伊坂幸太郎『グラスホッパー』(角川文庫)

伊坂幸太郎『グラスホッパー』(角川文庫)伊坂幸太郎『グラスホッパー』を読んだ。

アンモラルだな、というのが第一印象である。インモラルではなくアンモラル。不道徳ではなく無道徳といった雰囲気。殺し屋対殺し屋対殺し屋というベースに犯罪組織と悪徳政治家が絡んで、そこに犯罪被害者たる一般人が首を突っ込んでさあ大変。これで道徳的だったりしたらその方が怪訝しい。正義の出る幕などないのである。

メインキャストの殺し屋たちには、一般的な道徳観念など端からないように見える。道徳に反するという意識が最初から希薄なのである。もちろん殺し屋だから仕事で殺す。よって悪意など介入する余地はない。だから彼らは悪人に見えない。きっと見ていて不快なのは殺人なんて行為よりも、害意の裏に潜む人間の薄汚い心性の方なのだろう。

特にアンモラルを体現しているのが蝉というナイフ使いの殺し屋である。女子供も皆殺しなんて不人気な仕事も躊躇なくこなす。どう考えても非道である。彼は名前の通り大変に姦しい。良く喋る。どうも賢くはない。その辺に転がっていそうなただの軽薄な若者に見える。ただ、身体能力が異常に高い。感覚も鋭敏だ。だから殺しなどやっている。

相手が強かったり状況が過酷だったりすると闘志を燃やす。いかにも健全だ。どうにもスポーツみたいな感覚である。たとえば、自分より弱い人間を嬲り殺して悦ぶような、そんな陰湿さとは無縁である。そして、彼なりの向上心や克己心も持っている。仕事内容さえ度外視すればむしろ好もしいキャラクターだろう。ここが味噌である。

つまり、殺す相手も悪いやつだから許せるとかそういう次元の問題ではない。

それは相手を自殺させる殺し屋、鯨にしても同じことだ。彼のターゲットの多くは権力者を生かすためのスケープゴートである。どう贔屓目に見ても気分の悪い仕事に違いない。彼は過去に殺した被害者たちの幻影に悩まされる。幻と現実の境が徐々に曖昧になっていくのである。そして、寡黙な鯨の愛読書は『罪と罰』だったりする。

3人の殺し屋の内、一番謎なのが槿である。物語は基本的に3つの視点で進むのだけれど、槿だけが視点人物にならない。一般人鈴木の視点で語られ、唯一内面を語らない殺し屋なのである。しかも、作中でハッキリしている殺しは、作中一、二を争う極悪人が相手のため、ある種ヒーロー的でさえある。彼だけは寄って立つ地平が違っている。

こんなアンモラルなキャラクターたちが魅力的に思えるのは、これまで通りの伊坂節がこれまでにない文体にうまく乗っかっているせいだろう。著者の作品にしては珍しく、地の文にそのまま視点人物のモノローグが挿入され、物語の展開に対してキャラクターたちの内面がダイレクトに伝わってくる。コレが実にストイックで心地好い。

そして、実は他者との対話が彼らの原動力になっている。これが面白い。鈴木は亡き妻、鯨はホームレスの似非カウンセラー、蝉はエージェントの岩西と彼が好んで引用するジャック・クリスピンのお言葉。コミュニケーションは決して放棄されない。だからこの作品は殺伐としてしまわないのだし、彼らは愛すべきキャラクターたり得るのだろう。

槿を巡る謎の顛末は十分に面白いし、哀しい気持ちになっているところにラスト近くで愛すべき兄弟が一緒に現れるなど心憎い演出もある。槿が鈴木に気を許すきっかけがブライアン・ジョーンズというのも好きな人にはたまらない演出だろうし、何より全篇を通して殺された鈴木の妻の面影がイキイキと読み取れるところが素晴らしい。

手放しで喜べないのに何故か清々しい、この不思議な読後感。

これだけ個性的な作風なのにマンネリにならないのだから凄い。

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