古野まほろ『天帝のはしたなき果実』(講談社ノベルス)

古野まほろ『天帝のはしたなき果実』(講談社ノベルス)古野まほろ『天帝のはしたなき果実』を読んだ。

この本については、どうも語るに困る。読んでいるときは面白がって読んでいたのだけれど、いざ読み終えてみると、いったい何がそんなに面白かったのかよく分からなくなってしまった。朝食を摂りながら、今朝見た夢を思い出そうとしているような感覚とでもいえばいいだろうか。

そういうわけだから、いかにも迂遠なことだけれど、まずは、ぼくがこの本に対して持っていた先入観の話からしてみようと思う。発端は裏表紙に付された有栖川有栖の推薦文だ。そこにこうあった。宇山日出臣からの最後の贈り物。それは、多少なりともミステリが好きなら、簡単には捨て置けない文句である。

日本の推理小説界には、三大奇書というのがある。

1935年に刊行された夢野久作『ドグラ・マグラ』、同年刊行の小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、そして、1964年の中井英夫(塔晶夫)『虚無への供物』の3作を指す言葉である。埴谷雄高がこれらをまとめて「黒い水脈」と称して以降、再評価されるとともに定着していったといわれている。

宇山日出臣という人は、この三大奇書の内の1冊『虚無への供物』に心底魅せられ、絶版になっていた彼の本を復刊するために講談社に入ったという強の者である。そして、彼は初志を貫徹し、講談社文庫から見事この本を復刊。その後は、新本格推理の仕掛け人として縦横の活躍をすることになる。

これだけならまだ、名編集者が最後に見出した新人という以上の意味はない。問題はその書名である。いわゆるアンチ・ミステリの系譜にうるさい探偵小説読みにとって、このタイトルは先達への無謀なる挑戦を意味する。何故なら、これは明らかな中井英夫に対するオマージュだからである。

中井英夫は自らの小説観をこう語った。

「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない」

出自はあまりに明白だ。この書名に宇山印が捺された以上、下手ないい訳でお茶を濁すような真似は金輪際許されない。ぼくは著者のこの蛮勇ともいうべき挑戦に、どこか羨望にも似た思いを抱いた。同時に、竹本健治『匣の中の失楽』以来のアンチ・ミステリの正嫡となることを期待した。

これがぼくが抱いていた強烈な先入観の概略である。

結論をいえば、ぼくの勝手な先入観は、そう大きくは裏切られなった。癖のある文体も、ルビを多用した表現も、物語上無意味なペダントリーも、過去の水脈を受け継ぎつつ、新しい感性にうまく翻訳されている。その上で、吹奏楽に関する描写などは、過去に例のない鮮烈な個性が炸裂している。

癖も個性も十二分などというと恐ろしく読み難い文章を想像するかもしれない。事実、読みやすい文章ではない。リズムに乗るまでに多少の慣れは必要だろう。それでも、癖が飲み込めれば拙い文章でもない。少なくとも『黒死館殺人事件』なんかよりはずっと読みやすいと思う。

物語の舞台は90年代初めの「日本帝国」。妙な設定だ。完全な虚構ではなく、大枠では現実界の歴史が継承されている一種の平行世界であるらしい。そんな唐突なSFテイストに読み始めは多少戸惑うかもしれない。けれども、最後まで読めば、このくらいの風呂敷は必要だと納得できる。

登場するキャラクターもふるっていて、みんながみんな、やたら外国語に強いし、脳味噌には無駄な知識を山のように蓄えている。個性はあるようで、みな似通ってもいる。表面的な親密さに比して、内面的な繋がりはどこまでも希薄だ。安易な共感を拒絶しているようにも見える。

どこか空疎な青春群像というのは、案外にリアルである。

個々の要素を挙げていけば、面白いところは沢山ある。その意味では豊穣な作品といって良い。にもかかわらず、何故か手放しに賞賛できない。つらつらと考えるに、全篇を通して見たときのバランスの悪さ、グルーブ感のなさが原因なんじゃないかと思う。繰る手を止められないような飢餓感が薄い。

特に第一の殺人以降の停滞感は著しい。実質的にラストに繋がらないという意味では、これは前フリですらないのかもしれない。普通の推理小説が読みたい人はラスト1/3ほどだけを一所懸命に読んで、前半は適当に飛ばしてもいいくらいだ。まあ、そんな人にはそもそも向かない作品だろう。

その「無駄」にパワフルな過剰性やグルーブが感じられればよかったのだろうけれど、どうにもイマイチ乗り切れないまま進んでしまう。活き活きと描かれる吹奏楽周辺に比して、それ以外の薀蓄に厚みがないせいかもしれない。衒学趣味の大伽藍とうには、些か迫力が不足している。

推理合戦以降の展開はもちろん、全篇にわたって仕込まれたディテールはすこぶる面白い。ラストの飛躍の仕方など好みは分かれるだろうけれど、最初から卓袱台返しを期待されていることを思えば十分に健闘している。これで前述のような予備知識なんかがなければ、結構衝撃の結末だと思う。

確かに瑕は少なくないけれど、極めて個性的で印象的な作品だった。


【Anazonリンク】
古野まほろ『天帝のはしたなき果実』(講談社ノベルス)
夢野久作『ドグラ・マグラ 〈上〉』(角川文庫)
夢野久作『ドグラ・マグラ 〈下〉』(角川文庫)
小栗虫太郎『日本探偵小説全集〈6〉小栗虫太郎集』(創元推理文庫)
中井英夫『虚無への供物〈上〉』(講談社文庫)
中井英夫『虚無への供物〈下〉』(講談社文庫)
映画“ドグラ・マグラ”

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