福田恆存『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)

福田恆存『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)福田恆存『人間・この劇的なるもの』を読んだ。

なるほど、これは確かに「人生の書」だと思う。人はただ漫然と生きるためだけに生きることができない。できるかもしれないけれど、それでは満足できない。生きることに「何か」を見い出そうとする。その「何か」は「幸福」と呼べるものかもしれない。けれども、それはなかなかに正体の掴みにくいものだ。それを知るためのヒント、或いはそのものの断片とでもいうべきものがこの本には書かれている。人が本当に望むものは何か。著者はまず「自由」を挙げてこれを否定する。そして語られるのは「演戯」ということについてである。

名著と推す人の多い本ながら、長らく絶版状態にあった。それが、新潮文庫から復刊され、新刊書店であたかも新刊のごとく平台に載っている。遅れてきた読者としてはとても有り難い。惜しむらくは、せめて学生時代に出会っておきたかったという気がする。そうすれば探求心からシェークスピア戯曲を読み漁ったかもしれないし、もっと新鮮な驚きをもって著者の主張に感動できたかもしれない。特に、個性や自由についての著者の視点は、学生時代のぼくならきっと目からポロポロ鱗を落として、大喜びで吹聴して回ったろうと思う。

著者は一言の元に切り捨てる。「個性などというものを信じてはいけない」と。或いは「私たちが真に求めているものは自由ではない」と。今となっては、その主張自体が珍しいわけではない。否、当時からそんなことは、あちこちでいわれていたのかもしれない。それでも、個性や自由は尊重すべきものという風潮は根強い。幸福には自由が必要だと無邪気に信じている人が少なくないように思う。著者はその無批判といっていい思い込みを一蹴する。人に必要なのは生を実感するための物語なのだと。それは「宿命」や「運命」と表現されている。

やり甲斐のあることとはどんなものか。自由で楽しいものだろうか。違うだろう。それなら生き甲斐はどうか。自由気ままに生きることに甲斐はあるのか。著者は得意のシェイクスピア劇をひきながら、人が人生を「演戯」するということについて淡々と語る。ぼくに教養の足りないのが無念だ。ぼくはシェイクスピアを知らなすぎる。自らの人生に対して極めて意識的な主人公として、著者はハムレットを挙げている。残念ながら、こうしたハムレット解釈がどの程度独自のものなのか、どの程度妥当なものなのか判断する術をぼくは持たない。

もちろん、これは劇評ではない。だから、ハムレットを知らなければ読めないというものではない。ただ劇作家、演出家としても活動した著者ならではの人生論としても十分に面白い。今更ぼくなどが勧めずとも、復刊を機に読まれる本でもあろう。これを読めば「自分探し」がとまらない理由も、それがいかに虚しい行為かもすぐに理解できる。その意味で、「個性」なんていう言葉に縛られ迷走する若者や、鬱々として自分を見失いつつある現代人にこそ読まれるべき本だと思う。個人主義の追求は生の強度を間引く罠である。だから幸福から遠ざかる。

全一なるものにコミットする幸福は、何も宗教の専売特許ではない。

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