本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(講談社文庫)

本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(講談社文庫)本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』を読んだ。

この救いのなさはいい。

いや、リセットされて終わるという意味では、それこそが救いなのかもしれない。いずれ、これは愛についての話などではない。というよりも、この物語に何故このタイトルがつけられたのかが、ぼくにはよく分からない。奇を衒ってしまったのではないかとさえ思う。ただ、コピーとしてインパクトはある。売れる書名ではあるかもしれない。

著者はそもそも演劇の人である。この話も元はといえば劇作である。だからかどうかは分からないけれど、純粋に文筆家としてみるならまだまだ荒削りで、手放しに褒められるような文章ではないと思う。けれども、だ。洗練されていないことは、必ずしも作品を無価値にするわけではない。何より暗くも蠱惑的なエネルギーをビリビリと感じる。

正直にいえば、読み始めの印象は決して良くなかった。表現が背伸びした素人のようで、どうにもあざとく感じられたせいである。とにかく筆が走りすぎる。抑制が効いていない。しかも、ライトノベルのような安っぽい表現までが援用されている。たとえば「終わる。」という文の繰り返しでびっしりとページを埋めてみたりするのである。

この手の表現がすべてイケナイとは思わないけれど、どうしたって楽をしているように思えてしまう。そうした視覚効果が、噴出する情念や不安や胸中を渦巻くドロドロとしたものを手軽に表現できることは確かだろう。ただ、手軽だということは、表現としても軽いと思うべきだ。お陰で萌え要素のないライトノベルのように見えてしまう。

勿体無い。ずいぶんと損をしていると思う。

けれども、それにもかかわらず惹き付けられる。過剰なまでの負の情念がリタイアを許さない。特に、鍵となる17歳の少女、清深にフォーカスが合ってくるほどに、物語は俄然面白くなってくる。彼女が登場するたびに厭な予感が膨らんでいく。そして、それはおよそ期待を裏切らない。この清深のキャラクターこそがこの本の価値といってもいい。

清深の他には、姉の澄伽、異母兄の宍道、その妻待子の3人が主要な登場人物ということになる。舞台は閉塞感に満ちた田舎の村。絵に描いたような僻村である。そして、物語は清深の両親の死によって幕を開ける。葬式のため、上京していた姉が帰ってくる。ここから、家族の隠された暗部がずるずると引き出されてくる。そういう趣向である。

姉は美貌とプライドだけで生きているような究極の勘違い女だし、どうやら新婚早々セックスレスらしい兄夫婦は円満とは程遠い雰囲気である。その兄嫁はといえば、施設育ちの孤児でやることなすこと的を外している。端的にいうなら愚鈍である。その癖、無駄にポジティブでもある。話は一見、身勝手な澄伽に振り回されるような形で進む。

ところが、終盤に差し掛かるにつれ、怪訝しな具合になってくる。この辺りの匙加減は絶妙だ。そして厭な予感は当たる。卓袱台は反される。絶望がぽっかりと口を開け、彼女たちを待っている。あのラストを明るく捉えるか、暗く捉えるかは意見が分かれるところかもしれない。澄伽はリセットに成功したのだと読めばハッピーエンドだろう。

ただ、清深の業はどうしようもなく深い。きっとこの業のありようこそが、この作品を今の小説たらしめているのだと思う。つまり、澄伽などは多少奇矯なばかりの狂言回しに過ぎず、この清深こそが真の主役なのではないか。そう思えば、これは極めて救いのない話だということになる。その怖さは一筋縄でいかない。

自分の心を見詰められなくなる。そういう種類の怖さだ。

ちなみに、7月7日には映画が公開されるようだ。


【関連リンク】
映画“腑抜けども、悲しみの愛を見せろ”
演劇DVD“腑抜けども、悲しみの愛を見せろ”

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