村上春樹『海辺のカフカ』[全2巻](新潮文庫)

村上春樹『海辺のカフカ』[全2巻](新潮文庫)村上春樹『海辺のカフカ』を読んだ。

既に老人の域に達しつつあるこの人気作家の作品を、ぼくは今までに2冊しか読んでいない。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』だ。そして、もうそれ以上読む気にはなれなかった。

ありていにいえば、人が好きになれなかったからだ。

これらの作品に出てくる登場人物たちは、殆ど複数出てくる意味がないのじゃないかというくらい、書き分けがされていない。それは殆ど自問自答の世界といっていい。恵まれた環境で不幸振って甘えているような印象ばかりが残っている。

彼らが繰り出すような会話に過剰なまでの意味を見出したり、自分もあんな風にと憧れたりする人がいるようだけれど、そんな人とはあまり友達にはなりたくない。恰好いいとも思えないし、お洒落だとも思えない。

それなのにまた村上本を読む気になったのは、単にいつもの気紛れだ。前掲2冊を読んだのはずいぶん前のことだし、それらとは執筆時期にも大きな隔たりがある。これだけ売れる本なのだから、読めば案外面白いかもしれない。そう思ったからだ。

結論を言えば『海辺のカフカ』は娯楽小説としてよくできていると思う。

適度にややこしいことも書かれているし、かといって難し過ぎることもない。二つの筋に沿ってバラバラに語られる物語も、読み進むほどにちゃんと全体像が見えてくるような書かれ方をしている。リーダビリティは高い。普段小説を全く読まないという人には伏線を拾うのが多少大変かもしれないけれど、活字を追うことに慣れている人なら問題なく楽しめるはずだ。

中でも、しりあがり寿の『真夜中の弥次さん喜多さん』を髣髴させる(全然違うけど)ナカタさんとホシノくんの道行きは文句なしに面白い。これだけでも十分に読む価値はあると思う。正直にいうと、ぼくは殆どこちらサイドばかりを楽しみに読んでいた。

案の定カフカ少年サイドはそうはいかない。

カフカ少年も例によって単純に感情移入できるようなキャラクターではない。それは多分ぼくのやっかみなんだろうと思う。彼はどう考えても恵まれ過ぎている。頭脳にも体格にも容姿にも恵まれ、性的なコンプレックスとも無縁、周りには理解者が何人もいて無条件に受け入れてくれる。そんな状況で贅沢な悩みを悩んでみせるのだ。まさに拗ねた振りして甘え放題といえる。

15歳という設定だけれど、そのことに余り意味はない。例え25歳という設定でも、その描写に大差はないだろうからだ。要するに、誰もが歳に関係なく持っている、あるいは著者自身の中にもある未熟で甘い感性を、ただ少年というキャラクターに仮託しているだけのことだ。

だから、カフカ少年は全く子供らしくない。

そこに15歳の自分を重ね合わせるような人は、多分底抜けに幸せな人だ。周囲の人は誰一人賛同してくれないに違いない。うぬぼれるのもいい加減にしろ、と。

結局のところカフカ少年の成長物語として読むと、ぼくなんかは馬鹿にするなといいたくなる。それは殆ど受動的といっていい少年のあらゆる問題を、周りのみんなが自動的に処理してくれて、少年自身は殆ど何もすることなくめでたく現実世界に帰還するという実に都合のいいお話だからだ。

この夢物語の向こうに作中で言及されるようなメタファーとしての現実を見ようとすれば、それはそれは偏った薄っぺらなものしか見えてこない。これはもう著者の一貫した嗜好と技巧が生み出す、内に向かって閉じた世界の一部でしかない。

結局は単純に娯楽ファンタジーとして読むべき作品なのだと思う。

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