米原万理『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社文庫)

米原万理『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社文庫)米原万理『オリガ・モリソヴナの反語法』を読んだ。

奇妙な語感の書名だ。けれどもこれは、衒いも何もない極めて即物的なタイトルである。オリガ・モリソヴナはキーパーソンの名前だし、彼女の吐く特徴的な罵言は反語表現の宝庫なのだ。だから、このタイトルから豊穣なフィクションの香りを嗅ぎとるのは少し待った方が良い。

実をいうと、このタイトルに対する印象は、作品全体にも敷衍される。確かにこれは著者初の長篇小説と銘打たれている。けれども、これを小説として読むのは案外難しい。ぼく自身は未読だけれど、著者は元々エッセイやノンフィクションで知られた人である。

この小説もまた、過剰にノンフィクション的なのである。

筋立ては著者を髣髴させる弘世志摩という女性が、少女期を過ごしたプラハ留学時代の謎を追うという、一種ミステリ仕立ての内容になっている。回想の中に見終え隠れする予兆、次々に手繰り寄せられる悲劇の証拠など、とにかく題材に力がある。

とても活き活きと描かれるソビエト学校の回想などは、著者の体験なしには語り得なかったものだろう。日本の画一的な義務教育からは考えられない奔放な学校のありようを知るだけでも面白い。そこではこれからを生きる子供たちの躍動がありのままに受容されている。

魅力的な教師たちが、魅力的な子供たちを育む。それはとても力強く、理想的な姿に映る。けれども、そうした環境の裏側には、あまりに不安定な世情が見え隠れしてもいる。だからこそ、彼らは強く活き活きとして見えるのかもしれない。

とにかく登場人物がみんな強烈な謎と個性を持っている。

謎多き老ダンス教師オリガ・モリソヴナはもちろん、彼女と常に行動を共にしているフランス語教師、祖母のような年齢のふたりをママと呼ぶ転校生、子供らしさを捨てたように暗い目をした少年など、すべての魅力的なキャラクターたちが当時の謎を解く鍵となる。

思い出の謎に迫る現在のシークエンスは、ややご都合主義に見えないこともない。この辺りもノンフィクションとして書かなかった理由のひとつかもしれない。語るべき主題を明確に語るための方便なのだろう。もちろん、この程度のことが瑕瑾になるような弱い話ではない。

志摩はソビエト学校時代の親友らと共に、当時を語る人々、残された資料などを通して知ることになる。それは激動の時代を生き抜いた人々の凄絶としかいいようのない人生である。歴史に疎いぼくにとって、スターリン大粛清時代の悲劇を知ることはまさしく衝撃だった。

この辺りの語り口はほとんどノンフィクションのそれで、小説としてみれば破綻しているかに見えなくもない。ただし、この小説に限ってはそれが欠点にならない。かえってリアリティの源泉になってもいる。そして、率直で飾らない文体は、会話の良さも手伝って読み易い。

彼女たちの言葉の中に生きる力を感じ取ることができる。

それは圧倒的な悲劇を描きながら、ただ悲愴になることを良しとしない著者自身の志向の表れなのかもしれない。だから、この小説は人の残酷さ、残忍さを余すところなく描きながら、どこまでも前向きである。読後はむしろ、平穏に生きるぼくの方が力付けられていた。

正直に書けば、必ずしもシンパシーを感じるタイプの作風ではない。巧い小説だとも思わない。けれども、人当たりの良い人間ばかりが良き友人でなく、耳触りの良い音楽ばかりが感動的なわけではないように、この作品には心に訴えるだけの芯が通っている。

著者の人となりなんかは知らない。もっといえば、さしたる興味もない。ただ、作品にだけ目を向けるなら惜しい人を亡くしたと思ってしまう。米原万理は今年5月25日に不帰の人となった。小説家としてこれからどうなっていったかは未知である。

けれども、次作を読んでみたかったと思わずにはいられない。

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comment - コメント

TBありがとうございました。 lylycoさんの表現は的確でお上手ですね。
「悲劇を描きながら、ただ悲愴になることを良しとしない著者自身の志向の表れ」というところに深くうなずいてしまいました。
私はよくアマゾンなどで本探しをするのですが、今後はlylycoさんのブログも参考にさせていただきますね。

>wakaさま

コメントありがとうございます。
上手だとかいって頂くと何だか面映ゆい気持ちになります。ぼくは通勤読書の人なので、さほど多読な方ではありません。幅広く読もうとは思いつつ、何がしかの偏りもあるかと思います。参考になるような記事があるといいのですが…。
今後ともよろしくお願いします。

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