遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)

遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)遠藤周作『沈黙』を読んだ。

悲痛な中にギリギリの救いがある。テーマとなる神の沈黙を語る物語は、読むだに痛い。切支丹たちの耐え難い苦境を、神はただ沈黙をもって応えるのみである。真摯なる祈りも虚しく信徒たちは苦しみの中に死んでいく。蛮勇を持って切支丹弾圧の世に来邦したポルトガル人司祭は、ただただ辛酸を舐め続ける。そしてついに沈黙は破られる。司祭はキリストの声を聞く。それは苦渋というにはあまりにも痛々しい答えである。誰のための信仰なのか。何のための信仰なのか。読後感はどこまでも沈鬱だ。ここでいう救いは、決して楽になることではない。

全篇を通じて鍵となるのが、キチジローというひとりの信徒である。彼は弱い。捕まるたびに棄教を誓う。踏み絵に足をかけ、キリストやマリアを貶める。すぐに仲間は売るし、ついには役人のいいなりに司祭を陥れる。彼の怯懦を司祭は嫌悪する。それは読者も同じだろう。そう思わせるところに意味がある。果たしてキチジローの弱さは悪なのか。救うに値しない弱者などあるのか。弱者をこそ救うのが信仰ではないのか。信仰によって強さを得て、殉教していくのもひとつの幸福だろう。その幸福に与れない弱者はどうすればいいのか。疑問は膨らみ続ける。

弱き者は痛みを恐れ、恐怖から逃げ出す。けれども、彼は本当に痛みから逃れ得たのか。キチジローは裏切りを重ねながら、それでも救いを求めて司祭に追い縋る。ついに自ら「転んだ」とき、司祭は弱い者も強い者もないと気付く。司祭は神への愛を捨てたわけではない。ただ、このとき司祭の信仰は、それ以前のそれとは明らかに変容している。宣教師としての先達、フェレイラ師のいう変質した神への信仰を始めたように見える。神への信仰の形が人の数だけあるなら、それはもはや唯一神とはいえない。こうして本書はただキリスト教の物語ではなくなる。

遠藤周作を初めて読んだのだけれど、想像していたよりもずっと読みやすい文章で、ドラマティックな展開も含めてリーダビリティはすこぶる高い。テーマ性の強さを除けば、およそ娯楽小説的といってもいい。なかでもカタルシスに到る終盤の語りは圧倒的だ。これに心動かされない人はそういないと思う。純文学的な高踏を危ぶんで未読のままになっているという人は、取り合えず書店でページを繰ってみるといいかもしれない。読み通すのに難渋するような表現はまず見あたらないと思う。ただ、内容の切実さに読み進む手が鈍ることはあるかもしれない。

宗教を超えて罪や救済について考えさせられた。相当に重い一冊。

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