滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(角川文庫)

滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(角川文庫)滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ 』を読んだ。

映画が思いの外面白くて読む気になった。このパターンは悪くない。逆だと大抵不満が残る。映画版はうまくコンパクトにまとめながら、かなり原作の要素を忠実に切り取っていたようだ。舞台となる場所の逆転をはじめ、違いはもちろん色々あるだろう。いちいち確認しながら読んだわけではないから、どこがどう違うかを列挙することはできないし、することに意味があるとも思えない。そもそも、そんな悠長な読み方を許すほどテンションの低い作品ではない。文章自体は良くも悪くもイマドキで、癖がなくて読みやすい。

要するにアレだ、ツンデレだろ。そういう楽しみ方もあると思う。ニート青年に突如小説の神様が降りてきて書き上げられた、これはそんな作品である。だから、多少、オタクっぽい匂いがしても不思議ではないし、それが良い意味で活きてもいる。心に鬱屈したものを抱えた若者ほど、無駄に色々なことを考える。人生について考えるなどは最悪で、見聞を広め、賢くなるほどに、人生などおおよそどうにもならないものだということが分かってくる。社会的成功?ナニソレ?金やセックスで幸せになれるほど、イマドキの若者は単純ではない。

主人公の陽介は、実にバランスの取れた高校生だ。おそらく、物語が始まるまでの彼は、若くして「それなり」というものを体現していただろう。そんな彼が親しい友人、能登の死で少しずつ変わり始める。ありふれてはいるけれど、物語的必然であり避けられない。「生きることは苦しみである」という仏陀の言葉を引くまでもなく、多少なりとも人生に疑問を持ったことのある人間は、そのことを実感している。恙無いが何もない。そんな人生はほとんど恐怖といってもいい。求めるのは、生きているという実感であり、充実した死である。

陽介は、能登に先を越された、そう感じている。能登の死は、もちろん無意味である。それはよくある若者のバイク事故に過ぎない。フルスピードでコーナーに突っ込み、激突。それが無意味な死だというようなことは陽介だって分かっている。それでも、陽介には能登が先に逝った戦友に見えている。否、見たいからそう見えているといった方がいいかもしれない。戦友といっても何と戦っているのかは本人にも分からない。敵が見えないほど厄介なことはない。ところが、だ。陽介はそれを一挙解決する出来事に遭遇する。

絵理との出逢いであり、イクォール、チェーンソー男との出逢いである。この「悪」を体現する怪物こそ、陽介にとっての福音である。絵理はこの怪物こそが世界に溢れる悲しみの元凶なのだという。そして、自分にしかそれは倒せないのだと。こうして、陽介は美少女が見付けた「敵」に相乗りする。これでこれまで見えなかった敵が荒唐無稽な不死身のチェーンソー男としてめでたく可視化されたわけだ。けれども、それはまだ、哀しいかな絵理の敵である。相乗りでは、まだ足りない。それは結局のところ自分の人生ではない。

だから、夜毎繰り広げられる美少女対怪物のバトルは牧歌的にマンネリ化していく。そして陽介はやはり消極的な当事者でしかない。こうして、充実した死へと向かっていたはずのテンションは、いつか訪れる死への低空飛行でしかなくなってしまう。この「いつか」は明日からダイエットの「明日」と同種の空手形である。そんな「それなり」の冒険に再び訪れる危機は陽介の転校である。これまた確かにありふれている。けれども、やはり必然だといってしまおう。危機は即ち敵である。そして、今度こそは陽介自身の敵である。

ようやく現れた陽介自身の敵。これで、物語は本当の意味で転がり始める。クライマックスへ向けて一気にテンションをあげていく。この辺りの呼吸は、ほとんど神懸りといってもいい。ここでページを繰る手を止められる人は、鋼の意志の持ち主に違いない。ともあれ、陽介はようやく自らの人生の主人公となる。求めていた最高のエンディングへと向かう最後の直線をひた走る。そして、希望は砕かれる。一見、砕かれたように見える。けれども、これはひとつの価値観の崩壊でしかなく、それは場合によっては成長と呼ばれたりもするものだ。

こうして彼らは腑に落ちないながらも「それなり」の意味を知る。

イマドキの若者を描きながら、生きる希望を示そうとする熱い小説である。

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