酒見賢一『墨攻』(新潮文庫)

books070201.jpg酒見賢一『墨攻』を読んだ。

映画を観る前に原作を、と思って間違って買ってしまった。映画の原作はこの小説をベースにした漫画の『墨攻』であって小説版ではないらしい。そんなアクシデントに見舞われながらも、読んでみるとこれが骨太な感じで実によろしい。アンディ・ラウのイメージなど読み始めてすぐに消し飛んでしまった。

大陸の歴史モノは分厚い。そんな思い込みがぼくにはある。だから、この文庫本を見つけたときは、そのあまりの薄さに拍子抜けしてしまった。ほとんど短篇といっていい長さである。けれども、これが実にストイックな印象を醸していて悪くない。明快なタイトルも含めて無駄がなく端正だ。

しかも、背後に大きな世界を感じさせる。

先に歴史モノと書いたけれど、この作品がいわゆる史実に基づく歴史小説なのかと問われれば、どうやら答えは否である。ぼくはそうしたことに疎い人間だから、どこまでが史実なのかは分からない。けれども、世評を信じるなら、大雑把な時代設定以外はほとんど著者の創作であるらしい。

墨守という言葉がある。

慣習や主張を頑なに守り通す、という意味で使われる言葉だ。辞書などを引くと、思想家墨子が楚の攻撃より九度にわたって宋の城を守ったという故事から成った語だとある。これがどうして頑固に主張を貫くというような意味になったのかはよく分からないけれど、とにかくそういう故事があったらしい。

この墨子を祖とする思想集団墨家に材を採り、奔放な想像力と緻密かつ抑制の効いた描写で娯楽小説に仕立ててみせた著者の手腕は見事というよりない。故事に倣ったものか、ひとりの墨家の男が弱小国を巨大勢力から守るというプロットもとても分かりやすい。それだけで胸が躍る。

物語の基調をなす墨家ついては、実はそれほど多くの史料が残っているわけではないらしい。兼愛、非戦などを説いた思想書は現存するものの、その活動内容はあまりよく分かっていない。つまり、想像力に自信があるなら、創作の余地を多く残した題材なのである。

その点、この著者の書きぶりは揮っている。

反権力が権力を志向するというパラドクス。そこに徹底した博愛主義が重なる。テーマは重い。熱く語るにはもってこいの題材だろう。にも関わらず、著者は感情的な言葉や劇的な表現をほとんど使わない。ただ淡々と、極最小限のドラマを描く。これが作中の墨家に奇妙なリアリティを生んでいる。

淡白な筆致は、けれどもリーダビリティを失ってはいない。ストラテジックな篭城戦の面白さはもとより、パラドクスを抱えたまま物事を簡単に割り切れない不器用な男、革離を、実に魅力的に浮かび上がらせている。彼の博愛主義もまた、各論としての殺人からは逃れられない。

人を生かす実務家としての彼は非情だ。数万の軍隊に数千の素人を率いて立ち向かう。そんな非現実を、ある種のプラグマティズムを徹底させることで、絵空事でなくすることに成功している。人心を掌握するために仲間を殺してみせるなど、ただただ結果のみを求めて最適化された戦術は時に苛烈だ。

果たして革離が、墨家の意思に反してまで守ろうとしたものは何だったのか。いったい誰のために戦ったのか。権力を目指す墨家を嫌った革離は、けれども死守すべき城内において権力の権化である。こうしたパラドキシカルな物語の重層構造が、この作品を安直な悲劇に終わらせない。

それは墨攻というタイトルが端的に示していることでもある。

巧い。娯楽小説のエッセンスに満ちた小さな大作だと思う。

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