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2007年05月30日

舞城王太郎『みんな元気。』(新潮文庫)

舞城王太郎『みんな元気。』(新潮文庫)舞城王太郎『みんな元気。』を読んだ。

短篇集である。全5篇が収録されていたはずの単行本が、文庫化されて全3篇になっている。首を捻りながら調べてみると、残り2篇に書下ろしを加えた『スクールアタック・シンドローム』が追って発売されるらしい。分冊にするほど厚い本ではないけれど、奔放なパワーが迸りすぎている舞城節のこと、3篇ずつくらいがちょうどいいかもしれない。

お得意の家族愛をベースにした表題作がメインである。他の2篇はえらく短くて、主張らしきものは強烈に感じるものの、それが何なのかが分かるほどにまとまった話ではない。一方、表題作の方は設定こそ頓狂ではあるものの、展開についていけないほどではなく、圧倒的な饒舌体を毛嫌いさえしなければかなり気持ちよく読めると思う。

純文学が著者に色気を出しているのか、著者が純文学に色気を出しているのかは分からないけれど、いかにもエンターテイメントに配慮した、よくできた構成みたいなものが希薄になっていることは感じる。分かりやすさや整合性といった頚木を取り払って、筆が走るに任せているような印象が確かにある。この作品辺りがボーダーラインだろう。

時制や空間や登場人物たちの関係性にこれ以上の自由を導入してしまっては、多くの人が読めなくなってしまう。それはちょっともったいない。表題作以外の2篇「Dead for Good」や「矢を止める五羽の梔鳥」くらいまでいくと正直読み難い。妄想力は存分に発揮して欲しいところだけれど、構成や展開には表題作程度には気を遣ってもらいたい。

その表題作にしても、筋は相当に飛躍している。

何しろ、空飛ぶ家族が突然家にやってきて4人姉弟の末娘を連れて行くのである。でもって、代わりに男の子をひとり置いていく。そんなあまりに空想的な話の中で、家庭の日常や、家族のひとりを失ったことによる家庭の変容、各人の内面なんかはいやにリアリティを持って語られている。整理されないままの生の主張がぼろぼろと零れ出てくる。

一緒にいるから家族なのか、たとえ一緒にいなくても家族なのか、血が繋がっていないと家族ではないのか、血さえ繋がっていれば家族なのか。そんな普遍的な問いを含みつつ、選択するとはどういうことかという、極めてシビアな問題を容赦なくぶつけてくる。そのやり方は、あまりに暴力的かつ夢想的で、頭がぼーっと痺れたようになってくる。

この文体で、このイマジネーションの上に乗せて語られるからようやく読める。それくらいに大上段で、真っ当で、恥ずかしいくらいにポジティブな話である。同じテーマを正統のエンターテイメント系作家が掲げて書いたりしたら、きっと鼻で笑われるに違いない。これを堂々と出して読ませるところに舞城王太郎の凄さがある。

要するに洗練されていないわけだけれども、その生っぽさが今の著者の魅力なのである。読むというよりは感じる。そして、小説を否応なく愉しんでしまう。考えながら読むなんて悠長なことはしていられない。著者の読者を引き摺りまわす技術はあまりに非凡だ。極端な話が、内容なんて分からなくても目で追うだけで愉しめてしまう。

本作はそんな芸風の現時点での最も極端な例かもしれない。

2007年05月27日

伊坂幸太郎『チルドレン』(講談社文庫)

books070527.jpg伊坂幸太郎『チルドレン』を読んだ。

単行本出版時、直木賞候補になった作品だ。結局獲ったのは奥田英朗『空中ブランコ』と熊谷達也『邂逅の森』だった。以後、同賞の常連候補になるも、いまだ受賞はしていない。ちなみに、本屋大賞では5位という微妙な位置にランクインしていた。傾向からいうと大賞でもおかしくなかったように思う。同年の大賞は恩田陸『夜のピクニック』だった。

斯様に賞レースでは次点に甘んじる傾向にあるようだけれど、読んでみると思ったよりずっとよくできている。多少いい話すぎる嫌いはあるものの、ミステリ的な趣向も効いていて一気に読まされる。作者曰く短篇のふりをした長篇なのだそうだけれど、その巧妙さはまさに筋金入り。バラで読むより、収録順に続けて読んだ方が何倍も面白い。

特に、時系列の並び替えは相当に意図的で、収録順に続けて読むと最大の効果を得られるように配置されている。その意味では確かに長篇の章立てに近い感覚といえる。思えば大上段の推理モノを書く作家ではないけれど、いつもこうしたミステリ風の仕掛けがモノをいう作風だ。この辺りが映像化作品の評判が悪い原因のひとつかもしれない。

だいたい、この人の小説の魅力は、大部分をその文章表現に負っている。もちろん、ストーリーもテーマもキャラクターも見るべきところはたくさんあるわけだけれど、ストーリー性だとか、問題意識だとかいうものだけを抽出して愉しめるタイプの作家ではない。映像化作品がまるで別物になるのはあまりにも当然だ。何しろ文体は絵にならない。

この小説は他の伊坂作品に比べると、意外なくらいに状況がノーマルだ。あり得ないものや際立って不思議な人が出てこない。そうしたファンタジーに頼らなくとも、伊坂節はいささかも衰えないことを証明している。また、語りにほとんど陰がない。元来それほど暗部に寄った作家ではないけれど、これは特にポジティブな作品になっている。

連作を通して強烈な印象を残す陣内という男が出てくる。彼が人間の面倒なところをほとんど一言の元に粉砕してしまうのである。その言動が作品の色を決めているといってもいい。彼は世間やら他人やらといった曖昧なものに阿るということを知らない。行動原理はすべて自分の中にある。だから一見、身勝手で傍迷惑だけれど、否定することは難しい。

物語中の、彼の唯一の屈託は父である。

これはこの連作を長篇と見たときの経糸といえる。表題作とその姉妹篇たる「チルドレンII」は家裁調査官の話で、陣内は視点人物となる武藤の先輩として登場する。そこでは、屈託を乗り越えた後の陣内の姿が描かれる。この2篇を挟むように配された3篇の学生時代のパートこそが、この家裁篇2作に揺るぎない説得力を与えている。

最初の1篇「バンク」で、陣内はスコブル奇矯な大学生として登場する。銀行強盗に遭遇して犯人に楯突き倒した上、何故かビートルズを歌い出したりする。続く表題作ではいきなり家裁調査官になっていて、どうやら相変わらず無茶をしているらしいことが分かる。何しろ、囲まれている苛められっ子を自ら殴りつけた、なんて挿話が語られるのだ。

3篇目の「レトリーバー」では、彼の行動原理に学生時分から一貫してあった、公正でフラットな物の見方が垣間見える。この辺りで、陣内の評価はプラスに転じ始めるはずだ。それから、満を持して「チルドレンII」で奇行の裏にある彼なりの思いやりが、少々あざといやり方で明示される。冷静にこれだけを読むと青臭い話に思えなくもない。

そして、最終篇となる「イン」で、やり方としては実にありふれた、それでいて陣内なればこそ納得できるという絶妙のシチュエーションで、彼の屈託は処理され、物語は閉じる。全体を通して、構成、語りともに端正というほかない。それぞれを短篇として読むことは可能だけれど、長篇として読むことで1篇の厚みが何倍にもなる。巧い。本当に巧い。

著者のこれ以前の作品中では、かなり良いできなんじゃないかと思う。

2007年05月26日

本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(講談社文庫)

本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(講談社文庫)本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』を読んだ。

この救いのなさはいい。

いや、リセットされて終わるという意味では、それこそが救いなのかもしれない。いずれ、これは愛についての話などではない。というよりも、この物語に何故このタイトルがつけられたのかが、ぼくにはよく分からない。奇を衒ってしまったのではないかとさえ思う。ただ、コピーとしてインパクトはある。売れる書名ではあるかもしれない。

著者はそもそも演劇の人である。この話も元はといえば劇作である。だからかどうかは分からないけれど、純粋に文筆家としてみるならまだまだ荒削りで、手放しに褒められるような文章ではないと思う。けれども、だ。洗練されていないことは、必ずしも作品を無価値にするわけではない。何より暗くも蠱惑的なエネルギーをビリビリと感じる。

正直にいえば、読み始めの印象は決して良くなかった。表現が背伸びした素人のようで、どうにもあざとく感じられたせいである。とにかく筆が走りすぎる。抑制が効いていない。しかも、ライトノベルのような安っぽい表現までが援用されている。たとえば「終わる。」という文の繰り返しでびっしりとページを埋めてみたりするのである。

この手の表現がすべてイケナイとは思わないけれど、どうしたって楽をしているように思えてしまう。そうした視覚効果が、噴出する情念や不安や胸中を渦巻くドロドロとしたものを手軽に表現できることは確かだろう。ただ、手軽だということは、表現としても軽いと思うべきだ。お陰で萌え要素のないライトノベルのように見えてしまう。

勿体無い。ずいぶんと損をしていると思う。

けれども、それにもかかわらず惹き付けられる。過剰なまでの負の情念がリタイアを許さない。特に、鍵となる17歳の少女、清深にフォーカスが合ってくるほどに、物語は俄然面白くなってくる。彼女が登場するたびに厭な予感が膨らんでいく。そして、それはおよそ期待を裏切らない。この清深のキャラクターこそがこの本の価値といってもいい。

清深の他には、姉の澄伽、異母兄の宍道、その妻待子の3人が主要な登場人物ということになる。舞台は閉塞感に満ちた田舎の村。絵に描いたような僻村である。そして、物語は清深の両親の死によって幕を開ける。葬式のため、上京していた姉が帰ってくる。ここから、家族の隠された暗部がずるずると引き出されてくる。そういう趣向である。

姉は美貌とプライドだけで生きているような究極の勘違い女だし、どうやら新婚早々セックスレスらしい兄夫婦は円満とは程遠い雰囲気である。その兄嫁はといえば、施設育ちの孤児でやることなすこと的を外している。端的にいうなら愚鈍である。その癖、無駄にポジティブでもある。話は一見、身勝手な澄伽に振り回されるような形で進む。

ところが、終盤に差し掛かるにつれ、怪訝しな具合になってくる。この辺りの匙加減は絶妙だ。そして厭な予感は当たる。卓袱台は反される。絶望がぽっかりと口を開け、彼女たちを待っている。あのラストを明るく捉えるか、暗く捉えるかは意見が分かれるところかもしれない。澄伽はリセットに成功したのだと読めばハッピーエンドだろう。

ただ、清深の業はどうしようもなく深い。きっとこの業のありようこそが、この作品を今の小説たらしめているのだと思う。つまり、澄伽などは多少奇矯なばかりの狂言回しに過ぎず、この清深こそが真の主役なのではないか。そう思えば、これは極めて救いのない話だということになる。その怖さは一筋縄でいかない。

自分の心を見詰められなくなる。そういう種類の怖さだ。

ちなみに、7月7日には映画が公開されるようだ。


【関連リンク】
映画“腑抜けども、悲しみの愛を見せろ”
演劇DVD“腑抜けども、悲しみの愛を見せろ”

2007年05月19日

半村良『戸隠伝説』(河出文庫)

半村良『戸隠伝説』(河出文庫)半村良『戸隠伝説』を読んだ。

『戸隠伝説殺人事件』ではない。ミステリではなく伝奇SFである。さすがはジャンル開拓者自らの作だけあって、大風呂敷の広げ方が並みではない。広げすぎて、ほとんど序盤戦だけで話が終わってしまっている。この食い足りなさが、この心のもやもやが、この癒されることのない渇望が、たまらなくいい。読後までイマジネーションを刺激する。

河出書房新社が近頃にわかに半村良を推しているらしい。先月辺りに出たKAWADE夢ムック『半村良 SF伝奇ロマンそして…』に続いて、今月はこの戸隠が、来月には『英雄伝説』が出る。こうして入手困難だった著作が手軽に買えるようになるのは、ぼくのような遅れてきた読者には大変にあり難い。その内に文庫で全集でもでないかとさえ思う。

それはともかく、戸隠である。いわずと知れた岩戸伝説の舞台である。長野の観光資源としてどの程度地域活性に寄与しているのかは不明だけれど、伝説のジャパニーズ・ストリッパー天鈿女命を擁する火之御子社など、男子たるもの一度は参拝しておくべきだろう。ちなみに、天照大神を頂点とする神々は、本作では敵ということになっている。

さあ、もういきなり突拍子もない話になってしまった。これではファンタジーか何かと誤解されかねない。話を戻そう。作品の舞台はあくまでも現代の日本である。著者を思わせる作家、水戸宗衛とその周辺の描写などは、かなり現実に即した内容になっているようだ。リアルである。トンデモ世界への入り口はリアルであればあるほどいい。

水戸宗衛は作中で『戸隠伝説』なる小説を発表している。言及される連載時期などは、当時、実際にこの作品が連載された時期と同期している。ここで著者はメタフィクショナルな仕掛けを施しているのである。連載を読んでいる読者から見れば、この作品が単行本化される未来が、そこに描かれていることになるのである。面白い。

その本が発端となって、水戸のアシスタントをしている主人公に異変が起こり始める。あるはずのない記憶の覚醒、不思議な老人の出現、そして水戸の失踪を契機に、異変は異変ではなくなり世界は雪崩を打ったように反転していく。その導入に誰もが共感しやすい恋愛を置いた辺りにエンターテイメント作家としての著者の巧さが感じられる。

非日常へ引きずり込む手際の良さについのせられてしまう。

舞台が東京から戸隠へ移れば、もうそこは神話の世界である。神々の世界を神話の時代よりも以前にまで遡って見出す著者の発想力は凄まじい。天照大神、天八意思兼命、天手力雄命、天鈿女命といった『古事記』のキャラクターたちを弥生文化系の新しい神と規定し、それ以前の土着の神々として縄文文化系の神々を創造するのである。

アマテラス系の台頭によって名を奪われ、神の座を引き摺り下ろされた旧神たちが、俗界に追放されていた主人公の帰還を待って報復を開始する。主人公こそが旧神たちの頭目であり、蘇った記憶こそが追放以前の神代の記憶だったのである。俗界の記憶を持った主人公がその知恵を利用して戦う辺りは『戦国自衛隊』を髣髴させる構図である。

神々の戦闘描写がまた大変に絵的で、スペクタクルに富んでいる。

何しろ、主人公方の主兵力は遮光器土偶、敵方の主兵力は埴輪である。これが霊力によって生きた兵となる。さらに、それらは霊力を蓄えた武器を持ち、雷光をもって敵を攻撃する。レーザーガンを装備した人型戦闘ロボット、あるいは映画“CASSHERN”のツメロボ軍団みたいなものを想像してしまった。破天荒ここに極まれり。

正直にいえば、これは文庫1冊で収まるような話ではないと思う。たとえば、神々の世界にシフトしてからは、まったく俗界とリンクしないし説明もない。ヒ一族の巫女が出てくるのはファンとしては嬉しいところだけれど、思ったほど活躍の場は与えられない。主人公以外の旧神たちも、まだまだポテンシャルを使いきってはいない。

また、アマテラス勢全体から見れば、たかが1個師団に過ぎないタチカラオ軍との戦いだけで、この物語は終わっている。ボドル基幹艦隊との戦闘だけを語る“超時空要塞マクロス”みたいなもので、いくらでも続編がつくれそうな余裕のある設定といって良い。勿体無い。細部に踏み込むに十分なネタがいくらでもある。あまりに贅沢な一冊である。

せめてこの3倍くらいの分量で書いて欲しかったと心から思う。

2007年05月17日

茂木健一郎『脳と仮想』(新潮文庫)

茂木健一郎『脳と仮想』(新潮文庫)茂木健一郎『脳と仮想』を読んだ。

著者は近頃よくテレビやなんかに出ている脳科学者である。ぼく自身はあまり真面目に見たことがない。氏の名前を知ったのは、以前ソニーが作っていたQUALIAという製品シリーズがきっかけである。以来、頭の隅では気にしつつ、けれども著作に触れることはなかった。本書は小林秀雄賞を受賞した、いわゆる代表作である。文庫化を機に読んでみた。

論考集ということで、そこそこに堅い内容を予想していた。ところが、いざ蓋を開けてみるといやに文学的である。感触としては随想に近い。晦渋な表現や高度に専門的な語彙などはでてこない。時にクドイほど丁寧だから、宙ぶらりんな内容も自然と頭に入ってくる。ピタリと腑に落ちるような話ではないけれど、分かりやすい話だと思う。

この文学的というのが、恐らくはこの本の肝である。

著者の論考の最果ては科学的方法からの飛翔が前提となる。科学が扱いあぐねている「意識」の問題が彼の研究対象である以上、これは必然といっていい。科学はある「意識」が生成されるときの脳の状態を記述することはできても、「意識」そのものを記述することはできない。著者の興味は「意識」そのものに向いている。

そこで踏み台となるのがクオリアである。クオリアというのは、簡単にいえば五感を刺激されたときに感じる何かである。薔薇を見て「赤い」と感じる。その「赤さ」の感じこそがクオリアである。科学は「赤」を、たとえば、波長が約700nmの光だと記述することはできる。けれどもそれは「赤」の性質の一部であって「赤」そのものではない。

人は赤さを感じ、冷たさを感じ、痛みを感じることがきる。科学はそれが摂氏何度で、それに触れた肌がどう反応し、どんな神経伝達物質が分泌され、どうやって脳に伝わり、脳がどんな化学的反応を起こすのかを解き明かしてくれるかもしれない。けれども、やっぱりクオリアそのものを従来的な科学の方法で扱うことはできないのである。

これはつまり、心脳問題である。作中でも引かれているデカルトより現在に到るまで、連綿と続く心身問題の系譜にがっちりと連なっている。それは第1章の「小林秀雄と心脳問題」で早々に明らかになる。はじめから、相当に哲学寄りの人だったのである。なるほど、だから小林秀雄賞なわけである。これは科学の本ではまったくない。

といって心脳問題の入門篇を期待して読む本でも全然ない。ブルーバックス的なものを期待しては、きっとガッカリすることになる。著者が仮想と呼ぶ脳内現象を軸とした考察自体は、たとえば養老孟司の『唯脳論』から半歩ほど進んだ程度の印象しかない。ぼくの読みが表面的な可能性は大いにあるけれど、いずれそう斬新なものではないだろう。

科学者である著者が仕掛けるのは、だから、それ自身クオリアに満ちた論考という、すこぶる意外性の高い表現である。確かに表現そのものはまだ十分にはこなれていない部分もあるけれど、その目指すところはなかなかに新しい。論証もなければ結論もない。もっというなら仮説らしい仮説すらない。ただしロマンティシズムなら豊富にある。

そこにこの著者の突き抜けたオリジナリティがある。

何より小林秀雄のCDを聞きたくなる一冊である。

2007年05月15日

上甲宣之『そのケータイはXXで』(宝島社文庫)

上甲宣之『そのケータイはXXで』(宝島社文庫)上甲宣之『そのケータイはXXで』を読んだ。

やっぱり下手だ。それはそうである。何しろ、ぼくは前に2作目の『地獄のババぬき』を読んでいる。それはもう不細工な文章だった。そして、今回読んだのは同著者のデビュー作なのである。2作目より巧いはずがない。要するに下手なのは予定通り、分かっていて読んだのである。天邪鬼で選んだわけではない。面白いだろうと思ったから読んだ。

下手でも面白いということはある。

実をいうとぼくは山田悠介を1作だけ読んで捨てた人間だ。プロとは思えない文章や納得できない描写がてんこ盛りで、これが売れるのかなどと偉そうに思っていた。ところが、上甲宣之を読んで認識を改めた。下手でもいい。面白ければ。たぶん、山田悠介の場合は、たまたま作風が性に合わなかっただけのことだろう。

それにしても、無駄にエネルギッシュな作品である。そのエネルギーが、あらゆる瑕瑾を津波のように浚っていってしまう。畳み掛ける雑多なアイデアとスラップスティックなサスペンス描写が、考える暇もなく襲い掛かってくる。失笑の嵐がやがて本物の笑いと化す。今の時代だからこそ、そして宝島社だからこそ出せた本だろう。

登場人物たちの行動に無理があるとか、どう考えても自爆だろうとか、言動が明らかに不自然だとか、地の文が視点人物の知識に基いて書かれているのか、著者の声として書かれているのか微妙だとか、まるで「説明しよう」とナレーションでも入りそうな余計な解説が多すぎるとか、欠点を論うことにたいした意味はない。

むしろ、これだけ瑕を抱えながら面白いという事実に驚嘆すべきである。確かに心に響く作品ではない。因襲に縛られた僻村、怪しげな祝祭、陰惨な昔話など、横溝的ともいうべきジャパニーズゴシックな舞台を用意しながら、ケータイと奇矯なキャラクターで何もかもをぶち壊してしまう。ほとんどターミネーターのようなアクションまである。

心には残らずとも、一時を楽しむためのサービスなら過分にある。クライマックスに向かって誰も信用できなくなっていくサスペンスフルな展開に、叙述自体が謎をはらむ新本格系の手法、そこにホラー要素やらアクション要素までがこれでもかと投入されている。とにかく節操というものが欠片もない。これはそういう作品である。

ところでこの作品、どうやら映画化されるらしい。

監督はあの深作健太である。これは面白い。イメージはとても合っている。鹿爪らしい作品の似合わない監督である。故深作欣二の後を引き継いだ“バトル・ロワイアル II 鎮魂歌”といい、“スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ”といい、邦画豊作時代の今、これほどあからさまにB級臭を漂わせている監督も珍しい。だからこそ期待できる。

ホラー風サスペンスアクションだと思えば、まことに映像向きな作品である。『特攻の拓』の武丸もかくやという不死身の怪物女レイカなど、この上なくチープな特撮が映えそうなキャラクターである。いずれ、映像では原作の持つスラップスティックなノリは封印せざるを得ない。ミステリ的な表現もほとんど放棄することになるだろう。

つまり、エンタメの特盛を期待するなら、原作を読むにしくはない。

通勤通学のお供に最適の一冊だと思う。

2007年05月08日

志水辰夫『行きずりの街』(新潮文庫)

books070508.jpg志水辰夫『行きずりの街』を読んだ。

最近やたら平積みになっている。思わず手に取ってしまった。最近の作品ではない。「このミス」で1位になったのも16年も前の話だ。それが何故か今、俄かに脚光を浴びている。理由は分からない。書店では新聞に載った書評がPOPになっている。あのPOPは巧い。著者の本に惚れ、売りたいと思った誰かが仕掛けたのかもしれない。

もちろん、偶然生まれた潮流だという可能性もある。今ではインターネットを介してブームが伝播するなんてのは珍しい話ではない。ぼくもまたその流れにのっかったお陰で、こんなにも濃くてオヤジ臭くて、なのにとても面白い本に巡り会えたわけだから、ここは素直に感謝すべきだろう。ぼくにシミタツを教えてくれてありがとう。

そもそも冒険小説やハードボイルドといった類のジャンル小説が苦手だった。それはクールを気取る世の風潮に、ぼく自身が侵食されていたせいかもしれない。少し前なら「暑苦しい」といわれたであろう、こうした「熱い」作品が今また注目される。要するに、時代は巡るということなんだろう。まったく悪いことではない。

この物語は徹頭徹尾オヤジのロマンで満たされている。

高校教師が愛らしい女子生徒を見初め、卒業を待って結婚する。この設定だけでもう十分、お腹一杯である。なんと分かりやすい欲望の表出だろう。顰蹙を覚悟で書こう。この手のシチュエーションに萌えない男などそうはいない。自分よりもずっと若い女の子を自分色に染める。支配的な愛。それは馬鹿な男の尽きせぬ願望のひとつである。

もちろん、それで幸せに暮らしましたとさ、という訳にはいかない。ここが重要である。その後に平凡な生活などが続いては、すべてが台無しである。日常の訪れは夢の終わりを意味する。ここはひとつ、夢破れる前にふたりは引き裂かれねばならない。それも悲劇的な不可抗力によって。あるいは已むに已まれぬ苦渋の選択によって。

こうして、ありえたはずの幸福はより輝きを増し、欲望をエスカレートさせる。ロマンには是非とも有形無形の敵が必要なのである。物語はふたりが別れてより12年後に幕を開ける。40男の主人公は当然の如く元妻と再会する。立ち塞がる困難、すれ違う言葉、後悔、未練…種々雑多な負の要素が、すべて再燃する情熱のための焚付けとなる。

これぞ王道というものだろう。

男がなんとか再び女を手に入れようと言葉を尽くすとき、すべての言葉は虚空へと突き刺さり決して相手の心には届かない。互いに言葉を重ねれば重ねるほどに、溝はますます深まっていく。男はいつでも女に勝手な幻想を押し付け、期待する。女はそんな男の甘えたロマンに憤り、呆れる。依って立つ場所が違いすぎる。

けれども、言葉にならないところでは互いに何かを感じ取っている。ギリギリのところで心を寄り添わせたり、反発したりしている。それはあまりにもあやふやで、あまりにもいじらしい。そんな男らしくも情けない中年男と、まだ若いけれど多くを知ってしまった女とのコミュニケーションが、これでもかというくらい粘着質に描かれる。

もちろん、本筋には謎があり、サスペンスがある。離婚と同時に教職も追われた主人公は田舎で塾を開いている。その教え子のひとりが行方不明になる。少女の伯母に頼まれた主人公は、彼女の行方を追う内に、自分の過去にも関わる、あまりに救われない陰謀の影を踏むことになる。実に抜け目のない巧みなプロットである。

主人公の「私」と「公」、「今」と「昔」がすべて有機的に繋がっていく。一見できすぎているように見えて、無理な偶然に頼った展開なんかは思った以上に少ない。およそ「緻密」だとか「巧緻」だとかいう言葉とは無縁だろうなんて、勝手に決めてかかっていただけに、ここまで巧みな技を見せ付けられると平身低頭するよりない。

これ以上ないくらいに生々しいキャラクターたち、纏わり着くように絡み合う巧みなストーリー、時にストイック、時にリリカルなロマンティシズム溢れる文体。これだけバランスのとれた快作であれば、再評価の機運が高まるのも当然だろう。これはあくまでも夢物語である。けれども、グッと心と腹に響く夢物語である。

オヤジのロマンがいかに成就するか。

予定調和がこれほどに心地好いものだとは思わなかった。

2007年05月05日

古処誠二『ルール』(集英社文庫)

古処誠二『ルール』(集英社文庫)古処誠二『ルール』を読んだ。

ここ数年、戦争モノがやたら目に付く。映画、テレビ、小説と、メディアを問わず話題作が多いように思う。もちろん、すべてに目を通しているわけでははないけれど、なんとなく感じるのは、ずいぶんと今の時代を反映した作品が多いな、ということである。理由は簡単で、そもそも作り手が若い。

戦争映画ひとつとっても、昔は若者が喜んで観るようなものではなかったように思う。それが、最近は明らかに若い世代をもターゲットにしたような話が増えている。たとえば友情や家族愛や恋愛など、あくまでも個人の感情がフィーチャーされ、天下国家は二の次といった印象が強い。戦争は単なる舞台であり、テーマではない。

古処誠二という人もまた若い。

1970年生まれというから、限定的な意味での戦後すら知らない世代の作家である。ところが、この著者の戦争小説は、先に書いたようなイマドキの戦争物語とは明らかに一線を画している。愛だの恋だのといった普遍的な感情は描かれない。とにかく重い。それは誠実といい換えてもいい。おそらくは戦争を知らないからこその誠実である。

たとえば、愛する人を守るために自分は死ぬんだという戦争物語がある。そういう気持ちが嘘だったとは思わない。お国のためにというのもその対象が変わっただけで、行動原理としては似たようなものだろう。この本でも、そうした心情が吐露されるシーンはある。けれども、そんな人間的な感情はすぐに過去のものとなってしまう。

何しろ、彼らはすでに自覚している。自分たちの死闘は、国の勝利にも本土の家族を守ることにも一切奉仕しない。その死はすべて犬死である。自分たちが命を賭して戦っている間に、硫黄島も沖縄も米軍によって蹂躙されてしまった。下命される任務は明らかな矛盾、不条理を孕み、それでも逆らうことは許されない。

まさに八方ふさがりというよりない。

先の大戦を直に知る人がこの小説をどう読むのかは分からない。何も解かっていないと憤るのかもしれないし、そんなものじゃないと呆れるのかもしれない。けれども、戦争を知らないぼくにとっては、その絶望と壮絶さにおいて、これ以上に生々しく心に響く戦争小説はこれまでになかった。その意味で実にリアルである。

実体験というのは、体験者にとっては絶対のものかもしれない。けれども、それを伝え聞く者にとっては所詮他人の物語でしかない。それが個人の物語でしかない証拠に、戦争は戦争体験者の数だけ存在する。ならば、戦争を知らない者が想像によって紡ぎ出す物語と体験者が語る物語の間に本質的な差はない。あるのは力量の差だけである。

この作品で執拗に描かれるのは、極限状態の飢餓である。

舞台は第二次世界大戦末期のルソン島。誰もが敗戦を自覚しながら投降することも許されず、ただ軍令により過酷な輸送任務を負わされた兵士たち。手持ちの食料はあまりに少なく、端から行軍中の調達を前提とした任務である。けれども、道々の集落は悉く廃村と化し、食料などはすでに食い尽くされている。

むろん密林にまともな食い物など期待できるはずもなく、兵士たちはただただ衰弱していくばかりである。過酷な自然、空腹もまともに感じられないほどの飢餓が彼らを追い詰める。慢性的な滋養不足は、戦傷を悪化させ、マラリアを蔓延させる。その上にゲリラの奇襲までが重なり、隊は徐々にその人員を減らしていく。

飢餓が生む苦痛、狂気の描写は、淡々としながらも凄まじい。雑草を炊き、虫を食う。生きた人間でも傷口は爛れ、腐り、あっという間に蛆が湧く。ジャングルに動物の幻影を見てはボロボロの体からは考えられない力で駆け出す。自らの血を吸った蛭をクチャクチャと食らう。しまいには、腐肉に湧いた蛆が白米に見える。

そんな中で、人が正気を保つことは難しい。

飢餓が突きつける究極の命題は食人だ。飢えに負けた餓鬼の目には、同胞すら獲物にしか見えない。ただ目の前の餌のために、干乾びた体で幽鬼のように彷徨っていた敗残兵たちが色めき立つ。その姿は無惨を通り越して奇怪でさえある。同じ人間の姿とは思えない。けれども、彼らは決して特別な存在ではないのである。

鳴神は囮として使い捨てられた死兵の生き残りである。部下を皆殺しにされ、再度小隊を任されたとき、彼の生きる目的はただ部下を生かすことにのみ先鋭化されていく。最後にはただひとりの部下を生かすためだけに瀕死の体を動かし、朦朧とする意識の中で思考し続ける。その生き様は感動的などという浮ついた感想を許さない。

姫山は頑健な体と精神力を持ったヤクザあがりの兵士である。その行動力と独特のユーモアで仲間たちを助け、皆が前進するための原動力であり続ける。彼もまた、思い定めている。その決意が彼を一層強靭にする。鳴神とは180度違ったベクトルでその生を使い込んでいく。それはあまりに壮絶で哀しい決意である。

彼らの思いを一身に受けることになるのが、八木沢という若い初年兵である。彼は同胞らが共食いを演じるという突き抜けた現実を前に、若者らしい潔癖をもって死を覚悟する。身をもって信じ難い地獄を味わい傷付いた肉体は、自らの力だけでは生き続けられないほどに衰弱していく。頭髪は抜け落ち、肩には蛆を飼っている。

彼らは時代に翻弄されながらもそれぞれに自覚的に自らの道を歩んでいく。そんな人間の尊厳を賭けた生のありようが、情に流されないストイックな文体で活写される。確かにこの物語は暇潰しに楽しむには向かないかもしれない。軽い気持ちでページを開くには痛すぎる。けれども、決して読み難い本ではない。

そして、読む価値のある本でもある。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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