佐藤友哉『鏡姉妹の飛ぶ教室』(講談社ノベルス)

佐藤友哉『鏡姉妹の飛ぶ教室』(講談社ノベルス)佐藤友哉『鏡姉妹の飛ぶ教室』を読んだ。

佐藤友哉は「メフィスト賞」というミステリー系の賞を受賞してデビューした作家だ。けれども、近頃どう考えてもミステリーとはかけ離れた小説しか書いていない。ある時期以降、それがこの賞自体の傾向になっているような気もする。新本格を凄い勢いで突き抜けた先の娯楽小説とでもいった感じだろうか。母体の雑誌である「メフィスト」のコピーを見ても<エンタテインメント小説の宝庫>となっているくらいだから、そういう戦略なのだろう。

彼はまた、舞城王太郎、西尾維新と並んでゼロの波の新人などとも呼ばれる。ただ、講談社がそうやって売り出しただけで、これといった共通点はない。ないけれど、この人たちの作品の読者はかなり重なっているのじゃないかな、とは思う。その程度には共通した空気を持っている。

とてつもなく大雑把で暴力的ないい方をすれば、ぼくが思う彼らの作品の共通項は「過剰性」だ。その手の過剰性は、今までは一部のアングラな人々だけのものだった。世界は悪意や悲劇や苦痛や孤独に満ちていて、うまく生きられないのが当たり前。トラウマや暴力や死はデフォルトでしかない。

そんな中でも佐藤友哉の小説は一層屈折している。その歪み方はそれだけでエンターテイメントの域といっていい。というより、それこそが彼の小説の本領なのだ。先行作品からのあからさまな引用やオタク的描写に満ち満ちた文章は、物語ることを半ば放棄しているのではないかとすら思える。

今回読んだ作品は<鏡家サーガ>と呼ばれるシリーズの最新作である。なんと新人なのに3年振りの新作。表向きの言葉をそのまま信じるなら、どうやら本が売れなかったせいらしいのだけれど、一読、相変わらずの屈折ぶりでまずはひと安心といったところ。

登場人物はみんな図抜けて傲慢だったり図抜けて卑屈だったり、圧倒的に強靭だったり圧倒的に欠落していたりとげっぷが出そうな面々である。死体なんて当然のようにてんこ盛り、残酷描写も垂れ流しだ。なのに全然怖くないのも予定通りだ。ピーター・ジャクソンの“ブレインデッド”みたいなもので、それはそれで正しい読まれ方だと思う。

ただ、その性質がずいぶん西尾維新方面に振れているような気がする。シリーズ前3作ではハッキリとしていた差異が、随分と詰まった印象を受ける。具体的には「裏財閥」「初瀬川研究所」といった設定や、萌え要素のばら撒き方や、「十全」「重畳」といった語彙の選び方だ。時折、西尾維新の<戯言シリーズ>を読んでいるような錯覚を起こしかけた。

ただ、そのお陰もあってか、著者の作品中では、ずいぶんと読みやすい仕上がりになっている。展開もしっかりエンターテイメントしている。クライマックス辺りの大団円など今までの著作にはなかった趣向だ。実をいうとそこが少し物足りなかった。ちょっとらしくないなあ、と思ってしまった。確かに西尾維新は売れている。けれども、ふたりは要らない。

こうなると編集部の入れ知恵だったら嫌だな、などとあらぬ妄想までしそうになる。編集と作家ががっちり四つで頑張るのは結構だけれど、あまりに流れを作り過ぎたのでは作家の個性を潰してしまいかねない。もちろん売れなければ世に問うこと自体できないのだから、職業作家としての計算は必要だろう。

要は程度の問題である。

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