いしいしんじ『プラネタリウムのふたご』(講談社文庫)

いしいしんじ『プラネタリウムのふたご』(講談社文庫)いしいしんじ『プラネタリウムのふたご』を読んだ。

たぶん「救い」について書くことは難しい。安易さや陳腐さが微かにでも臭うと、すべてが台無しになってしまうからだ。だから、この物語はとても悲しい。悲しいけれど惨めではない。徹底した喪失の物語でありながら、とても強くしなやかだ。

世界にはどうしようもなく起こってしまうことというのがある。そのこと自体は特別なことではない。人の悪意や奸智が引き起こすような卑小な事件の話ではない。本人も周囲も誰の不幸も望んではいない。それでも、否応なく降りかかる不幸。避けることは誰にもできない。

そんなとき人を救うものはいったい何か。

主人公の双子は、そんな問いを登場からその身に負っている。彼らの来歴は、一般的には不幸なものだろう。けれども、ふたりが不幸な子供だとは、たぶん、誰も思わない。そういう風に描かれている。つまり最初から、この本のテーマはこのふたりに仮託されている。

プラネタリウムのふたごであるテンペルとタットルは、予め両親を失っている。母親の手でプラネタリウムに置き去りにされた捨て子である。と同時に、満天の星と永遠を語る父を得てもいる。星だけを見て生きてきた泣き男と呼ばれる父だ。そんなふうにして物語は始まる。

彼らが暮らす土地は聖域によって外界から閉ざされている。そこにはいまだ習俗が生きる世間がある。異端としてのふたごは、だからこそ、特別な子供として、ごく当たり前に受け入れられる。けれども、そうした閉じた平穏は当然のように失われる運命にある。

巨大産業が聖なる山を少しずつ侵食し始める。

それは古い習俗を少しずつ侵し、感傷を生みはするけれど、疎むべき変化だとは限らない。新しいものが古いものに取って代わるときに、様々な摩擦があるのは当然だろう。それは変化を望む気持ちと古きに惹かれる気持ちのアンビバレンツとして表出する。

そして、ふたごは外を知る。

変化は否応なく人々を巻き込み、ふたごは離れ離れになる。物語は急速に回転を始める。この別れは、けれどもまだ、外部の侵食に続くふたつめの大きな予兆に過ぎない。ふたりは世間の内と外で、それぞれに確かな生を生きる。互いは互いを失ったわけではない。

テンペルを外の世界へと連れ出した魔術師テオ一座。彼らを巡る物語は、多くのかけがえのないものとの出会いと喪失の物語である。憎む対象のあり得ない悲劇は、怒りを生まない分だけ、ずしりと重い。それでも共同体は幸福な幻想足りうることを教えてもくれる。

幻想は有効だ。著者ははっきりとそう主張する。

確かに冗長な部分はある。もしかすると、もう少し刈り込んだ方が完成度は高かったかもしれない。聖域が戻ってくるラストだってできすぎといえばできすぎだ。それでもこの本はキチンと伝えることに真摯である。適当な誤魔化しがない。そのまっすぐな言葉に心打たれる。

文体にさえ馴染めれば、きっと心に残る作品になると思う。

related entry - 関連エントリー

comment - コメント

最後にもやもやするがなぜか心が温かくなります

海さん、いらっしゃいませ。
登場人物たちが、哀しい出来事を自分なりに消化していくとき、その底に流れている他者に対する思いのようなもの。それが読み手の心に温かさを残すのかもしれません。

コメントを投稿

エントリー検索