恩田陸『月の裏側』(幻冬舎文庫)

恩田陸『月の裏側』(幻冬舎文庫)恩田陸『月の裏側』を読んだ。

舞台となるのは九州の水郷「箭納倉」。町中を堀が縦横に走る水の町だ。モデルは福岡県柳川市。行ったことはないけれど、観光地としては魅力的な場所のひとつだと思う。

著者独特の文章のイメージ喚起力はいつもながら群を抜いている。不思議に郷愁をともなう情景はもちろん、気温や湿度といったまとわりつくような皮膚感覚までもがとてもリアルに感じられる。いかにも著者らしい人物造形や、印象を伝える比喩表現なんかに相性はあるかもしれない。けれど、その視点の自由さと確かさに、結局は納得させられてしまう。

この作品について語る際のお約束ともいえるので一応触れておくと、作中でも触れられているジャック・フィニィの『盗まれた街』という先行作品がこの作品の状況的な下敷きになっている。この小説は“SF/ボディ・スナッチャー”というタイトルで映画にもなっているので知っている人も多いかもしれない。

要するに、不定形の何者かが人間をそれと分からないうちに乗っ取ってしまうというお話で、SFでは「侵略モノ」なんて呼ばれてひとつのサブジャンルになっている。ちなみに“ブレイン・スナッチャー~恐怖の洗脳生物~”という紛らわしいタイトルの映画も同じジャンルの作品で、ロバート・A・ハインライン『人形つかい』が原作になっている。口さがないSFファンの評を借りるなら、『盗まれた街』『人形つかい』のパクりということになるらしい。

そんな不穏なことを書いておきながら、ぼく自身はオマージュやパスティーシュやパクりの話はややこしい上に面白くもないので余り考えないことにしている。ジャンルやテーマというのは多岐に渡るようでいて実はそうでもないのだろうし、既存の作品と一切関わりを持たないなんてことは土台あり得ない。大事なのは何をどう見せるか、だ。その意味で恩田陸は唯一無二であり、確固としたオリジナリティを持った作家だと思う。

ミステリ風の導入、侵略SF風の状況設定、キング系スーパーナチュラルホラー風の描写。そんなオイシイ要素を満載しながら、個のあり方を問い、人間という存在の弱さや頼りなさを暴露してみせる。前半じわじわと植えつけた価値観を後半ガラリと根元から揺さぶる手腕は実に鮮やかだ。

自我に固執すると同時に、他者との強固な繋がりも求めるアンビバレンツ。もしも、どちらかを捨てなければならなくなったとき、どちらを選ぶのが幸せか。確信は既に揺らいでいる。長靴を脱ぐか否か。

これは最後に究極の選択を迫る作品だ。

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