山本周五郎『柳橋物語・むかしも今も』(新潮文庫)

山本周五郎『柳橋物語・むかしも今も』(新潮文庫)山本周五郎『柳橋物語・むかしも今も』を読んだ。

最近決めたことがある。読む本に決め手を欠くときは、とりあえず山本周五郎を読む。これである。今回の1冊には「柳橋物語」と「むかしも今も」の2篇が収められていて、どちらも江戸の下町を舞台に、人の心の時に美しく、時に愚かな一途さを様々に描いている。

「柳橋物語」はありていにいえば救いのない三角関係の話だ。

たった一度の逢瀬が少女の心を縛り、悲劇の淵に追いやってしまう。そういう話である。ろくに男を知らない未熟な少女おせんの心は、結局は甲斐性がないばかりの男、庄吉の告白を運命的に信奉してしまう。その一途さはおせんの目を曇らせ、過酷な人生を歩ませることとなる。

おせんのあまりに辛い人生は、意地の悪い見方をすれば自業自得ということになろう。人を見る目がなかったといえばそれまでである。けれども、おせんはそういう生き方しかできない自分を、すべて自身で受け止めながら生き続ける。それはいっそ強靭といってもいい。

特におせんが町を焼き尽くす大火に見舞われてからの展開は悲惨だ。

そのときおせんをぎりぎりのところで生かしたのが、本当に彼女を想い続ける幼馴染の幸太である。この物語の中で、最も英雄的であり、最も報われないのがこの幸太だろう。彼もまた、その一途さのために苦しみ続け、挙句に命まで落としてしまう非業の人である。

庄吉のことばと幸太の強い想い。確かに庄吉は心根の弱い人間だ。それでもおせんを生かしたものは、決して幸太の一途な気持ちだけではない。おせんは作中一度も男と交わることはない。けれども、庄吉はやっぱり女としてのおせんを生かしたのである。

だからこそ、おせんが本当意味で幸太の想いを手にするラストは重い。純愛だとか泣ける話だとか、そんな軽々しい形容ではいい尽せない想いに満ちている。最後におせんが見せる涙は、悔悟や哀しみのためだけのものではないだろう。

読み返すたびに胸が詰まる幕引きである。

「むかしも今も」はうって変わって、馬鹿正直で不器用で、とかく風采の上がらない直吉という男が主人公である。何事にも運も要領も悪い少年時代の直吉は、住み込んだ指物師の家で小さな娘の子守をいいつかる。主人のひとり娘、おまきである。

こういう話の常としておまきは美しい娘に育ち、直吉は身の丈違いの想いを寄せる。別の大店から本命の相手がやってくるのも常道で、頭の切れる美男の清次とおまきは当然のように一緒になる。ここから直吉の愚直なまでに一途な想いが炸裂していく。

好きな女を妻に娶り跡目を継いだ男前の清次の下で、それでも直吉は黙々と働き続ける。長年共に働いてきた職人らが独立し、最古参になっても雇われのまま通い続ける。そこへきて店が左前になり始める。原因は清次である。彼にはどうにもならない悪癖があった。博奕である。

店を傾け、好きな女を不幸にするような男が相手でも、直吉はまだ人を思い遣る気持ちを捨て切れない。おまきは清次を好いている。ならばどうにか立ち直って欲しい。だから清次が店を駄目にし出奔しても、決しておまきを自分のものにしようとも、彼女の元を去ろうともしない。

ただただ実直におまきを守り、おまきと清次との間の子を背に負って慈しむ。それも超人的な精神を持ってすべてを達観しているわけではない。貧しい生活に不安を覚えたり、次々に襲いかかる不幸に落ち込んだりしながら、複雑な想いを抱えて生きているのである。

ただ人を思い遣る気持ち、おまきを愛する気持ちだけは揺らがない。

博奕の世界から足を抜くと約束して出奔した清次が、4年振りに顔を見せ、イケシャーシャーと誤魔化しをいうクライマックス。直吉は堪え切れず訥々と清次を問い詰める。そして啖呵を切って去っていく清次の後姿に、怒りに身を震わせながらも直吉は呟くのである。

「─可哀そうなことをした」

痺れた。直吉のすべてが滲み出たひとことである。この台詞が書けるのが山本周五郎という人なんだろうと思う。小説の滋味というものは、決してプロットで語れるものではない。この本を読めばそのことを存分に実感できるはずだ。とにかく一文一文が見逃せない。

イマドキの安直な純愛小説など読んでいる場合ではない。

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