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2007年06月29日

伊坂幸太郎『グラスホッパー』(角川文庫)

伊坂幸太郎『グラスホッパー』(角川文庫)伊坂幸太郎『グラスホッパー』を読んだ。

アンモラルだな、というのが第一印象である。インモラルではなくアンモラル。不道徳ではなく無道徳といった雰囲気。殺し屋対殺し屋対殺し屋というベースに犯罪組織と悪徳政治家が絡んで、そこに犯罪被害者たる一般人が首を突っ込んでさあ大変。これで道徳的だったりしたらその方が怪訝しい。正義の出る幕などないのである。

メインキャストの殺し屋たちには、一般的な道徳観念など端からないように見える。道徳に反するという意識が最初から希薄なのである。もちろん殺し屋だから仕事で殺す。よって悪意など介入する余地はない。だから彼らは悪人に見えない。きっと見ていて不快なのは殺人なんて行為よりも、害意の裏に潜む人間の薄汚い心性の方なのだろう。

特にアンモラルを体現しているのが蝉というナイフ使いの殺し屋である。女子供も皆殺しなんて不人気な仕事も躊躇なくこなす。どう考えても非道である。彼は名前の通り大変に姦しい。良く喋る。どうも賢くはない。その辺に転がっていそうなただの軽薄な若者に見える。ただ、身体能力が異常に高い。感覚も鋭敏だ。だから殺しなどやっている。

相手が強かったり状況が過酷だったりすると闘志を燃やす。いかにも健全だ。どうにもスポーツみたいな感覚である。たとえば、自分より弱い人間を嬲り殺して悦ぶような、そんな陰湿さとは無縁である。そして、彼なりの向上心や克己心も持っている。仕事内容さえ度外視すればむしろ好もしいキャラクターだろう。ここが味噌である。

つまり、殺す相手も悪いやつだから許せるとかそういう次元の問題ではない。

それは相手を自殺させる殺し屋、鯨にしても同じことだ。彼のターゲットの多くは権力者を生かすためのスケープゴートである。どう贔屓目に見ても気分の悪い仕事に違いない。彼は過去に殺した被害者たちの幻影に悩まされる。幻と現実の境が徐々に曖昧になっていくのである。そして、寡黙な鯨の愛読書は『罪と罰』だったりする。

3人の殺し屋の内、一番謎なのが槿である。物語は基本的に3つの視点で進むのだけれど、槿だけが視点人物にならない。一般人鈴木の視点で語られ、唯一内面を語らない殺し屋なのである。しかも、作中でハッキリしている殺しは、作中一、二を争う極悪人が相手のため、ある種ヒーロー的でさえある。彼だけは寄って立つ地平が違っている。

こんなアンモラルなキャラクターたちが魅力的に思えるのは、これまで通りの伊坂節がこれまでにない文体にうまく乗っかっているせいだろう。著者の作品にしては珍しく、地の文にそのまま視点人物のモノローグが挿入され、物語の展開に対してキャラクターたちの内面がダイレクトに伝わってくる。コレが実にストイックで心地好い。

そして、実は他者との対話が彼らの原動力になっている。これが面白い。鈴木は亡き妻、鯨はホームレスの似非カウンセラー、蝉はエージェントの岩西と彼が好んで引用するジャック・クリスピンのお言葉。コミュニケーションは決して放棄されない。だからこの作品は殺伐としてしまわないのだし、彼らは愛すべきキャラクターたり得るのだろう。

槿を巡る謎の顛末は十分に面白いし、哀しい気持ちになっているところにラスト近くで愛すべき兄弟が一緒に現れるなど心憎い演出もある。槿が鈴木に気を許すきっかけがブライアン・ジョーンズというのも好きな人にはたまらない演出だろうし、何より全篇を通して殺された鈴木の妻の面影がイキイキと読み取れるところが素晴らしい。

手放しで喜べないのに何故か清々しい、この不思議な読後感。

これだけ個性的な作風なのにマンネリにならないのだから凄い。

2007年06月24日

恩田陸『蛇行する川のほとり』(中公文庫)

恩田陸『蛇行する川のほとり』(中公文庫)恩田陸『蛇行する川のほとり』を読んだ。

この人の著作から受けるいわゆる24年組的な印象が最も色濃く表れている作品かもしれない。だからここで取り沙汰されるノスタルジーは、そうした漫画作品やなんかに植えつけられた虚構のノスタルジーである。そして、あまりにも濃厚な少女小説であるが故に、拒絶反応を示す向きもあるかもしれない。ほとんど美少女の園といっていい。

けれども、24年組の漫画家たちがそうであったように、恩田陸の作品も道具立てほどに甘い話にはならない。美に対峙するのは罪であり死である。美しい少年少女らが川のほとりの邸に集まって、そこに壮絶な屈託のないわけがない。誤解に満ちた隠微で危うい関係、断片的に共有される過去、誰もが本当には知り得ない真実…。

本編は大きく3部構成になっている。元は1部ずつ3分冊の定期刊行という形態をとっていた。つまり、続き物だったのである。だから、そんな刊行形式をうまく利用した構成になってもいる。真相に肉薄したと思ったら部が改まり、視点人物が変わるのである。初版刊行時、発売ごとに読んでいた人たちは相当ヤキモキさせられたに違いない。

作中、「藪の中」に言及する部分がある。芥川龍之介が書いたそれは、ミステリファンの間でも評価が高い。ひとつの事件を7つの証言で描く。これがまるで違った事件のように語られる。真実は錯綜し、それがいかに不確実なものかが浮き彫りになる。所詮、個人的体験は個人的真実でしかあり得ないのだと思い知らされる。

この作品は、少年少女らがある過去の事件について語ることで真実を追求していく。そしてやっぱり、それぞれが違った真実を見ている。この辺りの趣向は、明らかに「藪の中」を意識してのものだろう。でなければ、わざわざ少女らにそれをテーマにした舞台背景を描かせたりはしない。恩田陸というのはそういう作家だと思う。

けれども、この作品と「藪の中」には決定的な違いがある。というのも、この作品はラストでオチる。リドル・ストーリーではないのである。芥川龍之介は、当然のように客観的真実といったものを提示しない。まさしく「真実は藪の中」のまま終わる。読者は宙ぶらりんのまま放り出され、決して到達できない真実を求め続けることになる。

その点、恩田陸は読者のために一応の心の平安を用意している。最後の最後で「真実らしきもの」が語られるのである。もちろん、それとてひとりの少女から見た真実でしかないという見方はあろう。けれども、作中で追求される真実とは、即ち、その少女が体験したはずの真実なのである。であれば、その告白は紛うことなき真実の告白となる。

純粋に推理小説として読んだなら、その死に到る物理的経緯はあまりよくできたものではない。けれども、話の肝はむしろ心理的経緯の方である。屈折した愛が屈折した死を呼び込み、屈折した少女を作り出す。その屈折は関わった少年少女たちを否応なく変質させ、本来それほどの関わりさえなかった少女たちの少女性までをも失わせてしまう。

そして、ただ死だけが、少女性の代わりに聖性を担保する。

とても未熟でとても美しい…これはそういう少女たちの物語である。


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恩田陸『蛇行する川のほとり〈1〉』(中央公論新社)
恩田陸『蛇行する川のほとり〈2〉』(中央公論新社)
恩田陸『蛇行する川のほとり〈3〉』(中央公論新社)
芥川龍之介『地獄変・邪宗門・好色・薮の中 他七篇』(岩波文庫)

2007年06月21日

麻生太郎『とてつもない日本』(新潮新書)

books070621.jpg麻生太郎『とてつもない日本』を読んだ。

何よりも意外だったのは、この本が掛け値なしに面白かったこと。それだけでも、麻生太郎という人の実力が知れる。これなら人気が出るのも当然だろう。アキバだなんだは関係ない。そもそも政治信条に関わる主義主張をやろうとすると、ズブの素人だって小難しいことをいい出すのが通例だ。その手のブログを見ていても大抵その例に漏れない。

ところが、この人はあまりに衒いのない文章で、そのクセしっかりと自己主張している。国際関係にしろ靖国にしろ、主張の背景が極めてクリアで分かりやすい。ややこしい問題にフィルターをかけて単純化する技術は相当なものである。ある程度枝葉が漏れることを恐れない態度はいっそ潔い。所詮真実などは藪の中なのだからこれは正しい態度だろう。

そんな単純な話じゃないんだよ、という人は沢山いるだろうと思う。けれども、現状を認識する契機となるのは、いつだって断片化した事実を知ることだろう。だとすれば、著者の主張する真実を知ることは、興味への扉を開くことになるかもしれない。無批判に鵜呑みにするのはどうかと思うけれど、これは貴重な現在の日本論だと思う。

この本が魅力的なのはひとつにはそのポジティブな志向のせいだ。

現在や未来を語るときは、悲観的になるのがイマドキのトレンドである。少なくとも大勢はそうなっている。その現状に著者は待ったをかける。日本はダメなんかじゃない、と。テーマはまるで違うけれど、その明快なポジティブ思考は梅田望夫のITに対する態度と似ている。麻生も梅田も、恐らくは戦略としてこうした表現を選んでいる。

戦略である以上は、うまく効果的な材料が並べられている。漫画好きを公言し、ローゼン閣下などと渾名されることすらうまく利用している。漫画やアニメが世界に誇るべき文化であるとかそんなことは決して本題ではない。ただの話の枕である。そして、オタク、ニートはもちろん、高齢化社会すら悲観すべき事態ではないといい切るのである。

もしかするとあるかもしれない可能性を、必ずあるといい切るのは勇気の要ることだ。それは過剰なオプティミズムと取られかねないし、事実、梅田望夫などは確信犯的アジテーターと捉えられている節がある。けれども、麻生太郎のいう「とてつもない日本」は、恐らくはそのままの意味で存在している。ただ人によって評価が違っているだけである。

いくら政の不備が取り沙汰されても、金の亡者が跋扈し潰しあっていても、うつ病患者やら自殺志願者が続々生産され続けていても、天下麻のごとく乱れる乱世とは程遠い平穏な日々は守られている。道端にゴロゴロと餓死者が転がっているようなこともないし、行き倒れの衣服金品を強奪して糊口を凌いでいるような人もこの国にはいない。

ランキングを付ければ、依然日本はお金持ち国家なのである。

もちろん、だからこのままでいいじゃないかという話ではない。この本の主張はその先にある。これだけの国家を運営してきた日本人には、それに見合うだけのノウハウがある。そして、今なお、先陣を切って新しい問題に直面しては乗り越えようともがいている。そうして蓄えられたナレッジはあまねく後続の同志たちに有益なはずだ。

それはすなわち日本の価値である。

その価値を輸出し、国際社会のリーダーとなれ。これはなかなかに魅力的な主張である。なんとなく誇らしい気持ちになる。今現在ぶち当たっている難問さえ、将来の糧となる。これはそういう主張である。ここまでくれば、否定するのは野暮というものである。ひとまずその気になってみることが大切だ。そう思わせてくれる。

なるほど、これは支持されてしかるべきキャラクターである。

次期首相の線があるなら、是非頑張ってもらいたい。

2007年06月20日

半村良『石の血脈』(集英社文庫)

半村良『石の血脈』(集英社文庫)半村良『石の血脈』を読んだ。

伝奇SFの幕開けを告げた作品。それだけでも読まずに済ませるわけにはいかない。エポックメイキングとはこういう作品をいうのだと思う。早川書房から初版が出たのは、なんと1971年である。ぼくなどは生まれてもいない。それが今なお色褪せないのだから凄い。しかも、これが著者の長篇デビュー作なのである。尋常ならざる力の奔流に圧倒される。

吸血鬼や狼人を扱ったホラーは珍しくない。アトランティスなど超古代文明を扱ったファンタジーも数多あるだろう。巨石文明やなんかの遺跡を扱った歴史ロマンも探せばそこそこありそうである。けれども、これら広範なテーマをひと筋に縒り合わせ、現代日本を舞台に奇想天外な物語を紡ぐとなると、これはもう他に類例があるとは思えない。

この壮大な荒唐無稽さこそ半村良最大の魅力だろう。

しかも、著者はエンターテイメントに胸を突くメッセージを込める。それは人間の本性を直視せよという実に直截なメッセージである。中でも、権力に対する視線は痛烈で容赦がない。この作品では建造物が権力の象徴として語られる。権力構造の中に半ば運命的にその身を投じる主人公は若き建築家である。彼の運命は必然的に過酷だ。

未来を嘱望される建築家隅田の貞淑な新妻が失踪する。それも、多分に性的な疑惑を残して。約束されていたはずの未来は不安定に揺らぎ、隅田は微妙な立場に追い込まれる。けれども、それは大きな謀略の極めて小さな断片に過ぎない。やがて彼は翻弄されるように権力の中枢へと引き込まれていく。ただし、支払うべき代償は決して小さくない。

彼は上昇志向の強い、非常に魅力的な男として登場する。ヒーロー然としたこのキャラクターを、けれども、著者は決して英雄として描こうとしない。それでも、ある時点まではダークヒーロー的な見方もできなくはない。ところが、著者はその地位すらも容赦なく奪い去ってしまうのである。真実の中に見つけるのは苦渋ばかり。どこにも救いはない。

あまりに哀しい主人公である。

この著者の作品はスケールがあまりに大きいため、いくら長くても物足りないということが往々にしてある。この作品も、1冊の本としては相当に大部であるにもかかわらず、駆け足の感がないとはいえない。長篇デビュー作ということで、全体のバランスや、キャラクターの魅力といった点で、後続作に届かない面もあろう。

それでも、既にして百凡の小説にはない圧倒的なパワーがここにはある。

その比類ない混沌の力は、読者を力尽くで伝奇世界へ引き摺り込む。現実世界に闇を感じさせる。淫靡な色に染まる繁華街のレジャービル群。その隙間から零れ出る闇を幻視するようになる。都市は途端に妖しげな光を放ち始め、夜の住人たちが現実味を帯びて脳裏に立ち現れてくる。欲望を媒介としたイマジネーションは理性を超えて侵入してくる。

たとえアトランティスを知らなくても、吸血鬼伝説や狼人に詳しくなくても、この面白さを享受するのに何ら不都合はない。まるで詳しくないぼくがいうのだからこれは間違いない。もちろん、その辺りの知識があればもっと楽しめるのかもしれないとは思う。きっと、思いもかけない着想や奇想に満ち満ちていることだろう。

本物のエンターテイメントを求めるならこの本を積み残すことは許されない。

2007年06月19日

小路幸也『空を見上げる古い歌を口ずさむ』(講談社文庫)

小路幸也『空を見上げる古い歌を口ずさむ』(講談社文庫)小路幸也『空を見上げる古い歌を口ずさむ』を読んだ。

読み始めてすぐに想起したのは、朱川湊人の名前だった。『花まんま』で直木賞を獲ったノスタルジックホラーの旗手である。どこまでもノスタルジックな情景、突如日常に紛れ込んでくる奇怪な出来事、複雑な心を抱えながらも悪意の感じられない登場人物たち。そうしたものが、どこか口当たりの好い、優しげな語り口で物語られる。

次第に明らかになっていく、どうにもならない真実。不条理な哀しみに満ちた世界で、それでもなんとか生きていこうとする前向きな決意。ミステリ的なレトリックや、サスペンス要素をふんだんに盛り込みながら、地に足の着いた不思議を描く。これがホラーであるかどうかは別として、こうした要素がぼくに朱川湊人を思い出させたのだろう。

突如、周囲の人間が<のっぺらぼう>に見えるといい出した少年、彰。彼の父は20年前に家族を元を去った実の兄に連絡を取る。やっぱり視えてしまう兄、恭一が、<のっぺらぼう>に纏わる秘密を語って聞かせる。その昔語りが本編となる。高度経済成長期の閉鎖的な田舎町を舞台に、不思議な少年期の体験が訥々と語られるのである。

この多分にファンタジックで、極めて魅力的な導入部の謎は、序盤、読者を翻弄するように現実とファンタジーの狭間を揺れ動く。幻想譚に足を踏み入れつつ、なかなかそこに落ち込んでしまわない。この辺りの焦らし方は、デビュー作にして堂に入っている。<のっぺらぼう>について現実的な解釈の余地を残したまま物語は主観的に進んでいく。

外側からの視点を持たない物語は、そのために分かりやすい説明を与えてはくれない。この物語に無粋な探偵役はいないのである。これを、たとえば閉鎖社会を安定化する社会的装置だと捉えたり、ある種の病気や集団催眠のようなものだと解釈したりするのは読み手の自由である。この物語は最初から客観的事実というようなものに軸足を置いてはいない。

それはたとえば、民俗学で扱われるような世界といってもいい。その手の不思議を現代的な客観視点で翻訳してみたのが京極夏彦のような作家だとすると、この著者は向こう側の世界をその内側から描くことに終始する。だからこその一人称一人語りといっていい。民俗社会では普通に行われていたはずの昔語り。村の古老が子供らに聞かせた伝承の類。

語り部という文化を既にを失った時代の子供だったぼくに、こういった類の語りの記憶はない。たとえ口承の習慣が僅かに残っていたとしても、ぼくたちの世代の子供たちが素直にその手の昔話に耳を傾けることはなかっただろう。その癖、大人になって想像するそうした語りのイメージは、否応なく持ち得たはずのないノスタルジーを喚起する。

それはイメージの中にしかない、けれども、とてもリアルで切実な郷愁である。

そんな切実な感傷を文章に込める。その段階で、著者の企みは半ば成功したといってもいい。本当は知らないけはずなのに懐かしい、最大公約数的に蓄えられた、古き良き少年時代のイメージ。ぼくたちは、大人だからこそ感じられる、子供らしい冒険心と、葛藤と、謎に満ちた世界に心を遊ばせ、懸命に生きることができる。

もちろん、そこに描かれるのは決して優しいばかりの世界ではない。むしろ、理不尽で残酷で哀しみに満ちた世界である。そんな容赦ない現実にどう立ち向かい、どう生きていくのか。何を信じ、何を頼り、何を選び取っていくのか。そこに込められたメッセージは、確かに陳腐かもしれないけれど、決して馬鹿にはできないものだ。

この本は、決してノスタルジックなばかりの癒し本なんかではない。

2007年06月17日

斎藤美奈子『趣味は読書。』(ちくま文庫)

斎藤美奈子『趣味は読書。』(ちくま文庫)斎藤美奈子『趣味は読書。』を読んだ。

タイトルに騙されてはいけない。これは読書について書かれた本では、実は、ない。文庫の帯の惹句はこうだ。「あなたの代わりに読みましょう!」…読まれるのは、いわゆるベストセラー本である。売れているはずのベストセラー、何故か周囲の本好きに聞いても読んだという人がほとんどいない。きっかけはそんなことだったらしい。

取り上げられている49作品の内、ぼくは6作品まで読んでいる。これが多いのか少ないのかは分からない。ただ面白いのは、読んだ6作品の内5作品までは、親が知人より借り受けたか薦められて買った本だという点である。ぼくの親は決して読書家ではない。年に1冊読めばいい方だろう。これぞベストセラーのベストセラーたる所以か。

ともあれこの本、一応はベストセラー書評集ということになっている。確かにどこかで目にしたようなタイトルたちが並び、内容の紹介らしきものも書かれている。問題なのはその先だ。評論部分に入ると、途端に、主役が本ではなくなってしまう。ならば何が書かれているのか。主にはその本の読み手や書き手の分析、あるいは批評である。

実際のところ、内容はほとんど定型化している。特にイキイキと輝いて見えるのが、中高年男性を舌鋒鋭くやり込めるタイプの芸である。何やらフェミニズムの香りがプンプンと漂ってくる。そう思って他の著書を調べてみた。『妊娠小説』『モダンガール論』『紅一点論』『男女という制度』などなど。さもありなんといったところか。

ちゃんと「本、ないしは読書する人について」というまえがきを読んでいれば、この輝きの理由はより明確になる。連載誌の読者層を意識して「ときに挑発的だったり内輪ノリになっている点があるかもしれない」と著者自身が前置きしている。ご高齢の「インテリ」属性や「教養人」属性に過剰反応していることを、最初から白状しているのである。

だから、読みが一面的なのは、恐らくはわざとである。

たとえば、B・シュリンク『朗読者』を批評する段で「少年ミヒャエル、性にめざめる」と題した要約がある。簡潔に書けば、魅力的な36歳の女性が15歳の主人公の筆おろしをしてくれる、そういう挿話である。著者の感想は「まるで男の天国だな。」である。矛先を変えて、この女ショタコンじゃないのか、とかやるのは芸風に反するのである。

この辺り、芸としてそれなりに確立されている。アカラサマな我田引水すら芸の内といっていい。それに、ベストセラーの成分分析的な屁理屈がまた滅法面白い。49本もあれば多少の当たり外れはあるけれど、中にはオオッと感心するような洞察も混じっていたりする。ただし、ダシにされたベストセラー本を読んでみる気にはまったくならない。

賛否に関わらず、そもそも本に興味を持てない書評というのは本末転倒だ。

つまるところ、これはベストセラーを枕に、社会批評や文壇批評なんかを盛り込んだエッセイ集なのである。こういう本を書評として真面目に読んではつまらない。いわば話芸を愉しむ本である。毒舌とボヤキが同居する辛口話芸。ベストセラー分析という不毛。実は読書が好きに違いない著者の脱力の書。そう思って読むのがたぶん正しい。

そう思って読むと、まえがきからして大変に面白い。

2007年06月07日

蒼井上鷹『俺が俺に殺されて』(ノン・ノベル)

蒼井上鷹『俺が俺に殺されて』(ノン・ノベル)蒼井上鷹『俺が俺に殺されて』を読んだ。

読み始めてすぐに思ったのは、この作家はやっぱり短篇の人なんじゃないか、ということだった。とにかくテンポが悪い。冗長な描写や、悪乗りにすぎる表現がそこかしこに出てくる。短篇を薄めて引き伸ばしたらこうなるのか、なんて身も蓋もない毒を吐きそうになった。といって、ここで放り出してはイケナイ。ちゃんと大技が仕込んである。

1人5役のミステリ。

この作品が目指したのはこれである。被害者、犯人、探偵の3役くらいでは甘いとばかりに、かなりの無茶をやっている。そのために初っ端からやらかしているのが、魂の乗り移りという超常設定である。殺された主人公の魂が犯人に憑依するのである。立ち読みで本を選んでいたら買わなかったかもしれない。それほどにお馬鹿な幕開けである。

だから『九杯目には早すぎる』『二枚舌は極楽へ行く』のような作風を期待すると、たぶん戸惑うことになる。まったくその手の色がないわけではない。どんどんドツボに嵌まっていく主人公などは、むしろお家芸みたいなものである。だいたい、乗り移った相手が、元々大嫌いだったデブなオッサンなのである。出だしからアンラッキーすぎる。

しかも、このオッサン、主人公がベタ惚れしている美人の恋人にまで、蛇蝎の如くに嫌われている。どうやらしつこくいい寄っていたらしい。お陰で、苦境を打ち明けようにも聞く耳すら持ってもらえない。一方で、豊満すぎる主人公の姉とは、何やらアヤシイ関係にありそうな気配があったりもする。こんなに不運な入れ替わりもない。

この畳み掛けるような逆境こそが、この本の大きな楽しみのひとつのはずだし、この著者の持ち味でもあるはずだ。実際、ほとんどご都合主義的ともいえる逆境設定の数々は、それにもかかわらず笑って許せてしまう。それでも違和感が拭えないのは、1人5役に奉仕するためのアッパー系超常設定と、それに合わせた大振りな文体のせいだろう。

この著者の資質は完全にダウナー系である。

だから、こんな飛び道具的な設定で悲惨な運命の主人公を作り出しておきながら、どうにもスラップスティックになりきれていない。不条理に追い詰められていく主人公の姿があまりに痛々しい。この痛々しさは、どうもに長篇に向かない。文体のせいもあってか妙に疲れる。これが、どうやら意図して必要以上に回りくどく書いている節がある。

ラスト近くに「これを小説にしたら、一風変わった面白いものができるのではないだろうか」という主人公のモノローグがある。これをもってメタ仕掛けだと判ずるなら、この小説は主人公が書いたということになる。主人公は作家志望のフリーターという設定だ。であれば、この大振りな文体は、意図して下手に書いている可能性が高い。

なんと回りくどい仕掛けだろう。けれども、推理の伏線を見逃さないため、軽々に読み飛ばすわけにもいかない。それでずるずると読んでしまうのだから、まるで牽引力がないわけでもないのだろう。後半、仮説が次から次へと繰り出されては否定されていく。多少牽強付会の気はあれど、否応なく迷宮度は高まっていく。まさに独り推理合戦。

しかも、どの仮説にも救いがない。

そして終盤、転機は唐突にやってくる。「ずっと忘れていた、あることを思い出したのだ」…思わず、「それ、忘れるのかよっ!」とツッコんでしまった。もちろん、主人公が都合よく忘れていたちょっとしたサプライズは、直接トリックに関わっているわけではない。だから、ミステリ的にアンフェアだとかそういうことにはならない。

とにもかくにも、この記憶の復活劇をきっかけに、“蒲田行進曲”よろしく階段落ちを披露した主人公は、再び超常の力によって真相を掴むチャンスを得る。ここで、帯に書かれた書店員の言葉を借りるなら、「極上のトリック」というやつが開陳される。個人的な感想をいえば、極上なのはトリックよりも、主人公のあまりの悲惨さの方である。

ただし、メタ説を採用するなら、これが即、ハッピーエンドになるのである。

思わず膝を打ってしまった。まったく、やってくれる。

2007年06月05日

酒見賢一『後宮小説』(新潮文庫)

books070605.jpg酒見賢一『後宮小説』を読んだ。

中国歴史小説のような顔をしたファンタジー小説である。ぼくは歴史に疎い。古文漢文にだって滅法弱い。そういう人間が読むと、これは歴史小説に見える。少なくとも、史実を基にしているのだろう、くらいには思うはずだ。まさか、丸きり著者の妄想の産物だとは思わなかった。独特の乾いた文体とも相俟ってやけにリアリティがある。

これをものしたとき、著者は若干25歳である。老成した文体だと思う。表現的にというより、その抑制された語りが、である。淡々として小気味良く、ユーモアに富み、決して情緒的にならない。盛り上がって筆が走るようなことがない。これがかえって奔放な創造を生かしている。大胆な妄想の内にリアリティを担保している。

リアルとフィクションとを繋ぐ仕掛けとして古くから採用されてきた形式に額縁小説などと呼ばれるものがある。たとえば、もっともらしい語り手や書物を登場させ、本筋となる物語をその中で語るという入れ子構造を持った小説である。この作品も少々変質した額縁構造を持っている。筆者が3冊の歴史書を元に語るという体裁になっているのである。

これによって、まるで筆者=現実の酒見賢一が、現存する歴史書を参考にしながら書いているというような、メタフィクショナルな仕掛けが機能する。無知なぼくなどは、うっかり本当の話かと思ってしまった。壮大な法螺ほど大袈裟に語るべきではない。なるほど、理屈である。これだけ堅実に、調子に乗らず大法螺を吹ける。稀有な才能である。

舞台は表題の通り後宮である。江戸時代風にいえば大奥ということになろうか。大陸に材を採っているせいだろう、矢鱈スケールが大きい。当代でかなり規模が縮小されたという設定にも関わらず、全国から何百という美女をかき集め、仮後宮なるところで半年もの教育を授ける。真面目腐った顔で、房事、つまりセックスについて教えるのである。

その学長的立場にいる角先生という人がとてもいい。頭でっかちここに極まれりという文人で、房事を哲学にしてしまっている。一方で、一番弟子の美青年が生々しい実技を担当するという構図は、大真面目に語られるだけに滑稽である。角先生の哲学とシンクロするように、後宮自体が子宮に見立てられているのも完成された様式美といえる。

そんな後宮に辺鄙な田舎からやってきた銀河という少女が本書の主人公である。権勢欲旺盛な宦官によって選ばれた銀河は、その天真爛漫で率直な性向が幸いして、半年の教育期間の後いまだ初潮も迎えぬまま正室となる。これだけ聞くと、なにやらシンデレラストーリーのようだけれど、これはそういう話ではまったくない。

権謀術数渦巻く中、王宮の外で実に行き当たりばったりな反乱が起こる。この乱の進行と銀河の後宮生活が平行して語られ、終盤ついにふたつのストーリーが合い和する。なんと、銀河は後宮軍ともいうべき即席の軍隊を組織し、反乱軍との抗戦に乗り出すのである。宮廷内の軽重火器を後宮に運び込み、宮女、宦官らがこれをぶっ放す。

無茶苦茶である。

しかもこの戦、内実は双方共にかなり間が抜けている。歴史などはつまらぬ偶然の集積に過ぎないとでもいうように、著者は揶揄するような注釈を実に無遠慮に挿入する。決して誰かに肩入れするということがない。これがやがて不思議な哀しみに繋がり、そうであればこそ、このトンデモナイ法螺話の結末に無類の爽快感を与えている。

これだけの世界を中国王朝的なガジェットを借りながらとはいえ、ここまで平易簡潔に語り、しかも、壮大な広がりを感じさせる手腕はみごとというよりない。それほど多くを語られていないキャラクターまでが、個性的な魅力と実在感とをもち、活き活きと眼前に立ち現れてくる。それほど長い話ではないにも関わらず、大長篇を読んだ充実感がある。

これは『陋巷に在り』(全13巻)も読まねばという気になった。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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