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2008年02月28日

北方謙三『楊家将』[全2巻](PHP文庫)

books080228.jpg北方謙三『楊家将』を読んだ。

お陰で寝不足になった。本当に寝食を忘れる。まさに怒涛。ハードボイルドで培われた文体なのかどうなのか、短く刻まれた言葉が重い。重いけれども、速い。そして、当然のように熱い。正直これほどとは思わなかった。どこがどう面白いとか、何がどうだから凄いんだとか、説明するのももどかしい。とにかく最高だから、読め。そういいたくなる。布団の中で没頭して朝刊の声を聞くなんて、ずいぶんと久しぶりのことだ。大学生の頃、京極夏彦にやられて以来かもしれない。これまで北方節を知らずにきた自分の迂闊さったらない。

ぼくはそもそも中国史などまるで知らない。だから、中学生の頃、吉川英治の『三国志』を青息吐息でなんとか読破したくらいで、この手の小説にはさほど親しんでもこなかった。けれども、そんな過去の嗜好など関係ない。楊業が実在した英雄だろうが遼と宋の争いが史実だろうが、そんなことはこの小説の面白さの根拠ではあり得ない。その意味でこれは歴史小説の醍醐味を味わう小説ではない。いうなれば、好漢娯楽小説である。いや、そもそもそんなラベリング自体不要だろう。もはや、北方謙三というジャンル小説なのである。

『楊家将』の原典『楊家将演義』は明代の古典で、かの国では京劇やテレビドラマでお馴染らしい。文庫の解説によれば原典自体は駄作なのだという。それは伝説や民間伝承を下敷きにしていて『水滸伝』同様辻褄の合わない展開も多く、後半になるほど妖術秘術が炸裂するなどファンタジー色が強くなるらしい。北方謙三はそれを嫌った。だから、楊家5代の戦乱を描く原典の内、北方版が描くのは楊業とその息子たちの代までである。『楊家将』は楊業の、続編『血涙』は生き残った息子たちの壮絶な生き様を描いている…はずだ。

荒唐無稽なファンタジーを廃した北方楊家将は、あまりにストイック、あまりに苛烈である。そうならざるを得ないほどに敵もまた靭く、魅力的である。確かに2巻というボリュームでは書ききれていないキャラクターも多い。特に楊家7人兄弟の5男延徳など本当にもったいない。さらりと描かれる複雑なキャラクターは書き込めば面白かったろうにと歯噛みしたくなる。とはいえ、そんなことはまったくたいした瑕ではない。面白すぎて、もっと読みたかったのに!と文句をいっているだけのことである。つまりは、ただの強欲である。

実のところ、楊家軍の本当の敵は遼軍ではない。ただ強大な敵と戦い、信念に従って死にゆくというなら、これは悲劇ではない。楊業の死の非業は、味方の惰弱と狡猾、帝の悲願と執着が生み出したものだ。ありていにいうなら、楊業は人間関係に悩まされるのである。そして、自らの信念が器用に立ち回ることを許さない。それが楊業の強さの根本であり、同時に弱さでもある。こうした不遇の物語は現代を生きる多くの人の心に響くはずだ。なにしろ、組織や社会の中で思うように生きられる人はそう多くない。その意味でとても普遍的である。

普遍的であることと陳腐であることは違う。当たり前だ。だからこそぼくたちは楊業に、その息子たちに、敵将耶律休哥に、あるいは遼国のスパイである王欽にさえ感情移入できるのである。そんな彼らの魅力は「思い定めた」ところにこそあると、ぼくは思う。物語の終盤、楊業と王欽の会話でそのことに気付かされた。心中に強固な意志を持っている。迷いがない。これほどに芯の通った人間を量産してみせる北方節の威力は尋常ではない。彼らは時代や、社会や、組織に殉じるのではない。あくまで自らの意志に殉ずるのである。

だからこそ、これほどに普遍的な憧れを抱かされるのだろう。

さて、そろそろ『血涙』を買いに行こうか。


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北方謙三『楊家将』[上](PHP文庫)
北方謙三『楊家将』[下](PHP文庫)
北方謙三『血涙 新楊家将』[上](PHP研究所)
北方謙三『血涙 新楊家将』[下](PHP研究所)

2008年02月22日

滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(角川文庫)

滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(角川文庫)滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ 』を読んだ。

映画が思いの外面白くて読む気になった。このパターンは悪くない。逆だと大抵不満が残る。映画版はうまくコンパクトにまとめながら、かなり原作の要素を忠実に切り取っていたようだ。舞台となる場所の逆転をはじめ、違いはもちろん色々あるだろう。いちいち確認しながら読んだわけではないから、どこがどう違うかを列挙することはできないし、することに意味があるとも思えない。そもそも、そんな悠長な読み方を許すほどテンションの低い作品ではない。文章自体は良くも悪くもイマドキで、癖がなくて読みやすい。

要するにアレだ、ツンデレだろ。そういう楽しみ方もあると思う。ニート青年に突如小説の神様が降りてきて書き上げられた、これはそんな作品である。だから、多少、オタクっぽい匂いがしても不思議ではないし、それが良い意味で活きてもいる。心に鬱屈したものを抱えた若者ほど、無駄に色々なことを考える。人生について考えるなどは最悪で、見聞を広め、賢くなるほどに、人生などおおよそどうにもならないものだということが分かってくる。社会的成功?ナニソレ?金やセックスで幸せになれるほど、イマドキの若者は単純ではない。

主人公の陽介は、実にバランスの取れた高校生だ。おそらく、物語が始まるまでの彼は、若くして「それなり」というものを体現していただろう。そんな彼が親しい友人、能登の死で少しずつ変わり始める。ありふれてはいるけれど、物語的必然であり避けられない。「生きることは苦しみである」という仏陀の言葉を引くまでもなく、多少なりとも人生に疑問を持ったことのある人間は、そのことを実感している。恙無いが何もない。そんな人生はほとんど恐怖といってもいい。求めるのは、生きているという実感であり、充実した死である。

陽介は、能登に先を越された、そう感じている。能登の死は、もちろん無意味である。それはよくある若者のバイク事故に過ぎない。フルスピードでコーナーに突っ込み、激突。それが無意味な死だというようなことは陽介だって分かっている。それでも、陽介には能登が先に逝った戦友に見えている。否、見たいからそう見えているといった方がいいかもしれない。戦友といっても何と戦っているのかは本人にも分からない。敵が見えないほど厄介なことはない。ところが、だ。陽介はそれを一挙解決する出来事に遭遇する。

絵理との出逢いであり、イクォール、チェーンソー男との出逢いである。この「悪」を体現する怪物こそ、陽介にとっての福音である。絵理はこの怪物こそが世界に溢れる悲しみの元凶なのだという。そして、自分にしかそれは倒せないのだと。こうして、陽介は美少女が見付けた「敵」に相乗りする。これでこれまで見えなかった敵が荒唐無稽な不死身のチェーンソー男としてめでたく可視化されたわけだ。けれども、それはまだ、哀しいかな絵理の敵である。相乗りでは、まだ足りない。それは結局のところ自分の人生ではない。

だから、夜毎繰り広げられる美少女対怪物のバトルは牧歌的にマンネリ化していく。そして陽介はやはり消極的な当事者でしかない。こうして、充実した死へと向かっていたはずのテンションは、いつか訪れる死への低空飛行でしかなくなってしまう。この「いつか」は明日からダイエットの「明日」と同種の空手形である。そんな「それなり」の冒険に再び訪れる危機は陽介の転校である。これまた確かにありふれている。けれども、やはり必然だといってしまおう。危機は即ち敵である。そして、今度こそは陽介自身の敵である。

ようやく現れた陽介自身の敵。これで、物語は本当の意味で転がり始める。クライマックスへ向けて一気にテンションをあげていく。この辺りの呼吸は、ほとんど神懸りといってもいい。ここでページを繰る手を止められる人は、鋼の意志の持ち主に違いない。ともあれ、陽介はようやく自らの人生の主人公となる。求めていた最高のエンディングへと向かう最後の直線をひた走る。そして、希望は砕かれる。一見、砕かれたように見える。けれども、これはひとつの価値観の崩壊でしかなく、それは場合によっては成長と呼ばれたりもするものだ。

こうして彼らは腑に落ちないながらも「それなり」の意味を知る。

イマドキの若者を描きながら、生きる希望を示そうとする熱い小説である。

2008年02月18日

伊坂幸太郎『死神の精度』(文春文庫)

books080218.jpg伊坂幸太郎『死神の精度』を読んだ。

この作家、短篇がすこぶる好い。なんだかそんな気がしてきた。もちろん、ぼくの好みの問題もあるかもしれない。いや、長篇も好きなんだけれども、短篇はより伊坂節にキレがあるように思う。確かに、構成の精妙さでいえば長篇に分がある。反面、冗長に見える部分がなくもない。そういう意味でぼくは、ミステリ的なオチの面白さより、文章の方により魅力を感じているのかもしれない。といっても、ぼくがこれまでに読んだ作品はこれより前に書かれたものばかりだ。以降の長篇はより洗練されている可能性もある。

最近、小説を読み始めたんだ、何かお勧めの本はない?…たとえばそんな風に訊かれたら、今なら迷わずこれを薦める。それくらいに読みやすく、文章に味わいもある。するすると流れるように読んでも、噛みしめるように味わいながら読んでもいい。しかも、キャラクターが実にキャッチーだ。<ミュージック>に目がないクールな死神。彼は死の調査員である。8日後に死を用意された対象者に近付き、その死を見送るべき理由はないか調査する。それが彼の仕事である。そして結果はおよそ「可」と決まっている。つまり死である。

この作品が類希なリーダビリティを誇り、キャラクター小説的でさえありながら、ありふれた読み捨ての娯楽小説に堕していないのは、ほとんど奇跡的といってもいい。もう、村上春樹の亜流なんて域はとうに脱している。言葉に対する感度の良さ、ユーモア、そして、確固とした構想力と絶妙にズレた新奇な発想。作を追うごとにその文章には洗練が加わって、まるで非の打ち所がない。そして、一見理不尽で非情な死を描きながら、死を通して幸と不幸を相対化してしまう。その手技のなんと鮮やかなことか。

収録された6篇はとてもバラエティに富んでいる。冒頭の「死神の精度」は、一見、死神のキャラクター紹介に重きを置いているようで、実は最も特異な位置を占める重要な1篇で、ミステリ的には日常の謎の系譜である。続く「死神と藤田」は一種のハードボイルドだろうか。「吹雪に死神」は変種のクローズドサークルものだし、「恋愛で死神」は文字通りの恋愛物語、「旅路を死神」はロードムービー的な趣向で、最後の「死神対老女」は軽度な叙述トリック系ミステリ。極軽いタッチで物語全体にもちゃんとオチをつけている。

この本の魅力を伝える一番手っ取り早い方法は、実は、魅力的なフレーズをどんどん引用することだ。だから、この文春文庫の解説は実に正しい。その解説でも引かれている一文をここでも引いてみる。「人間が作ったもので一番素晴らしいのはミュージックで、もっとも醜いのは、渋滞だ」…件の死神の台詞である。これだけで死神に共感できてしまう。<ミュージック>がらみではこんなのもある。「理由は分からないが、私の考えではたぶん、ミュージックとカラオケの間には越えがたい深い溝があるのではないだろうか」

音楽と小説が好きならこれを読まない手はない。


【収録作品】
・「死神の精度」
・「死神と藤田」
・「吹雪に死神」
・「恋愛で死神」
・「旅路を死神」
・「死神対老女」

2008年02月15日

倉橋由美子『聖少女』(新潮文庫)

倉橋由美子『聖少女』(新潮文庫)倉橋由美子『聖少女』を読んだ。

2005年に著者が亡くなったとき、その特異な作家性を話題にしたブログや掲示板の書き込みをよく目にした。以来、気にはなっていた。にもかかわらず、新刊書店で巡り会うことがなかったせいでこれまで手に取らずにきた。特別意識して探すこともしなかったのだけれど、偶然、文庫が新刊と一緒に平台に乗っているのを見付けた。直木賞作家となった桜庭一樹の解説と帯がついて復刊されたものらしい。迷わずレジに連れ去った。古い本(といっても、明治や江戸の話ではない)が手に入り難いというのは、いかにも不自由なことだ。

この本には、不可能な純粋さというあまりにも普遍的な悲喜劇が描かれている。こういういい方をするととても観念的な小説に思えるかもしれない。事実そうなのだし、それを見つめる作家の視線はあくまでも冷徹である。たとえば、ヒロイン未紀は「パパ」との近親相姦を少女的聖性を手にするための貴族的なアイテムとして積極的に希求する。一方、未紀と対置されるKは姉との近親相姦を俗性の象徴として否定しながら、精神的には一向にそこから抜け出せない。未紀とK、ふたつの近親相姦、聖と俗。とても分かりやすい。

Kは自分を俗と見做しながら、未紀の聖性を求める。それは未紀「に」聖性を求めることとほとんど同義だ。その意味で、ふたりの交わりははじめから破綻しているといってもいい。しかも、Kはこの物語の記述者でもある。さらにややこしいことには、Kが読み進む未紀の手記というのが彼女の過去を知る唯一の手掛かりとして提示される。はたして、手記に描かれるパパと未紀との関係は真実なのか、あるいは未紀の手になる創作なのか。ミステリ的にいうなら、Kは探偵役を演じ、未紀の真実に近付いていく。

こんな、いかにも観念的でメタフィクショナルな構造の物語が、いかにも湿度の高い少女小説として読める。これが読者を選ぶ。そんな気がする。今時スノッブでおフランスなディテールに酔えるような無垢な読者などそうはいないだろう。また、自意識の牢獄に繋がれた若い男女の見るも痛々しい貴族的退廃に、憧憬の念を抱かせるだけの力はたぶんもうない。近親相姦を含む性的なものに対する幻想も、それを女流作家が語ってみせることも、今となってはさして珍しいものではなくなってしまった。

だから、この作品が上梓された1965年当時の若い読者が受けただろう衝撃を、これから読む新しい読者が追体験することは難しい。これはあらゆるエポックメイキングな作品が持つ宿命的な性質である。つまり、スタイルにおけるある種の陳腐さは、決してこの本の瑕ではない。一方で、この作品の観念的な側面は時代を超えた普遍性を備えている。今でいうなら、いかにもオタク向けのアニメやラノベ的な作品から、時折、突然変異のように強烈な衝撃を持って文学的な作品が生み出されるのに近い感覚かもしれない。

そうした作品たちは、いかにもな萌えキャラが跋扈し、オタクの間で話題の固有名詞が頻出したりする大層同時代的で陳腐な表現を借りていることが多い。そして、その「いかにも」な表現が評価を誤らせる。大多数の流行の絵柄と萌え要素だけで作られた本当に中身のない作品と同一視されてしまう。けれども、そうした表現で今語られるからこそ意味を持ったり、先鋭的な批評性を持ち得ている作品というのはある。そして、それはやっぱり後世に語り継がれていい。たとえ、流行の萌えキャラが活躍しようとも、である。

そして『聖少女』は語り継ぐ価値のある「少女小説」なんだとぼくは思う。

2008年02月13日

朱川湊人『かたみ歌』(新潮文庫)

books080213.jpg朱川湊人『かたみ歌』を読んだ。

直木賞受賞作『花まんま』のテイストを引き継ぐ連作短篇集である。一般的にはノスタルジック・ホラーという位置付けらしい。これがホラーなら浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』だってホラーじゃないかという気もするけれど、所詮ジャンルを語ることにさしたる意味はない。とまれ、本書は昭和40年代辺りの東京の下町を舞台に、どこかに哀しみを抱えた人々の姿を静かに優しく描いた心の物語である。怪異が扱われているのは、それが人の内面を描くのに適した題材だからだろう。いずれ、ホラーやスピリチュアルとは無縁の作品である。

今はもうない物たち、すでに失われた者たちを描く。それは、シャッター通りと化す前の下町の商店街や、携帯やネットが発達する前のコミュニケーションのありよう、より端的に往時の流行や風俗だったりする。そして、様々な理由でこの世から去ってしまった者たちが、その時を生きる者たちに語りかけてくる。語りかけられた人たちは何かを得たり、また失ったりする。不在や喪失を描くことに意識的であることは、たとえば「栞の恋」のラスト1行を読むとよく分かる。ストーリーを追うだけなら不要の1文である。これが効いている。

短篇集ながら独立した書名が付いているのは、一冊の本として読まれることを意識してのことだろうか。かたみ歌という言葉は作中に登場するわけではない。各篇ともラジオから流れてくる流行歌が印象的に扱われている。時代のかたみとしての流行歌の意だろうか。また、ある女流詩人が遺した歌の意とも読める。作中、彼女の歌はついに登場しない。にもかかわらず、彼女は物語のキーパーソンでもある。著者は以前、幻冬舎のWebマガジンで『みんな違って、みんないい』という金子みすゞの言葉をひいていた。女流詩人のモデルは彼女だろう。

どの話も、物悲しい。心の交流を繊細に捉えながら、いわゆる人情物語にしてしまわないところにこの作品の秀逸さがある。どうしようもない喪失や不在が、ほんの少しの希望や微かな共感を浮き上がらせる。手放しの明るい未来や確かな繋がりみたいなものは決して描かれない。「いい話」にならない。すべては希望にも絶望にもなり得、分かり合えるようでもあり、決して相容れないようでもある。無責任に曖昧だというのではない。その証拠に、ネット上に見られる感想を眺める限り多くの人たちがこの物語に希望や優しさを読み取っている。

もう、ミステリ界隈の連作短篇では、全篇に経糸を通すのが当たり前になっている。この作品では古書店「幸子書房」の主人がそれだ。全篇に登場し、時に狂言回しを演じながら、少しずつそのキャラクターが浮き彫りにされていく。彼の少し不思議な行動や言動が最後の1篇で腑に落ちる。とても分かりやすい。ちなみに、その最終話は冒頭の「紫陽花のころ」よりも以前の話である。そして4話目の「おんなごころ」よりは後だ。時系列になっていない。それが分かった瞬間、各話での古書店主の言葉や態度が感慨深く蘇ってくる。巧い。

ただ、この物語には酷い地雷がある。「おんなごころ」で描かれる母娘心中である。あまりに遣る瀬無い話である。もちろん、あの幼い少女を救わなかったのは、そういう話を書くべきだと著者が考えなかったからだろう。これを読んだ段階では英断だとさえ思った。けれども、最終話で再び少女が登場したとき、その評価は翻さざるを得なくなってしまった。この展開のために少女は死ななければならなかったんじゃないか。確かに邪推かもしれない。悲惨な死を死なねばならなかった少女に対する、せめてもの救いだと解釈することも可能だろう。

けれども、一度持ってしまった疑念を消すことはできない。その可能性を否定するだけの材料をぼくは見付けられずにいる。ラーメン屋のエピソードだってそれは悲惨だ。けれども、死んだ店主はちゃんと特権的な死を死んでいる。「おんなごころ」の少女にはそれがない。そして、この話の悲惨さは物語の仕掛けのためというにはあまりに重い。小さな希望や優しさを、丁寧に拾い集めるような物語にあっては看過できない瑕瑾である。もしも、ぼくの穿ちすぎだという証拠がどこかにあるなら是非教えて欲しい。心からそう思う。

もちろん、だから作品がつまらないというのではまったくない。


【収録作品】
・「紫陽花のころ」
・「夏の落とし文」
・「栞の恋」
・「おんなごころ」
・「ひかり猫」
・「朱鷺色の兆」
・「枯葉の天使」

2008年02月12日

島田裕巳『日本の10大新宗教』(幻冬舎新書)

島田裕巳『日本の10大新宗教』(幻冬舎新書)島田裕巳『日本の10大新宗教』を読んだ。

とにかく新書本来の役割を十全に果たしている良書。この分野に関する取っ掛かりを平易な表現と控えめな主観で読みやすく提供してくれる。宗教音痴なぼくなどにはとても参考になった。もちろん、著者のバイアスを折込済みのものとして考えることは大前提。まずこの10(と少し)の教団を選ぶ視点から著者の今のスタンスを反映していることは明らかだし、あとがきなどを読めば、著者自身そういう読み方をされるよう配慮している節も見受けられる。その意味でも良心的な書だと思える。過激な内容を期待して読む本ではない。

たとえば、「自分は無宗教だ」と無邪気に思っている人。「創価学会」と聞いただけで虫唾が走る人。「新興宗教=カルト」と思い込んでいる人。「宗教に頼るなんて、あんたバカぁ?」と思っている人。「オーラの泉」が好きな人。ヒーリング系のサービスや商品に興味がある人。「3分間祈らせてください」って人たち最近見ないなぁ…とか、ふと疑問に思った人。観察対象として軽く宗教に興味を持っている人。こういう人たちには激しく推奨の一冊。一方で、自分の宗教観をある程度自覚しているような人には物足りないかもしれない。

まず、取り上げられた各教団の解説は実にコンパクトである。200ページそこそこで10教団以上を概観しようというのだからこれは当然だ。教団誕生から現在までの概略に、印象的な挿話を少々。批評色がゼロではないけれど、比較的薄い。語り口は淡々としている。それが却って読みやすい。繰り返すけれども、この本が中立を守っているといっているのではない。著者の批評的な視点は随所に見られる。ただ、基礎情報により紙幅を割いている点は十分にフェアだし、教団盛衰の要因を著者なりに分析して見せる辺りは読み物としても面白い。

宗教に関する情報はインターネットからも色々と収集できる。けれども、インターネット上での言論は個人的な分、どうしても信じる側と批判的に見る側との感情的な対立が表面化しやすい。どうにも両極端になりがちな分野だけに本書のようなガイドライン的情報は貴重である。もちろん、宗教学者を任ずる以上特定宗教に入れ込むなどは論外だろう。けれども教団が起こした社会的な問題や、非信者との間で起こる摩擦などを議論の中心としないことは、心情的にも販売戦略的にも案外難しいことではないか。その姿勢は評価されて良いと思う。

ところで、著者はオウム擁護で干された学者として有名だ。本書を読む限り、この人にとっての宗教は「時代のニーズに合った救済を提供するシステム」ということになる。つまり、信者がその通りの救済を(主観的にでも)得られているならば、いかに奇矯に見えようともシステムとして評価すべきだし、信者が救われないならそれはただの誇大広告か契約不履行である。普通、そんな宗教は淘汰される。誇大広告や契約不履行が意図的ならこれは詐欺だろう。そういう意味で、世評に阿らずオウムのシステムを評価した著者の姿勢は筋が通っている。

あのとき干された経験で丸くなったわけではないだろうけれど、批評を控えめに忍び込ませた本書は悪くない入門書となっている。本書における著者の意図が当たっているなら、これを読んで新宗教を作ることだってできるかもしれない。無論、下準備(マーケティング)は必要だ。「今最もニーズのある現世利益は何か?」「それを(主観的に)実現する最も簡便な方法は何か?」といった辺りを中心に分析し、布教方法や信仰形態を作り込んでいく。また、「効果的な布教活動」と「社会との摩擦」のバランスをコントロールすることも大切だ。

こうして見ると、本書は「正しい教祖になるための入門書」でもあるようだ。


【収録内容】
・「天理教」
・「大本」
・「生長の家」
・「天照皇大神宮教と璽宇」
・「立正佼成会と霊友会」
・「創価学会」
・「世界救世教、神慈秀明会と真光系教団」
・「PL教団」
・「真如苑」
・「GLA(ジー・エル・エー総合本部)」

2008年02月06日

北森鴻『写楽・考 蓮丈那智フィールドファイルIII』(新潮文庫)

北森鴻『写楽・考 蓮丈那智フィールドファイルIII』(新潮文庫)北森鴻『写楽・考 蓮丈那智フィールドファイルIII』を読んだ。

こうしてみると、民俗学と探偵はよく似ている。民俗学は残された痕跡から遠い過去を推理する。探偵は残された痕跡からそれほど遠くない過去を推理する。いずれも、確実な答えなどない。より蓋然性の高い答えを導き出し、知り得るすべての手掛かりについて整合性が保たれているかどうかを検証する。齟齬がなければ納得する。違いがあるとすれば、民俗学のそれはあまりに対象が古く痕跡が朧である。故に、答えの幅が幾分広いかもしれない。とはいっても、探偵行為がどれほど真実に近いのかも所詮は検証不可能な場合が多い。

そんな民俗学と探偵という行為をあの手この手で繋いで、貼って、絵にして見せる。これはたぶん、そういうシリーズである。「憑代忌」では主人公らの大学で起こる不可解で危ない出来事と、とある旧家で起こる殺人事件とが同じ民俗学的モチーフを共有している。「湖底祀」では民俗学が犯罪の隠蔽に利用され、鳥居に関する考察がそれを暴く契機になっている。「棄神祭」はいわゆるハイヌヴェレ型神話を、これまた由緒あり気な家に戦後復活した祭祀と絡めて、過去の犯罪の真相を暴くという趣向になっている。

最初の2編は、正直少し食い足りない気がしないでもない。話が短いせいもあろう。「憑代忌」にもっとじっとりねっとりとした動機形成の過程があれば「まさか、そんな理由で!」という驚きもあったろうに、思わず「そんな理由かよ!」というツッコミに近い感想になってしまった。ことにワトソン役のミクニ君は憐れすぎる。「湖底祀」にしても、謎解きにそれらしいディテールと丁寧な伏線があれば、もっと素直に楽しめたかもしれない。ただし、この話、鳥居に関する考察部分が素人目には面白かった。

これらに比べると「棄神祭」はなかなかに充実している。話自体も少し長い。神が死んで豊饒を齎すというタイプの神話がモチーフとなっていて、作中の旧家に伝わる祭祀がこの種の神と結びつくことで過去の犯罪が解き明かされる。解決の糸口になったあるひと言について、読者が大団円の前に推理することはたぶん難しい。これを書くとネタバレに近いかもしれないけれど、読み終えてつい『犬神家の一族』を連想してしまった。この手のネタは無理のあることが多いのだけれど、戦争を通過することでリアリティを保っている。

さて、肝心の「写楽・考」である。これだけで他3篇ほどのボリュームがある。それに少々毛色が違っている。これが民俗学の思考を敷衍して美術史の新説を打つという実にエキサイティングな内容である。ファンサービスとしては、旗師・冬狐堂シリーズの宇佐見陶子がゲスト出演している。その彼女の采配で再現される絡繰箱が新説の要となるのである。タイトルを念頭に読み進めると、その狙いに気付いた瞬間、巧いっ!と手を打ちたくなるような面白い仕掛けになっている。ある有名なオランダの画家と繋がる展開がまたスリリングだ。

もちろん、問題の絡繰箱がフィクションの産物である以上、それを論拠とする説は物語の外に出るものではない。その意味では、高橋克彦が写楽の正体を描いて見せた『写楽殺人事件』と同様、フィクションの中でしか実効性を持たない新説ではある。けれども、何かひとつ新しい要素を補ってやるだけで、これほど痛快な説を紡ぎだせるのだともいえる。今後、高橋克彦や北森鴻が夢想したような発見が、絵画や民俗学のフィールドでなされないという保証はない。これこそが学問の最もロマンティックな一面だろう。

思えば、学問とミステリの面白さもまたよく似ている。


【収録作品】
・「憑代忌(よりしろき)」
・「湖底祀(みなそこのまつり)」
・「棄神祭(きじんさい)」
・「写楽・考(しゃらく・こう)」


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北森鴻『凶笑面 蓮丈那智フィールドファイルI』(新潮文庫)
北森鴻『触身仏 蓮丈那智フィールドファイルII』(新潮文庫)
北森鴻『写楽・考 蓮丈那智フィールドファイルIII』(新潮文庫)
北森鴻『狐罠』(講談社文庫)
北森鴻『狐闇』(講談社文庫)
北森鴻『瑠璃の契り 旗師・冬狐堂』(文春文庫)
北森鴻『緋友禅 旗師・冬狐堂』(文春文庫)

2008年02月01日

打海文三『裸者と裸者』[全2巻](角川文庫)

打海文三『裸者と裸者』[全2巻](角川文庫)打海文三『裸者と裸者』を読んだ。

とにかく、下巻でメインを張る双子がいい。もちろん、上巻の主役である海人という名の孤児も相当に魅力的だし、彼の真直ぐな心根あってこその双子だともいえる。それにしても、役者が違う。ほとんど異形といえるくらいに限りなくひとつの人格に近い双子の姉妹。彼女たちのリベラリズムは突き抜けている。姉妹の言葉にはおよそ欺瞞というものがない。翻って、現実に数多いるリベラリスト気取りのいかに欺瞞に満ちていることか。果たして、極限状態においてリベラルを貫ける自称リベラリストがどれほどいるだろう。

舞台は紛争地帯と化した日本。政府軍、反政府軍、ゲリラ、マフィア、自警団…。既に共有され得る正義も規範もなく、日常的に暴力、略奪、レイプが繰り返される。生き残るためには武装するよりなく、力のない者、知恵のない者から確実に死んでいく。海人は八歳にして孤児となり、妹と弟を守り抜くことを決意する。早とちりしてはいけない。これは健気な少年が混沌の世を生き抜く涙と感動の物語などではない。作者は悲痛な現実をことさら悲痛に描くことも、少年の無垢をことさらに謳いあげることもしない。

海人は妹弟を守るために生き、生きるために食い、食うために兵士となる。殺人を是としない健全な精神は、無垢のままであり続けることを許されない。妹弟を殺さず、仲間を殺さないために、彼はより優秀な兵士へと成長していく。彼を生かすのはブレのない健全な精神である。彼はその真直ぐな心で、真に強く心ある大人を味方につけていく。実に正統的な主人公像であり、あとがきで北上次郎が書いているように、正統的なビルドゥングスロマンといってもいいかもしれない。けれども、それは上巻だけの話である。

下巻に入ると、フォーカスは双子の月田姉妹に移る。彼女たちは成長しない。少女にして既に成っている。人格に境界がなく完全なコミュニケーションを成立させている二人は、おそらく、それ故に他者とのディスコミュニケーションを決定的に実感している。だから、一度は命を救われ、そして命を救ったこともある相手が価値観の違いから敵と化したとき、彼女たちはいう。「言葉がつうじないんだ」と。姉妹は自分たちの美意識、自分たちの正義(あるいは不正義や欲望)のために武装し、立ちはだかるすべてを粉砕して進む。

社会のルールでも法律でも不文律でも何でもいい。すべての秩序は、それがあって都合のいい人間のためのものでしかない。そこから利益を得る者がいれば、必ずどこかにその利権から排除される者がいる。であれば、制度というのは遍く差別を内包せざるを得ない。欺瞞のないリベラリストである月田姉妹は、あらゆる差別を否定する。人種、男女、性的マイノリティはもちろん、思想的、宗教的マイノリティさえ認める。相容れることない敵をも認める。否応なく、月田姉妹は混沌を志向する。銃を持ち、秩序を破壊する。

海人と月田姉妹、対照的なふた組の主人公を通して描かれるのは、一見いかにも救いようの無い現実である。ラスト、物語は一応の小休止を迎えるものの、それで何かが終わったわけではない。停戦成るも、まだまだ情勢は不安定である。そんな中、一個の悲劇が主人公たちを襲う。そこで幕となる。この2冊は、そもそも大長編の第1部となるべく書かれたものであるらしい。なるほど、世界は本の外へと続いている。けれども、続篇『愚者と愚者』を遺して、著者打海文三が急逝。シリーズは未完のままとなってしまった。

けれども、そんなことに頓着する必要もないくらいに面白い。


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打海文三『裸者と裸者(上) 孤児部隊の世界永久戦争』(角川文庫)
打海文三『裸者と裸者(下) 邪悪な許しがたい異端の』(角川文庫)
打海文三『愚者と愚者(上) 野蛮な飢えた神々の叛乱』(角川書店)
打海文三『愚者と愚者(下) ジェンダー・ファッカー・シスターズ』(角川書店)

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名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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