫)

北方謙三『水滸伝』(集英社文庫)北方謙三『水滸伝』を読んだ。

ソープへ行け。という話ではない。いや、そういう挿話もあることはある。しかも、これが悪くない。なるほど、男の死に様、即ち、生き様を描くということは、男を生かす女を描くことでもあろう。ならば、これは必然である。男が命を燃やすために。そう、男たちは命を燃やす。限りなく壮絶に生きる。どこまでも生き急ぐ。ロマンのために。北方水滸のロマンとはつまり革命である。宋に反旗を翻し理想国家を目指す。ぼくは水滸伝の原典を知らないけれど、この設定こそが北方水滸の肝となる。原典は無頼が叛徒となり、後に帰順する話であるらしい。

1巻から何十人もの登場人物が名乗りを上げる。そのすべてにハッキリと目鼻があり、深く記憶に刻まれていく。その筆力たるや尋常の技ではない。それもどっしり地に足の着いた人物造形である。そこに水滸伝と聞いて想起するファンタジックな印象は皆無だ。超人的な武芸者や賢人は出てくるけれど、決して超人は出てこない。人物造形の妙は梁山泊108星に限らない。朝廷側の武官、文官らがまた強烈な個性と魅力を持って現れてくる。むろん、単純な勧善懲悪になる道理がない。個の意思と正義を描きながら、武と智を尽くした総力戦へと雪崩れ込んでいく。

なんとしても際立つのは、男たちの死である。いかに英傑といえども自ら死期を選ぶことはできない。時に壮絶に、時に呆気なく、彼らはその生涯を終えていく。小説の死を悲しむことは案外に難しい。巷に溢れる「泣ける」本など、たいてい泣かせるために人を殺しているにも関わらず泣けないことが多い。あの手の本は泣く準備をして読むものなんだろう。北方水滸は違う。胸を衝かれ、心を抉られる。胸のすくドラマの間隙に慟哭すべき死が待ち構えている。数多の死を描きながら決して死を陳腐化しない。それがたとえ犬死だったとしても、である。

それにしても、これだけの熱量を持った小説はない。19巻すべてがクライマックスである。武人、文人を問わず、すべての男たちにドラマがあり、すべての人生がスーパーノヴァの如き閃光を放つ。100年に1度といわれる超新星が、まるで流星雨のように次々と爆発するのだからたまらない。1冊読むごとに茫然自失、落涙滂沱の体となる。次の1冊に手を伸ばしては血を滾らせる。この熱は寝不足を克服する。どんなに心地好いベッドの上でも、この本を手に取った瞬間に時間は翌朝まで圧縮される。気が付くと空は白み、冴えた目に目覚ましの音を聞く羽目になる。

巻を擱くあたわずとは北方水滸のためにある言葉であろう。

2008年04月22日

中島敦『李陵・山月記』(新潮文庫)

中島敦『李陵・山月記』(新潮文庫)中島敦『李陵・山月記』を読んだ。

ぼくなどがどうこういう作品ではない。読書というよりは鑑賞のために買い直した。ネットで「山月記」の文字をみつけて久々に読もうと思い立ったはいいけれど、何故か家にあるはずの本がなかった。時々、こういう肩肘張った文章が読みたくなる。意味を追うのではなく、言葉の流れに心を乗せるような気持ちである。ぼくに純文学志向はない。むしろ、エンターテイメント好きである。まあ、純文学もエンターテイメントの一種だと思っているので、ぼく内部ではこの分類は意味を成さない。あくまで、一般に想起される純文学という意味で、である。

「山月記」を教科書で読んだのが何年生だったか覚えていない。ただ、読んだことだけは覚えている。教科書にも荒唐無稽な話が載るものだ、というようなことを思った気がする。何しろ詩人になろうとして虎になるのだから、これは荒唐無稽以外の何物でもない。妄執とは、げに恐ろしくも哀しきものよ、などと感じ入るには当時のぼくの精神は少々幼すぎた。というより、自力では巧く文意を汲めてすらいなかったはずである。恐らくは、教師の解説でなんとか意味を知ったような具合だったろう。今にして思えば、教科書も凄いものを載せる。

中島敦という人は文才がありすぎる。というより、文学的な知識がありすぎるのか。なまくらな言葉に慣れたぼくのごとき現代人には、些か言葉が難しい。注釈なしで読み通せる気がしない。新潮文庫が旧字でなくて助かった。この上字画を増やされたのではたまらない。とはいえ、本当は旧字で読んでこその藝術だろうとも思う。文意を伝えることのみに資する文章ではない。芸術作品の見た目を変えちゃダメだろうという話である。ごもっとも。もう少しこの言葉の舞に慣れれば、ぼくとてチャレンジすることにやぶさかではない。いずれ眺めて楽しもう。

なお、適度に薄くて軽い本書はその品格故に座右の書にも最適である。

2008年04月14日

遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)

遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)遠藤周作『沈黙』を読んだ。

悲痛な中にギリギリの救いがある。テーマとなる神の沈黙を語る物語は、読むだに痛い。切支丹たちの耐え難い苦境を、神はただ沈黙をもって応えるのみである。真摯なる祈りも虚しく信徒たちは苦しみの中に死んでいく。蛮勇を持って切支丹弾圧の世に来邦したポルトガル人司祭は、ただただ辛酸を舐め続ける。そしてついに沈黙は破られる。司祭はキリストの声を聞く。それは苦渋というにはあまりにも痛々しい答えである。誰のための信仰なのか。何のための信仰なのか。読後感はどこまでも沈鬱だ。ここでいう救いは、決して楽になることではない。

全篇を通じて鍵となるのが、キチジローというひとりの信徒である。彼は弱い。捕まるたびに棄教を誓う。踏み絵に足をかけ、キリストやマリアを貶める。すぐに仲間は売るし、ついには役人のいいなりに司祭を陥れる。彼の怯懦を司祭は嫌悪する。それは読者も同じだろう。そう思わせるところに意味がある。果たしてキチジローの弱さは悪なのか。救うに値しない弱者などあるのか。弱者をこそ救うのが信仰ではないのか。信仰によって強さを得て、殉教していくのもひとつの幸福だろう。その幸福に与れない弱者はどうすればいいのか。疑問は膨らみ続ける。

弱き者は痛みを恐れ、恐怖から逃げ出す。けれども、彼は本当に痛みから逃れ得たのか。キチジローは裏切りを重ねながら、それでも救いを求めて司祭に追い縋る。ついに自ら「転んだ」とき、司祭は弱い者も強い者もないと気付く。司祭は神への愛を捨てたわけではない。ただ、このとき司祭の信仰は、それ以前のそれとは明らかに変容している。宣教師としての先達、フェレイラ師のいう変質した神への信仰を始めたように見える。神への信仰の形が人の数だけあるなら、それはもはや唯一神とはいえない。こうして本書はただキリスト教の物語ではなくなる。

遠藤周作を初めて読んだのだけれど、想像していたよりもずっと読みやすい文章で、ドラマティックな展開も含めてリーダビリティはすこぶる高い。テーマ性の強さを除けば、およそ娯楽小説的といってもいい。なかでもカタルシスに到る終盤の語りは圧倒的だ。これに心動かされない人はそういないと思う。純文学的な高踏を危ぶんで未読のままになっているという人は、取り合えず書店でページを繰ってみるといいかもしれない。読み通すのに難渋するような表現はまず見あたらないと思う。ただ、内容の切実さに読み進む手が鈍ることはあるかもしれない。

宗教を超えて罪や救済について考えさせられた。相当に重い一冊。

2008年04月10日

中山康樹『ジャズメンとの約束』(集英社文庫)

中山康樹『ジャズメンとの約束』(集英社文庫)中山康樹『ジャズメンとの約束』を読んだ。

エッセイとノンフィクションと短篇小説。どれでもあり、どれでもない。ただ、ジャズを読んだ。そんな気もする。ジャズというのは、音楽ジャンルだと思っていた。けれども、確かにこの本はジャズである。ジャズといえば薀蓄だと思っている人が少なくない。ぼくにもそういう先入観はあった。実際、薀蓄を傾けるジャズファンは多いらしい。けれども、著者はジャズオタクというのとは少し違う。纏っている空気が違う。ジャズ関連の本にその名前を良く見かけるし、「SwingJournal」の編集長だったこともある。それでいて、マニアックな匂いはしない。

読むジャズをどう説明すべきか。これは難問である。そもそも、音楽が聴かなきゃ解らないように、本だって読まなきゃ解らない。その本がジャズであればなおさらである。あえて喩えるならハードボイルドに近いかもしれない。そこには酷く不器用な男女と音楽だけがある。煌びやかな世界はロックやポップスに任せきってしまっている。伝説のジャズメンたちが、金にならない小さなライブで最高の演奏を見せ、狭いアパートの一室で家族と暮らしている。昇り詰める天才がいるかと思えば、転落の人生を歩む天才がいる。そんな彼らの息遣いが確かに聴こえる。

文章には独特のリズムがある。味も匂いもある。いわゆる評論家の手ではない。無駄はなく、行間がある。そして描かれるのは評伝や評論の類ではない。巨人たちの素を切り取るエピソードであり、ジャズが聴こえる印象的なワンシーンである。ぼくたちは著者の目を通してヒーローたちに会うことができる。彼らには富も名声もない。コマーシャリズムの手の届かないところにジャズという音楽はある。コマーシャリズムというのは、市場が答えをくれるということでもある。ジャズの答えはジャズメンの中にしかない。実にマッチョでストイックな世界である。

いまや、ジャズは小洒落た飲食店のBGMの定番である。否、小洒落た、とは限らないか。ともあれ、ポップスがカラオケになったように、ジャズはBGMになった。わざわざ音楽を聴くこと自体がコアな趣味になりつつある。いわんやジャズをおいてをや、である。そんな時代にジャズの歴史やブラックミュージックとしての精神など、いくら熱心に語ったとてジャズファンは増えそうにない。そんな古い語り部たちと、彼らの語りに支配されるマーケットなんかに未来はない。中山康樹は違う。つまらぬ薀蓄など語らない。ただ心がスイングし、音楽を聴きたくなる。

うん、週末は街にジャズを探しに行こう。

2008年04月09日

ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(創元SF文庫)

ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(創元SF文庫)ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』を読んだ。

壮大すぎるミステリがSFだからこそ成立している。そのリアリティ、推論の面白さ、生物学上のミッシングリンクまで埋めてしまおうという驚愕の真相。月という近くて遠い宇宙から、話は数億年単位の時空へと飛翔する。センス・オブ・ワンダーとはただ荒唐無稽な大ネタを開陳することではない。近未来世界は確かにこの世界の少し先にあり、ストーリーに都合のいいだけのSF的ガジェットなどは登場しない。少し前に、村崎友の『風の歌、星の口笛』というSF風ミステリを読んだけれど、ホーガンを知ってしまうと圧倒的なレベルの差を感じざるを得ない。

月で5億年前に死んだ宇宙服姿の人間が発見される。いきなりこれである。なんという暴走。これほどの謎をぶち上げられて黙殺できる本読みはいまい。彼は地球人と変わらない姿かたちをしている。遺留品からは未知のテクノロジー、及び言語が発見される。彼は何者なのか。なぜ月で死んでいたのか。この突如降って湧いた人類史上最大といっていい謎を、世界中の専門家を動員して説明しようとする。そういう物語である。これだけでも十分に壮大だけれど、話はさらに裾野を広げる。木星軌道でのさらなる発見から人類進化の謎へと推理の糸は紡がれていく。

SF読みには定番といっていいほどの名作らしい。SFへの造詣はないけれど、それはそうだろうと思う。これをつまらないという人の気が知れない。一方、ハードSFの傑作などと謳われることで、酷く読者層を狭めているようにも思う。確かに、テクニカルタームらしきものがあちこちに出てくる。導入部の緻密な描写は読み手に相応の忍耐を強いるかもしれない。けれども、ひと度謎が提示され、推論と発見の渦にのまれてしまえば、SFファンならずとも、もう本をおくことはできないはずだ。終盤、めくるめく論理の応酬に眩暈し、驚嘆すること必至である。

実は、読んでいてまず頭に浮かんだのは“超時空要塞マクロス”である。ゼントランはガニメアンから発想されたのかもしれない。巨人が地球人類の来歴に関わるところにも類似が見られる。もちろん、その関わり方はまったく違っているのだけれど。そういえば、創元SF文庫の装画はスタジオぬえの加藤直之である。まあ、海外SFが日本のアニメーションに様々に影響を与えていることは、あえてハインラインの例を引くまでもないのかもしれない。さらに余談だけれども、“Zガンダム劇場版”第1部のサブタイトルは「星を継ぐ者」だった。

ともあれ、ハードSFなんて言葉は忘れてもっと広く読まれていい傑作だと思う。

2008年04月03日

石野雄一『ざっくり分かるファイナンス 経営センスを磨くための財務』(光文社新書)

石野雄一『ざっくり分かるファイナンス 経営センスを磨くための財務』(光文社新書)石野雄一『ざっくり分かるファイナンス 経営センスを磨くための財務』を読んだ。

これは世評に違わぬ好著。新書の鑑といってもいいかもしれない。ファイナンスって何だよ、というところから資金の調達、運用に関わる各種の判断材料、債権者や株主から見た企業価値の求め方など、ぼくのような素人には十分に広範な知識がサクッと仕入れられる。少しでも込み入った話になると、いちいち具体例を挙げて解説してくれるし、簡単な計算でも文中ではなく別枠で計算式が示されている。シンプルながら図表も豊富だ。各話題の最後におさらいがある構成も通勤読書派のぼくにはありがたい。前の話を思い出すのにたくさんページを繰らずに済む。

話は会計とファイナンスの関係から始まる。いきなり目から鱗である。いくら使っていくら稼ぐか考える。これがファイナンス。その結果として、ある一時点での全損益を計算する。これが会計。ざっくりな内容をさらにざっくりいくとこうなる。当然、会計はファイナンスに影響する。ただ読んでいて思ったのは、ファイナンスの理屈は確かに説得力があるけれど、実行するのは酷く難しいということだ。とにかくネックは「将来の予測」である。安定した業界や歴史ある企業でも大変だろうに、新進の身でこれの精度を上げるのは至難じゃないだろうか。

ともあれ、ファイナンスは会社を正常に機能させるためのキャッシュフローを作らなきゃいけない。だから「運転資金」という名のキャッシュを重視する。利益ベースではなくキャッシュベースでの資金繰りを考える。翻って、会計で扱う利益は必ずしもキャッシュを意味しない。つまり会計だけがしっかりしていても、手元にキャッシュがないという事態は起こり得る。お金がないと業務が停まる。事業規模が大きいほど事態は深刻だ。利益が現金化されるまで営業を止めるというわけにはいかない。黒字倒産なんていうのはファイナンス不在の象徴だろう。

また、ファイナンスの使命は著者の言を借りるなら「企業価値を上げる」ことでもある。そのためにプロジェクトの稼ぎを予測し、それが投資に見合うかどうかを判断する。投資を決めたなら、有利子負債なのか株主資本なのかといった資金調達の方法を、マーケットの反応やら金利やら税金やらを考慮しながら判断する。本書によれば「企業価値」は結局のところ「フリーキャッシュフローの最大化」と「WACCの最小化」だという。WACCというのは負債による調達コストと株主資本による調達コストの加重平均で、つまるところリスクの大きさを示す指標となる。

こうしたファイナンス理論に使われる指標やなんかもえらく丁寧に説明されている。だから、それらの指標の意味するところは割りと分かった気になれる。ただ、肝心の妥当性について検討するとなると、ぼくのような素人には荷が勝ちすぎる。そういうものか、という理解に止まる。単にぼくの理解が甘いだけかもしれない。また、WACCを初めとしてファイナンス理論は常に将来を計算に組み入れることから始まる。不定形の未来を計算する理論は今のところない。過去の実績やなんかから導き出された条件で一律に固定してしまう。乱暴といえば乱暴な話である。

いずれ、将来予測の限界がファイナンスの限界だと分かっただけでもためになった。

2008年04月02日

森見登美彦『四畳半神話大系』(角川文庫)

books080402.jpg森見登美彦『四畳半神話大系』を読んだ。

笑った。冒頭で笑った。ああ、馬鹿がいる。そう思った途端に感情移入できていた。すると、2章の冒頭で頭に軽い疑問符が張り付く。で、読み進む内に疑問符が膨張していくのだけれど、笑いながらなのでついスルーしてしまう。実は、この2章でぶち当たる違和感がえらく楽しい仕掛けに繋がっている。SFやミステリが好きな人ならある程度目星はつくかもしれない。ただ、この作風この文体でそれをやるのか、という馬鹿馬鹿しさが異常に楽しい。このある種冗漫ともいえる文体を気に入るかどうか。それがこの作家を楽しめるかどうかの分水嶺かもしれない。

まずは文章で読ませる。ぼくはそういう本が好きだ。ストーリーの牽引力だけで読ませる本も嫌いではないけれど、文体に著者の色があると嬉しくなる。その意味で、この著者は好きなタイプなのだけれど、それを差し引いてもよくできた話だと思う。無限に開かれているように見える世界が恐るべき予定調和の内に収束する。可能性ではなく不可能性をもって世界を書く。それが最後の最後で否定的に見えないところがとても好い。四畳半が全世界と化す最終話がちゃんと種明かし以上の意味を持っている。ラスト数行の逸脱が読後に清々しさを齎してくれる。

青春というのは理想に反して大層不恰好なものである。その通り、と思った人は読んだ方がいい。理想やプライドを持て余し、何者にもなれないでいる。勉強も恋愛もダメ。膨らむのは妄想ばかり。冴えない悶々キャンパスライフ…否、四畳半ライフは、それでも青春の匂いに満ちている。もちろん芳しくはない。とはいっても『太陽の塔』ほどにドン底ではない。諦めきれない分、悩みは深いのかもしれないけれど、描かれない未来は案外に恵まれている。この辺りは、素直にエンターテイメントしているのである。完膚なきまでに不幸では悲壮にすぎる。

作中、ヴェルヌの『海底二万海里』がいい小道具になっている。謎の師匠が1年かけて読み終えるシーンで、思わずぼくも読みたくなってしまった。地球儀まで欲しくなったのは、ちょっと影響を受けすぎである。ちなみに“ふしぎの海のナディア”はこれを原典としたアニメだというのは大変にどうでもいい話である。ところで、本書最終話の章題は「八十日間四畳半一周」というのだけれど、ヴェルヌには『八十日間世界一周』という作品もある。好きなのかもしれない。永井荷風『四畳半襖の下張』や野坂昭如『四畳半色の濡衣』はたぶんあまり関係ない。

ともあれ、頭デッカチな青春を送った人なら絶対に楽しめる作品だと思う。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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