茂木健一郎『脳と仮想』(新潮文庫)

茂木健一郎『脳と仮想』(新潮文庫)茂木健一郎『脳と仮想』を読んだ。

著者は近頃よくテレビやなんかに出ている脳科学者である。ぼく自身はあまり真面目に見たことがない。氏の名前を知ったのは、以前ソニーが作っていたQUALIAという製品シリーズがきっかけである。以来、頭の隅では気にしつつ、けれども著作に触れることはなかった。本書は小林秀雄賞を受賞した、いわゆる代表作である。文庫化を機に読んでみた。

論考集ということで、そこそこに堅い内容を予想していた。ところが、いざ蓋を開けてみるといやに文学的である。感触としては随想に近い。晦渋な表現や高度に専門的な語彙などはでてこない。時にクドイほど丁寧だから、宙ぶらりんな内容も自然と頭に入ってくる。ピタリと腑に落ちるような話ではないけれど、分かりやすい話だと思う。

この文学的というのが、恐らくはこの本の肝である。

著者の論考の最果ては科学的方法からの飛翔が前提となる。科学が扱いあぐねている「意識」の問題が彼の研究対象である以上、これは必然といっていい。科学はある「意識」が生成されるときの脳の状態を記述することはできても、「意識」そのものを記述することはできない。著者の興味は「意識」そのものに向いている。

そこで踏み台となるのがクオリアである。クオリアというのは、簡単にいえば五感を刺激されたときに感じる何かである。薔薇を見て「赤い」と感じる。その「赤さ」の感じこそがクオリアである。科学は「赤」を、たとえば、波長が約700nmの光だと記述することはできる。けれどもそれは「赤」の性質の一部であって「赤」そのものではない。

人は赤さを感じ、冷たさを感じ、痛みを感じることがきる。科学はそれが摂氏何度で、それに触れた肌がどう反応し、どんな神経伝達物質が分泌され、どうやって脳に伝わり、脳がどんな化学的反応を起こすのかを解き明かしてくれるかもしれない。けれども、やっぱりクオリアそのものを従来的な科学の方法で扱うことはできないのである。

これはつまり、心脳問題である。作中でも引かれているデカルトより現在に到るまで、連綿と続く心身問題の系譜にがっちりと連なっている。それは第1章の「小林秀雄と心脳問題」で早々に明らかになる。はじめから、相当に哲学寄りの人だったのである。なるほど、だから小林秀雄賞なわけである。これは科学の本ではまったくない。

といって心脳問題の入門篇を期待して読む本でも全然ない。ブルーバックス的なものを期待しては、きっとガッカリすることになる。著者が仮想と呼ぶ脳内現象を軸とした考察自体は、たとえば養老孟司の『唯脳論』から半歩ほど進んだ程度の印象しかない。ぼくの読みが表面的な可能性は大いにあるけれど、いずれそう斬新なものではないだろう。

科学者である著者が仕掛けるのは、だから、それ自身クオリアに満ちた論考という、すこぶる意外性の高い表現である。確かに表現そのものはまだ十分にはこなれていない部分もあるけれど、その目指すところはなかなかに新しい。論証もなければ結論もない。もっというなら仮説らしい仮説すらない。ただしロマンティシズムなら豊富にある。

そこにこの著者の突き抜けたオリジナリティがある。

何より小林秀雄のCDを聞きたくなる一冊である。

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