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2007年02月28日

枡野浩一『ショートソング』(集英社文庫)

books070228.jpg枡野浩一『ショートソング』を読んだ。

ぼくはまったく知らなかったのだけれど、どうも短歌の世界ではかなり有名な人らしい。ということで、ショートソングというのは、いい加減すぎる短歌の英訳である。こんなタイトルからも著者の物腰の軽さが伺える。とにかくフットワークが軽い。言葉の選び方も、話の運び方も。

繰り出される言葉は、短歌も含めて一見酷く無造作だ。けれども、それは外見だけの話である。本当に無造作なだけでは、これほど心に引っかかる並びにはならない。ただありがちな青春物語になってしまう。そうならないところが著者の言葉の力だろう。その意味で、この本は正しく文藝している。

ハーフで美系のモテない大学生、国友克夫と、奔放な男の色気でモテまくる歌人、伊賀寛介。視点を交互に移しながら物語はふらふらと進む。少なくとも恋愛をモノサシにする限り、国友と伊賀の格差は歴然としている…かに見える。これが、そうともいえなくなってくる辺りが面白い。

国友は最初から素直だとか素朴だとかいう美徳に溢れた真に愛すべき人間である。普通に読んでいると、彼が実はイケメンだということを忘れてしまうほどだ。そのファンタジックなまでのピュアさはいっそ清々しい。ただ、彼に物語的な意外性はまるでない。ほとんど狂言回しのような存在である。

一方の伊賀は、物語の進行に合わせてくるくると印象を変えていく。最初はいけ好かない男だったはずが、次第に愛すべき男に見えてくる。国友が触媒となって、余計な皮が剥がれていく。そして最後には、ふたつの視点がどちらもピュアな精神の表裏であることに気付かされる。

要するに、国友の青春物語、もしくは成長物語のような顔をしているけれど、どちらかといえば、伊賀の物語だということだろう。ほとんど美男美女しか出てこないような非現実的な世界の中で、気付けば一番人間臭く、恰好良く、情けないキャラクターになっている。この辺りの運びは大変に巧い。

最後の章は、国友と伊賀の短歌で締め括られる。

それぞれの現在地が伝わってくる、面白くて解かりやすい歌だ。ここまで敢えて触れなかったけれど、この作中で引用される数々の短歌こそがこの著者の面目躍如たることはいうまでもない。短歌の作者はばらばらなのに、絶妙に配置され、挿入されることで、物語の一部として作品の屋台骨を支えている。

何よりもこの小説の特異な点は、率直に「今」を表現する手段として短歌がとても魅力的に描かれているところにある。だいたい、良い若いもんがこぞって五七五七七を捻り出している図というのは、それだけでなんとも可笑しい。可笑しいけれど、どこか羨ましくもある。

読んでいる内に詠みたくなってくる。

『あしたのジョー』でボクシングに目覚め、『キャプテン翼』でサッカーを始め、『スラムダンク』でバスケにのめりこむように、この『ショートソング』『かんたん短歌の作り方』で短歌に開眼するというのは大いにある話だろう。実際、すでに著者プロデュースでデビューを果たした歌人もいるようだ。

それでは最後に一首…といきたいところだけれど、まるで言葉が形にならない。

どうやらピュアな国友君と違って、ぼくに歌の才はないらしい。


【関連リンク】
枡野浩一公式サイト『ますので』
枡野浩一のかんたん短歌blog

2007年02月26日

渋井哲也『明日、自殺しませんか』(幻冬舎文庫)

渋井哲也『明日、自殺しませんか』(幻冬舎文庫)渋井哲也『明日、自殺しませんか 男女七人ネット心中』を読んだ。

書名はイマイチなれど、到って真面目なルポルタージュである。自殺とインターネットを軸に、取材サンプルは幅広い。その分散漫で食い足りない印象もあるけれど、過剰に物語化しない姿勢は好感が持てる。中でも、1章を割いたマリアの死の顛末は、さすがに読み応えがあった。

話題としては今更かもしれない。ネット心中という言葉自体、めっきり聞かなくなった。けれども、似たような事件がなくなったわけではない。2006年にもいわゆるVIPPER4人がワンボックスカーで練炭を燃やして死んでいるし、今年2月にも京都で男女4人が同様の手口で死んでいる。

もう、ネット界隈では車で練炭というのが自殺のスタンダードになっているのだろう。

本書中にも触れられているけれど、端緒は2003年2月に埼玉で発生した集団自殺である。このときは車ではなく、アパートで男女3人の死体が見付かっている。その周到な手口が話題となり、以降、ネットを通じた集団自殺が2003年内だけで12件、計30人が死亡している。

その後、警視庁で記録された数字だけでいえば、2004年に19件55人、2005年には34件で91人のネット系集団自殺が確認されている。驚くほどではないけれど、着実に増えている。要するに、マスコミが騒ぐのは目新しいからで、話題性がなくなればおとなしくなるということだろう。

こうした自殺が話題になるとインターネットの功罪をいう人がある。もちろん、まるで無関係だとはいわない。けれども、自殺系サイトや掲示板がまるで自殺者数を底上げしているかのような口ぶりには辟易する。年間3万分の何人がネットを契機にして死んでいるというのだろうか。

はたまた、その人たちはネットがなければ死ななかったなどといえるのだろうか。

年間の自殺者が目に見えて増えたのは1998年のことである。前年の24,391人から、いきなり32,863人に急増している。以来、目立った増加傾向はない。年齢でいえば40歳以上が7割以上を占め、男女比では圧倒的に男が死んでいる。

要は、経済苦、健康苦辺りの実際的な要因の方がはるかに深刻なのである。それを踏まえて、きっかけとしてのネット自殺を警戒するのは構わないけれど、不用意に騒ぎ立てて連鎖を呼ぶようでは本末転倒も甚だしい。ネットの功罪などは所詮胡乱な議論である。

第1章で語られるのは、まだそれなりに話題性のあった2004年10月の集団自殺事件である。男女合わせて7人というのはこの手の集団自殺事件としては最多でもあった。また、自殺者の中のひとりが、昔T-BOLANの森友嵐士と極秘結婚していたことでも局所的に話題になった。

著者はその彼女と知り合いで、事前に自殺の意思を知らされていた。死ぬ前に実際に会ってもいる。取材する側とされる側。そんな関係性が、互いのコミュニケーションにどんな影響を及ぼしたのか、ぼくには想像もつかない。ただ、止められなかった現実だけが淡々と語られている。

構成や表現が拙いせいで、伝わり難い面があることは否めない。それでも、著者の痛切なる悔恨の想い、如何ともしがたい慙愧の念は、センチメンタルに逃げない真摯な筆致からひしひしと伝わってくる。それはいっそナイーブといってもいい。

そのナイーブさは、本書に取り上げられたような「生きづらさ」を抱える人全般に通じる感性なのかもしれない。これを弱いと切り捨てるのは簡単だ。けれども、弱い者は死んでもいいという理屈はない。肩入れするくらいの庇護者も必要だろう。

ところで、マリアという人のプロファイルは、断片だけを拾い集めると驚くくらいにステレオタイプである。実父からの性的虐待、解離性同一性障害、鬱、自殺願望。どこかで聞いたような分かりやすい物語が見える。その意味では、旧タイプの「生きづらさ」の持ち主といえるだろう。

おそらくは一緒に死んだ7人の中でも異色だったのではないだろうか。

個人の資質や「生きづらさ」の要因の別に関わらず、インターネットがただ死に向かうという一点において人と人とを結びつける。その心性はどうにも量りがたい。思えばネット心中という言葉もそぐわない。集まった自殺志願者たちに精神的な繋がりなどはどこにもない。

ただ、目的だけが一致している。互いが互いの自殺のための道具なのである。おぞましいほどに虚しい。そんな最期を望まなければならない生とはどんなものだったんだろうか。情死でも無理心中でもない。集団ではあっても、内面的には完全に孤独な死である。

それにしても、読み終えてなお分からないことばかりだ。けれども、これは安直な一般化や物語化をせず、取材対象をそのまま個として扱う傾向が強いことの表れでもある。宮台の系譜らしき「生きづらさ」というラベリングの是非はおいても、ルポとしては到って誠実な態度だろう。

決して巧くはないけれど、色々と考えさせられる本だった。


【関連リンク】
著者のブログ“てっちゃん@jugem”

2007年02月25日

古野まほろ『天帝のはしたなき果実』(講談社ノベルス)

古野まほろ『天帝のはしたなき果実』(講談社ノベルス)古野まほろ『天帝のはしたなき果実』を読んだ。

この本については、どうも語るに困る。読んでいるときは面白がって読んでいたのだけれど、いざ読み終えてみると、いったい何がそんなに面白かったのかよく分からなくなってしまった。朝食を摂りながら、今朝見た夢を思い出そうとしているような感覚とでもいえばいいだろうか。

そういうわけだから、いかにも迂遠なことだけれど、まずは、ぼくがこの本に対して持っていた先入観の話からしてみようと思う。発端は裏表紙に付された有栖川有栖の推薦文だ。そこにこうあった。宇山日出臣からの最後の贈り物。それは、多少なりともミステリが好きなら、簡単には捨て置けない文句である。

日本の推理小説界には、三大奇書というのがある。

1935年に刊行された夢野久作『ドグラ・マグラ』、同年刊行の小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、そして、1964年の中井英夫(塔晶夫)『虚無への供物』の3作を指す言葉である。埴谷雄高がこれらをまとめて「黒い水脈」と称して以降、再評価されるとともに定着していったといわれている。

宇山日出臣という人は、この三大奇書の内の1冊『虚無への供物』に心底魅せられ、絶版になっていた彼の本を復刊するために講談社に入ったという強の者である。そして、彼は初志を貫徹し、講談社文庫から見事この本を復刊。その後は、新本格推理の仕掛け人として縦横の活躍をすることになる。

これだけならまだ、名編集者が最後に見出した新人という以上の意味はない。問題はその書名である。いわゆるアンチ・ミステリの系譜にうるさい探偵小説読みにとって、このタイトルは先達への無謀なる挑戦を意味する。何故なら、これは明らかな中井英夫に対するオマージュだからである。

中井英夫は自らの小説観をこう語った。

「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない」

出自はあまりに明白だ。この書名に宇山印が捺された以上、下手ないい訳でお茶を濁すような真似は金輪際許されない。ぼくは著者のこの蛮勇ともいうべき挑戦に、どこか羨望にも似た思いを抱いた。同時に、竹本健治『匣の中の失楽』以来のアンチ・ミステリの正嫡となることを期待した。

これがぼくが抱いていた強烈な先入観の概略である。

結論をいえば、ぼくの勝手な先入観は、そう大きくは裏切られなった。癖のある文体も、ルビを多用した表現も、物語上無意味なペダントリーも、過去の水脈を受け継ぎつつ、新しい感性にうまく翻訳されている。その上で、吹奏楽に関する描写などは、過去に例のない鮮烈な個性が炸裂している。

癖も個性も十二分などというと恐ろしく読み難い文章を想像するかもしれない。事実、読みやすい文章ではない。リズムに乗るまでに多少の慣れは必要だろう。それでも、癖が飲み込めれば拙い文章でもない。少なくとも『黒死館殺人事件』なんかよりはずっと読みやすいと思う。

物語の舞台は90年代初めの「日本帝国」。妙な設定だ。完全な虚構ではなく、大枠では現実界の歴史が継承されている一種の平行世界であるらしい。そんな唐突なSFテイストに読み始めは多少戸惑うかもしれない。けれども、最後まで読めば、このくらいの風呂敷は必要だと納得できる。

登場するキャラクターもふるっていて、みんながみんな、やたら外国語に強いし、脳味噌には無駄な知識を山のように蓄えている。個性はあるようで、みな似通ってもいる。表面的な親密さに比して、内面的な繋がりはどこまでも希薄だ。安易な共感を拒絶しているようにも見える。

どこか空疎な青春群像というのは、案外にリアルである。

個々の要素を挙げていけば、面白いところは沢山ある。その意味では豊穣な作品といって良い。にもかかわらず、何故か手放しに賞賛できない。つらつらと考えるに、全篇を通して見たときのバランスの悪さ、グルーブ感のなさが原因なんじゃないかと思う。繰る手を止められないような飢餓感が薄い。

特に第一の殺人以降の停滞感は著しい。実質的にラストに繋がらないという意味では、これは前フリですらないのかもしれない。普通の推理小説が読みたい人はラスト1/3ほどだけを一所懸命に読んで、前半は適当に飛ばしてもいいくらいだ。まあ、そんな人にはそもそも向かない作品だろう。

その「無駄」にパワフルな過剰性やグルーブが感じられればよかったのだろうけれど、どうにもイマイチ乗り切れないまま進んでしまう。活き活きと描かれる吹奏楽周辺に比して、それ以外の薀蓄に厚みがないせいかもしれない。衒学趣味の大伽藍とうには、些か迫力が不足している。

推理合戦以降の展開はもちろん、全篇にわたって仕込まれたディテールはすこぶる面白い。ラストの飛躍の仕方など好みは分かれるだろうけれど、最初から卓袱台返しを期待されていることを思えば十分に健闘している。これで前述のような予備知識なんかがなければ、結構衝撃の結末だと思う。

確かに瑕は少なくないけれど、極めて個性的で印象的な作品だった。


【Anazonリンク】
古野まほろ『天帝のはしたなき果実』(講談社ノベルス)
夢野久作『ドグラ・マグラ 〈上〉』(角川文庫)
夢野久作『ドグラ・マグラ 〈下〉』(角川文庫)
小栗虫太郎『日本探偵小説全集〈6〉小栗虫太郎集』(創元推理文庫)
中井英夫『虚無への供物〈上〉』(講談社文庫)
中井英夫『虚無への供物〈下〉』(講談社文庫)
映画“ドグラ・マグラ”

2007年02月23日

藤崎慎吾『レフト・アローン』(ハヤカワ文庫)

藤崎慎吾『レフト・アローン』(ハヤカワ文庫)藤崎慎吾『レフト・アローン』を読んだ。

ハードSFなんていわれると、元々あまりSFが得意じゃなかったぼくなどは少しばかり尻込みしてしまう。そもそもハードSFというのがどういうSFを指すのかもよく分からない。とにかく科学考証原理主義的なスタイルを連想する。テクニカルタームだらけでチンプンカンプン。そんなイメージだ。

この本についてもハードSFの傑作短篇集といった評があったりして、正直少し身構えていた。ところが蓋を開けてみると、収録の5篇はどれも読み易いし、一見硬質ながら、とてもセンシティブな情感に満ちている。同じSFといっても、それぞれにまったく違った趣向になっているのも楽しい。

素材はどれもあり得べき未来の人間たちの姿である。ロジカルな想像の先にあるのは、多分にファンタジックな世界だ。それが荒唐無稽に見えない。小難しい理屈で煙に巻くのではない。それほどテクニカルな言葉を多用していないにも関わらず、ちゃんとあり得そうな世界に仕上がっている。

この著者の本は初めて読んだ。だから、一部、他の長篇とリンクした作品についても、ただ独立した短篇として読んだ。それでも、食い足りない印象はまったくない。むしろ、短いストーリーの向こうに、広大なイマジネーションの地平が広がっているように感じた。性に合っていたのだろう。

収録された作品群にこれといった繋がりはない。ただ「知覚」に対する興味が強いような印象はある。例えば、感覚情報を機械的に変換したり、猫の視覚をコンピュータに転送したり、人工知能が人体に憑依したり、人間同士が共有意識で繋がっていたり、時空を越えた記憶を感得したりする。

知覚というのは、世界を感じる唯一の方法だ。

つまり、どんな知覚を持っているかが世界を規定し、ひいては自らの存在自体を規定することになる。地球人類に目という感覚器官がなかったら、ぼくたちの世界に月はなかっただろうし、宇宙に思いを馳せることも、空飛ぶ機械を作ることも、青い地球に感動することもなかっただろう。

世界は今とはまるで違っていたはずだ。

たとえば、著者がある環境に最適化された未来の知性体を描くとき、彼らは同時にその特質によって生き方を規定されている。人々はその現実にさしたる疑問も持たず「当たり前」を生きている。けれども、物語の登場人物たちはそこに世界の裂け目を見出す。「当たり前」の外側を発見する。

この短篇集の醍醐味は、たぶんその辺りにある。乱暴にいえば、新しい世界を手に入れる物語である。それは、どうしようもなく世界に規定されてしまった自己からの開放であったり、新しい知覚を得て拓く未知の世界への扉であったりする。けれども、そこには大きな代償がついてまわる。

孤独である。

ここに著者独特のセンチメンタリズムを感じる。もちろん、すべての収録作品が同じような感傷に彩られているという意味ではない。自由とともに孤独を得る物語もあれば、新しい繋がりを予感させる物語もある。大仰ではないけれど、じんわりと心に残る。そういう種類の話だ。

また折をみて読み返したい。そんな風に思える本だった。


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藤崎慎吾『レフト・アローン』(ハヤカワ文庫)
藤崎慎吾『クリスタルサイレンス〈上〉』(ハヤカワ文庫)
藤崎慎吾『クリスタルサイレンス〈下〉』(ハヤカワ文庫)
藤崎慎吾『ハイドゥナン (上)』(早川書房)
藤崎慎吾『ハイドゥナン (下)』(早川書房)

2007年02月15日

高田崇史『QED 河童伝説』(講談社ノベルス)

books070215.jpg高田崇史『QED 河童伝説』を読んだ。

シリーズ外伝となる前作『QED ventus 御霊将門』は固定ファン向けの、小説としては少々読み辛い1冊だった。そのせいで、今作が出たその日、つい買うのを躊躇ってしまったほどだ。けれども、外伝で判断してしまうのも早計だろうと、発売から少々遅れて手に取った。

これが、思った以上に読ませる。

ファンサービスたるマンネリズムもきっちり押さえながら、今回は固定ファンでなくとも十分に楽しめるだけの柱をしっかり持っている。河童伝説となってはいるけれど、これは要するに「鬼退治」の話である。ここに現在の事件がちゃんとリンクしている。

また、医院や薬局周辺の、部外者には見え難い業界の実情や、サラリーマン小説風に描かれる医薬品関係者たちの姿もなかなかに興味深い。シリーズキャラクターがやたら浮世離れしているだけに、こういう描き方もできるのかと意表を衝かれた。

企業の世代交代や派閥争いなど、その描かれ方自体は割とステレオタイプだ。けれども、気を抜いてはいけない。このステレオタイプにはちゃんと意味がある。そこに桑原崇が語る河童、あるいは鬼の歴史がオーバーラップしてくるのである。

権力とまつろわぬ人々という構図は、著者の作品の一貫したテーマである。タタラを軸とする論証の過程もいよいよお家芸の域といっていい。その構図の中に実に分かりやすい形で現在の事件が照射される。今回のポイントは公権力による「鬼退治」の手法である。

その手口は実に姑息だ。飢えた鬼に餌をちらつかせて寝返らせるのである。そして自らは決して手を汚さない。将門討伐をはじめ、その歴史的実例が随所で語られる。これを解かりやすく今に置き換えるとどうなるか。こうして現在の将門が描かれる。

読めばすぐにそのキャラクターが将門の位置にあることは解かるはずだ。あまりにあからさまだと思う人もいるだろう。けれども、著者の歴史観を知るという意味では、これが実に効果的だ。素直に巧いと思う。その歴史観が一般的に妥当なものなのかどうかは分からない。

ただ、十分に共感はできる。

ミステリ的には大技のない地味な作品である。犯人が明らかになる過程にも推理らしい推理はない。けれども、主眼がそこにないのだから、これはまったく瑕にならない。現在進行形で語られる事件は、あくまでも歴史解釈の一助となるための挿話なのである。

もう完全に独自の歴史ミステリを確立しているといっていい。


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高田崇史『QED 河童伝説』(講談社ノベルス)
高田崇史『QED ventus 御霊将門』(講談社ノベルス)

2007年02月12日

小川一水『第六大陸』[全2巻](ハヤカワ文庫)

小川一水『第六大陸』[全2巻](ハヤカワ文庫)小川一水『第六大陸』を読んだ。

いつの間にかSFに対する苦手意識が消えている。いや、むしろ積極的に面白いじゃないか。この作品を読んで再確認した。SFというのは、別にマニアにしか楽しめないようなシロモノではない。いや、マニアにしか解らぬ愉しみもあるのだろうけれど、そうでなくても面白い作品は多い。

小川一水という人は、いわゆるライトノベルの人だという。知らなかった。けれども、そんな出自はこの際あまり関係ない。ヒロイン妙の描写にトラウマ系ツンデレ少女とでもいうべき萌え要素は感じるものの、全体としてはむしろ恥ずかしいくらいに健全な作品である。

第六大陸とは、ずばり月面のことだ。そこに日本企業がロケットを飛ばし、施設建設に乗り出す。発起人は13歳の利発な少女。財源はお金持ちのおじいちゃんのポケットマネーとくる。足りない分はアイデアと技術力、後は気合でなんとかする。なんともロマンティックな話である。

事業に関わる研究者や技術者らの仕事に対する思いや、天晴れなまでのオプティミズムは、それでいて不思議とリアリティを失っていない。微細なディテールを積み上げることでリアリティを確保している。宇宙開発の周辺事情に詳しい人ならいざ知らず、素人には充分な説得力がある。

リアリティの源泉が必ずしもリアルである必要はない。

その意味で、著者の想像力は生半ではない。荒唐無稽なファンタジーを構築するばかりが想像の力ではない。十分な取材と徹底した脳内シミュレーションによってディテールを決定していく。リアリティを創造するのである。もしもこんな人材とこれだけの資金があったらどうなるか…。

ただし、それは危険な方法でもある。専門家やよりディープなマニアには却って非現実的な印象を与えかねないからである。実際、宇宙のことなど何も知らないぼくが読んでさえ、全体を俯瞰すればややご都合主義的に物事が進んで見える嫌いはある。そううまくいくかよ、と思う展開が少なくない。

ただし、その程度の瑕なら補って余りあるビジョンがそこにはある。

対して、ヒロイン妙を巡るロマンスや家族問題に関わる部分は幾分チープな印象を拭えない。彼らの葛藤にも和解にも成長にも、ほとんど共感できない。頑張って人間ドラマを盛り込みました、というレベルに止まっている。こうしたドラマを差っぴいてSF描写にあてた方が良かったとさえ思う。

この辺りの深みを得るのは、もう少し作家としての成熟が必要かもしれない。いずれ一朝一夕にどうにかなるものではないだろう。ライトノベル的キャラクター依存の弊害もあるのかもしれない。それでも、成長物語を目指した姿勢自体は好もしいものだ。この点は今後の作品に期待したい。

さて、この物語を最終的に気に入るかどうかは、もしかするとラスト近くで発動するセンス・オブ・ワンダーを認められるかどうかにかかっているかもしれない。多少唐突な印象はあれ、ぼくはあのすこぶる絵的なシークエンスが気に入っている。作者のオプティミズムを象徴するシーンといって良い。

ぼくはこれを単なるデウス・エクス・マキナだとは思わない。

SFにはこれくらいのロマンがあっていい。


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小川一水『第六大陸 1』(ハヤカワ文庫)
小川一水『第六大陸 2』(ハヤカワ文庫)

2007年02月05日

山本周五郎『柳橋物語・むかしも今も』(新潮文庫)

山本周五郎『柳橋物語・むかしも今も』(新潮文庫)山本周五郎『柳橋物語・むかしも今も』を読んだ。

最近決めたことがある。読む本に決め手を欠くときは、とりあえず山本周五郎を読む。これである。今回の1冊には「柳橋物語」と「むかしも今も」の2篇が収められていて、どちらも江戸の下町を舞台に、人の心の時に美しく、時に愚かな一途さを様々に描いている。

「柳橋物語」はありていにいえば救いのない三角関係の話だ。

たった一度の逢瀬が少女の心を縛り、悲劇の淵に追いやってしまう。そういう話である。ろくに男を知らない未熟な少女おせんの心は、結局は甲斐性がないばかりの男、庄吉の告白を運命的に信奉してしまう。その一途さはおせんの目を曇らせ、過酷な人生を歩ませることとなる。

おせんのあまりに辛い人生は、意地の悪い見方をすれば自業自得ということになろう。人を見る目がなかったといえばそれまでである。けれども、おせんはそういう生き方しかできない自分を、すべて自身で受け止めながら生き続ける。それはいっそ強靭といってもいい。

特におせんが町を焼き尽くす大火に見舞われてからの展開は悲惨だ。

そのときおせんをぎりぎりのところで生かしたのが、本当に彼女を想い続ける幼馴染の幸太である。この物語の中で、最も英雄的であり、最も報われないのがこの幸太だろう。彼もまた、その一途さのために苦しみ続け、挙句に命まで落としてしまう非業の人である。

庄吉のことばと幸太の強い想い。確かに庄吉は心根の弱い人間だ。それでもおせんを生かしたものは、決して幸太の一途な気持ちだけではない。おせんは作中一度も男と交わることはない。けれども、庄吉はやっぱり女としてのおせんを生かしたのである。

だからこそ、おせんが本当意味で幸太の想いを手にするラストは重い。純愛だとか泣ける話だとか、そんな軽々しい形容ではいい尽せない想いに満ちている。最後におせんが見せる涙は、悔悟や哀しみのためだけのものではないだろう。

読み返すたびに胸が詰まる幕引きである。

「むかしも今も」はうって変わって、馬鹿正直で不器用で、とかく風采の上がらない直吉という男が主人公である。何事にも運も要領も悪い少年時代の直吉は、住み込んだ指物師の家で小さな娘の子守をいいつかる。主人のひとり娘、おまきである。

こういう話の常としておまきは美しい娘に育ち、直吉は身の丈違いの想いを寄せる。別の大店から本命の相手がやってくるのも常道で、頭の切れる美男の清次とおまきは当然のように一緒になる。ここから直吉の愚直なまでに一途な想いが炸裂していく。

好きな女を妻に娶り跡目を継いだ男前の清次の下で、それでも直吉は黙々と働き続ける。長年共に働いてきた職人らが独立し、最古参になっても雇われのまま通い続ける。そこへきて店が左前になり始める。原因は清次である。彼にはどうにもならない悪癖があった。博奕である。

店を傾け、好きな女を不幸にするような男が相手でも、直吉はまだ人を思い遣る気持ちを捨て切れない。おまきは清次を好いている。ならばどうにか立ち直って欲しい。だから清次が店を駄目にし出奔しても、決しておまきを自分のものにしようとも、彼女の元を去ろうともしない。

ただただ実直におまきを守り、おまきと清次との間の子を背に負って慈しむ。それも超人的な精神を持ってすべてを達観しているわけではない。貧しい生活に不安を覚えたり、次々に襲いかかる不幸に落ち込んだりしながら、複雑な想いを抱えて生きているのである。

ただ人を思い遣る気持ち、おまきを愛する気持ちだけは揺らがない。

博奕の世界から足を抜くと約束して出奔した清次が、4年振りに顔を見せ、イケシャーシャーと誤魔化しをいうクライマックス。直吉は堪え切れず訥々と清次を問い詰める。そして啖呵を切って去っていく清次の後姿に、怒りに身を震わせながらも直吉は呟くのである。

「─可哀そうなことをした」

痺れた。直吉のすべてが滲み出たひとことである。この台詞が書けるのが山本周五郎という人なんだろうと思う。小説の滋味というものは、決してプロットで語れるものではない。この本を読めばそのことを存分に実感できるはずだ。とにかく一文一文が見逃せない。

イマドキの安直な純愛小説など読んでいる場合ではない。

2007年02月01日

酒見賢一『墨攻』(新潮文庫)

books070201.jpg酒見賢一『墨攻』を読んだ。

映画を観る前に原作を、と思って間違って買ってしまった。映画の原作はこの小説をベースにした漫画の『墨攻』であって小説版ではないらしい。そんなアクシデントに見舞われながらも、読んでみるとこれが骨太な感じで実によろしい。アンディ・ラウのイメージなど読み始めてすぐに消し飛んでしまった。

大陸の歴史モノは分厚い。そんな思い込みがぼくにはある。だから、この文庫本を見つけたときは、そのあまりの薄さに拍子抜けしてしまった。ほとんど短篇といっていい長さである。けれども、これが実にストイックな印象を醸していて悪くない。明快なタイトルも含めて無駄がなく端正だ。

しかも、背後に大きな世界を感じさせる。

先に歴史モノと書いたけれど、この作品がいわゆる史実に基づく歴史小説なのかと問われれば、どうやら答えは否である。ぼくはそうしたことに疎い人間だから、どこまでが史実なのかは分からない。けれども、世評を信じるなら、大雑把な時代設定以外はほとんど著者の創作であるらしい。

墨守という言葉がある。

慣習や主張を頑なに守り通す、という意味で使われる言葉だ。辞書などを引くと、思想家墨子が楚の攻撃より九度にわたって宋の城を守ったという故事から成った語だとある。これがどうして頑固に主張を貫くというような意味になったのかはよく分からないけれど、とにかくそういう故事があったらしい。

この墨子を祖とする思想集団墨家に材を採り、奔放な想像力と緻密かつ抑制の効いた描写で娯楽小説に仕立ててみせた著者の手腕は見事というよりない。故事に倣ったものか、ひとりの墨家の男が弱小国を巨大勢力から守るというプロットもとても分かりやすい。それだけで胸が躍る。

物語の基調をなす墨家ついては、実はそれほど多くの史料が残っているわけではないらしい。兼愛、非戦などを説いた思想書は現存するものの、その活動内容はあまりよく分かっていない。つまり、想像力に自信があるなら、創作の余地を多く残した題材なのである。

その点、この著者の書きぶりは揮っている。

反権力が権力を志向するというパラドクス。そこに徹底した博愛主義が重なる。テーマは重い。熱く語るにはもってこいの題材だろう。にも関わらず、著者は感情的な言葉や劇的な表現をほとんど使わない。ただ淡々と、極最小限のドラマを描く。これが作中の墨家に奇妙なリアリティを生んでいる。

淡白な筆致は、けれどもリーダビリティを失ってはいない。ストラテジックな篭城戦の面白さはもとより、パラドクスを抱えたまま物事を簡単に割り切れない不器用な男、革離を、実に魅力的に浮かび上がらせている。彼の博愛主義もまた、各論としての殺人からは逃れられない。

人を生かす実務家としての彼は非情だ。数万の軍隊に数千の素人を率いて立ち向かう。そんな非現実を、ある種のプラグマティズムを徹底させることで、絵空事でなくすることに成功している。人心を掌握するために仲間を殺してみせるなど、ただただ結果のみを求めて最適化された戦術は時に苛烈だ。

果たして革離が、墨家の意思に反してまで守ろうとしたものは何だったのか。いったい誰のために戦ったのか。権力を目指す墨家を嫌った革離は、けれども死守すべき城内において権力の権化である。こうしたパラドキシカルな物語の重層構造が、この作品を安直な悲劇に終わらせない。

それは墨攻というタイトルが端的に示していることでもある。

巧い。娯楽小説のエッセンスに満ちた小さな大作だと思う。

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管理人について

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大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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