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2008年03月31日

我孫子武丸『弥勒の掌』(文春文庫)

books080331.jpg我孫子武丸『弥勒の掌』を読んだ。

いやに挑戦的なミステリだと思う。大胆不敵といってもいい。読み始めてすぐにイメージしたのはやっぱり貫井徳郎の『慟哭』だった。二つの視点、捜査小説、宗教団体。道具立てが類似している。そして、この書きぶりなら叙述系のトリックだろうということも、そこそこにミステリが好きなら想像できる。どうやらそれを隠そうとはしてない。ミステリ読みなら、まず鵜の目鷹の目で読み始めるに違いない。かかってこい、ということだろう。新本格世代の心意気を感じる。この手の気質は、今となってはオールドファッションになるのかもしれない。

妻が行方不明の高校教師と、妻を殺された刑事。それぞれに妻のことを調べる内に、ある宗教団体が浮かび上がってくる。これが酷くビジネスライクな教団である。信者らの様子に画一的な狂気はない。そして、教団は信者を会員と呼ぶ。オウム以降世間のニーズに敏感になった、比較的新しい新宗教系団体を思わせる描写で、これが妙にリアリティがある。ラストで明かされるこの宗教団体の実体は一見トンデモナイ。いや、実際にトンデモナイのだけれども、ただ、そのことでこの団体が宗教的に否定され得るかといえば、これはなかなかに難しい問題である。

そんな微妙な問題も含めて、面白い。ちなみに叙述トリックの方は、全然見破れなかった。2つの視点が交差した段階で、油断した。というか、テンポが良かったので、ストーリーに引きずられて推理どころじゃなくなってしまった。真相自体はずいぶんとご都合主義的だし、小説的な深みはあまりない。今時、動機を云々するのは流行らないだろうし、現実の方がその辺りをすっ飛ばしている感もある。だとしても、ここまで作為的な絵を描くなら、せめて動機にリアリティが欲しい。同著者の『殺戮にいたる病』に及ばないところがあるとすればこの辺りだろう。

ともあれ、サプライズを求めるなら一も二もなく読んだ方がいい。

2008年03月28日

國定克則『決算書がスラスラわかる 財務3表一体理解法』(朝日新書)

books080328.jpg國定克則『決算書がスラスラわかる 財務3表一体理解法』を読んだ。

会社で堂々とお金の話ができる。自分の給料をある程度の根拠を持って自己評価できる。勤め先の会社の価値を正しく判断できる。優良な投資先になんとなく目星が付けられる。漫然と社会で暮らしていてもこうしたスキルは身に付かない。実際、付いてこなかったぼくがいうのだから間違いない。とはいえ社会人である以上、お金の動き無自覚でいるのも気持ちが悪い。周囲に詳しい友人などはない。まさに素人にうってつけの入門書だ。素人というのはつまりぼくのことだ。財務のザの字も、会計のカの字も知らない。簿記なんてものには触れたこともない。

そんなぼくがざっと財務3表を斜め読みし、大枠を掴めるようになる。初めて読んだ本がこれなものだから、財務諸表の何が難しいのかねとか思ってしまったくらいだ。いや、相当に簡略化された説明だということは分かるのだけれど、これで流れが見えるのである。その流れをみせるため、お金に動きのあるたび逐次財務諸表に反映していく。仮想リアルタイム決算である。だから、これは実務のための本ではない。表層ではなく本質を伝えようとしている。会社のお金の流れを知り、会社の実体を推測する。たとえばそんな視点を手にするための礎となる本である。

とにかく説明が具体的である。ショッピングサイトを立ち上げた経営者というペルソナを使って、創業から順に資金の流れを追っていく。損益計算書、貸借対照表、キャッシュフロー計算書を個別に見るのではなく、書名にある通り一体のものとして扱う。3表の繋がりを明確にしながら、いちいち実際に計上していくのである。いやというほど丁寧に追っていくので、置いていかれる心配はほとんどない。平易ながら時価会計や減損会計なんかもカバーしているし、果ては、自社株買いやらM&Aなんて話題にまで触れている。これらが地続きになっていて実に解かりやすい。

PLやらBSやらが何を表しているかすら知らなかったのだから、これはもうもの凄く勉強になった。枝道に入り込まず全体を俯瞰する。これって案外、実務のプロフェッショナルでも難しいことなんじゃないか。お陰で、この手の話題を掘り下げる強力な足掛かりになった。もちろん、ぼくは財務のプロを目指しているわけではない。だから、掘り下げるというよりは、掘り広げるといった方がいいかもしれない。今年の裏目標「マネーについて知る」の一環として、会社マネーをもう少し齧ってみる気になった。優れた入門書はジャンルへの興味を一層深めるものだ。

お金に疎いと自覚している同志諸兄に、一際激しくお薦めしておく。

2008年03月17日

米澤穂信『犬はどこだ』(創元推理文庫)

米澤穂信『犬はどこだ』(創元推理文庫)米澤穂信『犬はどこだ』を読んだ。

この人は本当にミステリが好きなんだな、と思う。設定がまたふるっている。東京で理不尽な皮膚病に冒され失意の内に帰郷した紺屋長一郎。彼は社会復帰のためのリハビリに犬探し専門の探偵事務所を始める。よりによって探偵である。何をおいても探偵がやりたかったわけではない。今は治まっている病気のせいで飲食業を断念した結果である。人生は思うようにいかない。そのことを半ば諦観し始めている。そういう主人公として、紺屋長一郎は描かれる。また、堅実かつ割切った性向は古典部シリーズの主人公、折木奉太郎の延長線上にあるように思える。

初仕事。お節介な友人の的外れな宣伝のお陰で、初手から犬ならぬ人間の女を捜すことになる。ついでに、探偵志望の従業員に古文書の来歴調べまでが舞い込み、話は一気に転がり始める。もちろん、失踪と古文書は繋がる。失踪を紺屋が、古文書を押しかけ従業員のハンペーが調査する。その経緯が、それぞれの視点で交互に描かれる。表面的にしか情報を共有していないふたりは、佳境に入るまでふたつの調査の接点に気付かない。クライマックス、一気にパズルが解けていく快感と、卓袱台返しの快感が華麗なる連続コンボで味わえる。さすがはミステリフリーク。

ラストの卓袱台返しは、驚きと共に呆気ない幕切れを用意する。しかも、その顛末は直接的には描かれない。思い通りにいかない主人公紺屋は、最後もやはり間に合わない。躊躇いなく、次善の策に移る。その選択は物語の後に遺恨を残す。この辺りの苦さが米澤穂信らしい。この人はどうも舌触りの好い甘い話を書かない。暗いといってもいい。ただ、暗さの中で初めて見えてくる光もある。いや、微かな光みたいなものは、暗闇の中でしか見付けることができない。たとえば、紺屋が最後に自らの「思い」で動く。これも、そうした小さな光のひとつだろう。

正直にいえば、主人公を動かす「思い」、いい換えると「シンパシー」ということになるのだけれど、これはちょっと浅いかなという気もする。その浅さを救っているのがクライマックスの逆転劇である。紺屋が追跡対象者に自分と同じ匂いを嗅ぎとっている。その上で、事前にことを修めようとした点に意味がある。それは単なる共感を超えた行動だからだ。共感だけで終わっていれば、紺屋は事件を止めようとはしなかったはずである。もちろん、結果的に事件は止まらない。けれども、この不首尾の救出劇があって初めて、本作は紺屋復活の物語として意味を持つ。

これはまた酷く続篇が楽しみな作品にあたってしまった。

2008年03月13日

藤巻健史『藤巻健史の実践・金融マーケット集中講義 』(光文社新書)

藤巻健史『藤巻健史の実践・金融マーケット集中講義 』(光文社新書)藤巻健史『藤巻健史の実践・金融マーケット集中講義 』を読んだ。

プロが率直に語る。それだけでも凄い。読む価値がある。ぼくにとっては、今年の裏目標「マネーについて知る」ための読書、第2弾である。ちなみに、ぼくの金融知識はおそらく平均的「ビジネスパーソン」のそれを遥かに下回っているだろうと思われる。最初の数ページを立ち読みし、社会人1、2年生を対象とした講義の書籍化だというので買ってみた。そして、金融に関してぼくは社会人1、2年生よりもずっと低レベルだと分かった。色々と腑に落ちるところはあるものの、理解できない部分も多かった。面白かったけれど難しくもあったというのが正直な感想だ。

大事な部分の説明はくどいほどに丁寧で分かりやすい。一方で、常識のレベルがぼくのような完全無欠の門外漢とはまるで違っている。藤巻健史という人はあまりにプロ過ぎる。テクニカルタームの多くは説明されるのだけれど、説明の中にもテクニカルタームが出てくる。こうなるともうGoogleに頼りながら読むしかないのだけれど、ぼくの主たる読書スペースは電車の中である。仕方がないから、なんとなくで読み飛ばす。そうすると、ごっそりと分からないところが出てくる。無知の連鎖にやられる。これはもうどうしようもない。とにかく先に進むしかない。

この本で扱われるのは、何度も書くけれど、プロの仕事である。小遣い稼ぎの個人投資家風情の役に立つノウハウなどはまったく書かれていない。つまり、ほとんどが莫大な金銭的バックボーンを前提としたトレーディングの話である。具体的には、先物やオプションといった元本移動を伴わない取引が話題の中心となる。とても泡沫サラリーマン投資家に真似できるようなシロモノではない。だから、ノウハウ本ではないと最初に書かれている。これはつまり、金融マーケットを動かす人たちの思考を知り、金融マーケットのありようを知るための本なのである。

経済ニュースや金融情報を正しく読み取り、マーケットを分析し、仕事や資産運用に活かす。たぶん本書を理解するということは、それがある程度できるようになるということなんだろう。その意味で、ぼくの理解度は限りなく低い。為替や金利の基本的な考え方や、先物、金利スワップ、オプションなんかの仕組みはある程度分かった。景気やそれに関わる長期金利なんかは予想のしようがないということも分かった。ついでに著者はチャート嫌いということも分かった。が、マーケットは見えてこない。そして、一般人がマーケットで儲ける方法も分からなかった。

ぼくに必要なのは、さらに基礎的な門前の書である。そして、本書は自分の金融知識が基本レベル達したかどうかを測る試金石として、折りに触れて読み返すべき本なんだろうと思う。読み通すこと自体は苦にならない。講義口調がぼくには若干読みにくかったのだけれど、砕けた語りは十分にとっつきやすい。著者のいう「雑談」部分が意外に面白くて雑学的な読み物としても悪くない。日銀や政府と金融マーケットの関わりや、勤めていた銀行にまつわるこぼれ話、簿価会計と時価会計の話などなど、話のネタになりそうな話題がコロコロと転がっている。

いずれ、新しい世界を知るには新しい言葉を知らねばならない。まずはそこからだ。

2008年03月06日

江坂遊『ひねくれアイテム』(講談社ノベルス)

江坂遊『ひねくれアイテム』(講談社ノベルス)江坂遊『ひねくれアイテム』を読んだ。

実に48篇の奇想である。短い、という共通項を除けばほとんどジャンルレスといっていい。これは並大抵ではない。ショートショートの世界は星新一という唯一無二の巨星が創始し、彼の死によってその命脈を絶たれたかの如き思い込みがぼくにはあった。もちろん、ショートショートは今も書かれている。けれども、まさか専業で書く人がいるとは思わなかった。しかも、星新一とはまったく別方向のベクトルを持ったショートショートである。江坂遊はキャラクターを書く。しかもとても人間らしい。星新一の硬質で静謐な世界とは対極的である。

読後感もまた様々だ。こうした作品集はともするとブラックユーモアに傾きがちな気がする。それが、本書では意外にハッピーエンドの作品が少なくない。もちろん、相当にブラックな話もある。色恋に関わる話が多いのも特徴的で、世にも奇妙な恋愛譚はこれまた一筋縄でいかない結末のオンパレードである。だから、48篇を続けざまに読んでも、まったくオチが読めない。良い話だと思っていたら痛い話だったり、微笑ましい話が実は酷い不運に見舞われる話だったり、ハラハラしながら読んでいたらトンでもない駄洒落オチだったりする。

文章的には、とにかく会話文が多い。そもそも会話しかない話が16篇もある。地の文があるものも分量的には極めて控えで、ことによっては、その地の文すらモノローグに近いものだったりする。そういえば、1篇丸々ひとり語りという話もあった。この「語り」の効果は絶大で、正しく原初的な「物語」の喜びを味わわせてくれる。「何か面白い話はない?」「そうだね、じゃあこんな話をしようか…」そうして、誰かが不思議な話や、怖い話や、素敵な話や、楽しい話や、哀しい話を聞かせてくれる。そんな物語そのものに対するノスタルジーが感じられる。

ここに収録された作品たちは、決してそのすべてが傑作だとは思わない。なんだそれ!と突っ込みたくなるようなものも、当然のようにある。けれども、それでいいのである。幼子が大人にお話をねだるように、江坂遊の生み出す物語世界を読み尽くさずにいられない。次々とページをめくっては、また最初から読みなおしたり、お気に入りの話に付箋を貼ったりしてしまう。フルスイングの肩透かしみたいな作品すらワクワクして読んでしまう。そして、ときにクスリと笑わされ、ときにゾクリとさせられる。小説家というよりは語り部と呼びたくなる作風だ。

早速、既刊本を物色しにいかねば…。

2008年03月03日

山田真哉『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い 禁じられた数字(下)』(光文社新書)

山田真哉『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い 禁じられた数字(下)』(光文社新書)山田真哉『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い 禁じられた数字(下)』を読んだ。

これはもはや会計学の書ではない。むしろ、会計士が会計的思考の限界を語るのがこの本の主眼になっている。つまり、上巻で会計というものの考え方の有効性を説き、下巻でその一面性を暴露する。そういう作りになっている。分かりやすい。じゃあ、会計的センスとか要らないじゃん、というのは違う。まずは、当たり前のものの見方を身に付ける、或いは、再確認する。何しろ当たり前というのは個人差がある。その差を詰めるのが上巻だったといってもいい。とにかく足並みを揃える。それから、その常識が実は物事の一面でしかないことを説く。堅実だ。

前作の「食い逃げされてもバイトは雇うな」という認識は正しい。ただし、前提を忘れてはいけない。そこには「会計的に」というただし書きがつくのである。食い逃げとバイトのコストという切り口で具体的な数値を出して見せる。これは説得力がある。この数字の説得力こそが罠である。そこで思考停止してはいけない。これが本書の肝である。なぜなら「会計的に」という前提は絶対ではない。ここでいう会計的というのは、単純化された現実を前提とする姿勢と言い換えてもいい。単純化は確かに有効な方法だけれど、それが全てだと勘違いしてはいけない。

食い逃げの例を考えてみる。食い逃げの想定被害額とバイトの給料を比較して、食い逃げ防止のために雇ったバイト代の方が食い逃げ被害より高くつく、というのが会計的な結論である。なるほど、明快だ。けれども、食い逃げ防止のため「だけ」にバイトを雇うというのは、そもそも現実的な提案だろうか。経営者がそんな提案を却下するのは当たり前である。けれども、「店のために」と条件を変えればこれは話が違ってくる。食い逃げ防止は目的の一部ではあっても、すべてではなくなるからだ。むしろ、そんなものは副次的な効果と考えるべきだろう。

考えてみればバイトが人を呼ぶきっかけとなる可能性はいくらでもある。偶然の要素まで考慮するなら、ほとんど無限の可能性があるといってもいい。たまたま雇った超イケメンバイトが話題になって女性ファンが激増、雑誌の取材が殺到し、店舗拡張、新店オープン、売り上げ倍増…なんてこともないとはいえない。つまり、会計の限界というのは目先のコスト計算だけで結論を出すことの限界ともいえる。同じ食い逃げとバイトの話を聞いても、目に見えるコスト計算だけで思考停止しない。その先を考える。そこまでできなければ、会計的思考の価値は半減する。

本書に「費用対効果」が便利な言葉として紹介されているのも、実は同じことである。費用に対する効果というのは、二次的なものまで考えるならいくらでも考えることができる。牽強付会もプレゼンテーション次第で納得の理屈に化ける。ただし、そういった理屈は屋上屋を架すが如くに仮説を積み上げた結果であることが多い。つまり、単純なコストだけでなくリスクも考える必要が出てくる。たまたま雇ったバイトがコソ泥で客の財布を掏りまくり、店は信用をなくし、クビにすると最後の大仕事とばかりに全売り上げを持ち逃げされるなんてこともあろう。

こうした包括的な視座を持ってことにあたる。そうしてこそリスク回避的な対策も打てるのだし、ときに思い切った動きもできる。失敗しても「絶対イケると思ったのに!」なんてバカな悔しがり方をしなくてすむ。絶対なんてものが幻想だということは、少し考えれば分かるからだ。その上で、できる限り総合的に判断して行動する、もしくは、しない。そういうことの積み重ねが、選択の精度を上げていく。著者のいう「妙手」が打てるようになる。最初に、この本はもはや会計学の書ではないと書いた。いわば、これは会計を踏み台にしたビジネス論である。

表現の軽さやチープな読みやすさに騙されてはいけない。


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山田真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学』(光文社新書)
山田真哉『食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字(上)』(光文社新書)
山田真哉『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い 禁じられた数字(下)』(光文社新書)

2008年03月02日

山田真哉『食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字(上)』(光文社新書)

山田真哉『食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字(上)』(光文社新書)山田真哉『食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字(上)』を読んだ。

元々買うつもりのない本だった。同著者の『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がバカ売れしていた頃、そんなにも凄いのかと立ち読みして「ああ、当たり前のことが書いてある」と思った。読みやすいけれども、新しい発見は少なそうだと踏んだわけである。で、2匹目の泥鰌が泳いできた。今度はさらに踏み込んだ話なのかと、また立ち読みしてみた。新書は立ち読みせずに買うのが怖い。何しろ、最近はえらくキャッチーな書名が氾濫している。ぼくはお金持ちでも時間持ちでもないから、できるだけ面白い本を買って読みたい。やっぱり買わなかった。

つまらなかったということではない。面白そうではあるのだけれど、「そこから先が知りたい」というところで話が終わっている、そういう印象があった。少し考えれば分かるような話が多く思えた。また、分からなかったとしても、示される回答に新しい閃きは感じられなかった。相変わらずすこぶる読みやすい本だったから、少し暇なら立ち読みで読破も不可能ではなかったろうけれど、それは流石に止めておいた。そんな本を買う気になったのは、結局はタイトルのせいである。それも続編のタイトルである。これを思う壺という。完全にやられた。

『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い』という続編が書店に並んでいるのを見て、「そこから先」が書かれているに違いないと咄嗟に思った。思った瞬間、2冊まとめて買っていた。不覚にも立ち読みするのを忘れていた。最近の新書は本当に巧いタイトルをつける。そして、この2冊に関しては騙されたとは思わなかった。何しろ、書名そのままのことが書かれている。「食い逃げされてもバイトは雇うな」という理由は簡単だ。ぼくでもタイトルを見ただけで分かったし、きっと分かった人は多いだろうと思う。それはそれでいいのである。

これは下巻に向けての伏線の書である。だから、個人的には会計に絡む話題以外、目新しい話はなかった。進んで数字を巧く使おうという意識を持ってはいないけれど、巧く使われた数字を鵜呑みにするほどぼくはお人好しではない。ぼくは曲がりなりにも広告に関わる仕事をしている。広告表現について見聞きすることは多いし、自らコピーを捻り出さねばならないときもある。また、広告を眺めているとお金の流れにもある程度敏感になる。いや、それは正しい知識を得るというよりは、勝手に裏を読み始めるといった方がいい。要するにスレてくる。

それでも、とりあえず読む。そして、表の視点を再確認する。この本ではここまででいい。もちろん、書名を見て「なんで?」と素直に思った人は是非読むべきだ。正しくコストを考えられるようになれば、少なくとも、いつの間にか手元の金が消えているなんてことはなくなる。何に使っているつもりもないのに一向に金が貯まらない。そんな人にはとても役に立つ話だろう。そして、世間はなかなかに狡猾だということも見えてくる。著者の実感を信じるなら、数字にナイーブな人というのは相当に多いらしい。自覚があるなら読む価値はある。

ともあれ、世に溢れる数字の効用が分かりやすく整理されている。これが会計的な考え方の土台になる。ちなみに、ここでいう会計的というのはキチンと損得勘定ができるというほどの意味である。それができているという人には食い足りない内容だろう。実際、軽い。けれども、これには続編があるのである。きっと、そこで新しい視点を与えてくれるはずだ。書名をみれば明らかである。だから、この本の書名を見て、「当たり前だ」と思ったぼくのような人間こそ、読むべきなんだろう。すでに書名が「当たり前ではない」といっている。

期待の続編についてはまた後日。

2008年03月01日

福田恆存『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)

福田恆存『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)福田恆存『人間・この劇的なるもの』を読んだ。

なるほど、これは確かに「人生の書」だと思う。人はただ漫然と生きるためだけに生きることができない。できるかもしれないけれど、それでは満足できない。生きることに「何か」を見い出そうとする。その「何か」は「幸福」と呼べるものかもしれない。けれども、それはなかなかに正体の掴みにくいものだ。それを知るためのヒント、或いはそのものの断片とでもいうべきものがこの本には書かれている。人が本当に望むものは何か。著者はまず「自由」を挙げてこれを否定する。そして語られるのは「演戯」ということについてである。

名著と推す人の多い本ながら、長らく絶版状態にあった。それが、新潮文庫から復刊され、新刊書店であたかも新刊のごとく平台に載っている。遅れてきた読者としてはとても有り難い。惜しむらくは、せめて学生時代に出会っておきたかったという気がする。そうすれば探求心からシェークスピア戯曲を読み漁ったかもしれないし、もっと新鮮な驚きをもって著者の主張に感動できたかもしれない。特に、個性や自由についての著者の視点は、学生時代のぼくならきっと目からポロポロ鱗を落として、大喜びで吹聴して回ったろうと思う。

著者は一言の元に切り捨てる。「個性などというものを信じてはいけない」と。或いは「私たちが真に求めているものは自由ではない」と。今となっては、その主張自体が珍しいわけではない。否、当時からそんなことは、あちこちでいわれていたのかもしれない。それでも、個性や自由は尊重すべきものという風潮は根強い。幸福には自由が必要だと無邪気に信じている人が少なくないように思う。著者はその無批判といっていい思い込みを一蹴する。人に必要なのは生を実感するための物語なのだと。それは「宿命」や「運命」と表現されている。

やり甲斐のあることとはどんなものか。自由で楽しいものだろうか。違うだろう。それなら生き甲斐はどうか。自由気ままに生きることに甲斐はあるのか。著者は得意のシェイクスピア劇をひきながら、人が人生を「演戯」するということについて淡々と語る。ぼくに教養の足りないのが無念だ。ぼくはシェイクスピアを知らなすぎる。自らの人生に対して極めて意識的な主人公として、著者はハムレットを挙げている。残念ながら、こうしたハムレット解釈がどの程度独自のものなのか、どの程度妥当なものなのか判断する術をぼくは持たない。

もちろん、これは劇評ではない。だから、ハムレットを知らなければ読めないというものではない。ただ劇作家、演出家としても活動した著者ならではの人生論としても十分に面白い。今更ぼくなどが勧めずとも、復刊を機に読まれる本でもあろう。これを読めば「自分探し」がとまらない理由も、それがいかに虚しい行為かもすぐに理解できる。その意味で、「個性」なんていう言葉に縛られ迷走する若者や、鬱々として自分を見失いつつある現代人にこそ読まれるべき本だと思う。個人主義の追求は生の強度を間引く罠である。だから幸福から遠ざかる。

全一なるものにコミットする幸福は、何も宗教の専売特許ではない。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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