米澤穂信『犬はどこだ』(創元推理文庫)

米澤穂信『犬はどこだ』(創元推理文庫)米澤穂信『犬はどこだ』を読んだ。

この人は本当にミステリが好きなんだな、と思う。設定がまたふるっている。東京で理不尽な皮膚病に冒され失意の内に帰郷した紺屋長一郎。彼は社会復帰のためのリハビリに犬探し専門の探偵事務所を始める。よりによって探偵である。何をおいても探偵がやりたかったわけではない。今は治まっている病気のせいで飲食業を断念した結果である。人生は思うようにいかない。そのことを半ば諦観し始めている。そういう主人公として、紺屋長一郎は描かれる。また、堅実かつ割切った性向は古典部シリーズの主人公、折木奉太郎の延長線上にあるように思える。

初仕事。お節介な友人の的外れな宣伝のお陰で、初手から犬ならぬ人間の女を捜すことになる。ついでに、探偵志望の従業員に古文書の来歴調べまでが舞い込み、話は一気に転がり始める。もちろん、失踪と古文書は繋がる。失踪を紺屋が、古文書を押しかけ従業員のハンペーが調査する。その経緯が、それぞれの視点で交互に描かれる。表面的にしか情報を共有していないふたりは、佳境に入るまでふたつの調査の接点に気付かない。クライマックス、一気にパズルが解けていく快感と、卓袱台返しの快感が華麗なる連続コンボで味わえる。さすがはミステリフリーク。

ラストの卓袱台返しは、驚きと共に呆気ない幕切れを用意する。しかも、その顛末は直接的には描かれない。思い通りにいかない主人公紺屋は、最後もやはり間に合わない。躊躇いなく、次善の策に移る。その選択は物語の後に遺恨を残す。この辺りの苦さが米澤穂信らしい。この人はどうも舌触りの好い甘い話を書かない。暗いといってもいい。ただ、暗さの中で初めて見えてくる光もある。いや、微かな光みたいなものは、暗闇の中でしか見付けることができない。たとえば、紺屋が最後に自らの「思い」で動く。これも、そうした小さな光のひとつだろう。

正直にいえば、主人公を動かす「思い」、いい換えると「シンパシー」ということになるのだけれど、これはちょっと浅いかなという気もする。その浅さを救っているのがクライマックスの逆転劇である。紺屋が追跡対象者に自分と同じ匂いを嗅ぎとっている。その上で、事前にことを修めようとした点に意味がある。それは単なる共感を超えた行動だからだ。共感だけで終わっていれば、紺屋は事件を止めようとはしなかったはずである。もちろん、結果的に事件は止まらない。けれども、この不首尾の救出劇があって初めて、本作は紺屋復活の物語として意味を持つ。

これはまた酷く続篇が楽しみな作品にあたってしまった。

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