宮沢章夫『サーチエンジン・システムクラッシュ』(文春文庫)

宮沢章夫『サーチエンジン・システムクラッシュ』(文春文庫)宮沢章夫『サーチエンジン・システムクラッシュ』を読んだ。

著者はそもそも演劇界の人らしい。1992年には岸田國士戯曲賞を取っているというから、その世界では鳴り物入りだったのかもしれない。どちらにしろ、活字が対象の賞を獲っているわけだから、その段階で文才はあったのだろう。

ぼくが読んだのは文春文庫版で、表題作の他に「草の上のキューブ」という短編が収められている。

両収録作ともに初出誌は「文學界」。2000年に芥川賞候補にも挙がっている。つまり純文学ということになるのだろう。純文学と大衆文学という今では殆ど無効化しているのかもしれないジャンルの違いについては、ぼくは勝手にただ文体の違いだと考えることにしている。テーマやモチーフによる区分けなんてできないからだ。その意味でこの著作は正しく純文学的だと思う。

例えば、歯切れの良い短文を重ね、丁寧で判りやすい描写を旨とする正しく大衆文学的な文体が好きな人には少し読み難いかもしれない。ただ、それも最初のうちだけで、その独特のグルーヴ感のある文章は、一度はまり込むと途中で目を上げることができないくらいだ。

表題作は男が探し物をする話だ。探し物はころころと変わっていく。それは殺人犯の旧友の痕跡だったり、「アブノーマル・レッド」という名の風俗店だったり、自称芸術家が道路や壁にひいた赤いチョークの線だったり、謎の会員制クラブの女に指定された喫茶店だったりする。そのどれもが目的を果たせないまま次から次へと移ろっていく。その様子を描く文体は常にどこか朦朧としていて、心地よい酩酊感を生み、現実と非現実の狭間に漂っているような不思議な気持ちになってくる。

それは、何か面白いものはないかとサーチエンジンからリンクをたどって漠然と探し物をしているうちにそもそもの目的が曖昧になっていく様子に似ているかもしれない。本当に欲しているものは何か。わからないのに何かを求めているという確信だけは持っている。

そんな探し物は見つかりようがない。

「草の上のキューブ」は、より直接的にネットワークをモチーフとした話だ。純文学で田舎の中年クラッカーを描くことが珍しいとかそれだけの話ではない。こちらもどこかで確固とした自分が揺らぐ話だ。やっぱりグルーヴ感と酩酊感が全体を支配している。この文体に酔えるかどうかが、この作家を好きになれるかどうかのポイントかもしれない。ぼくは知らない内に酔っていた。心地好い。活字を目で追っていることを忘れる。

この人が小説を書いたらまた読みたいと思う。

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