朱川湊人『かたみ歌』(新潮文庫)

books080213.jpg朱川湊人『かたみ歌』を読んだ。

直木賞受賞作『花まんま』のテイストを引き継ぐ連作短篇集である。一般的にはノスタルジック・ホラーという位置付けらしい。これがホラーなら浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』だってホラーじゃないかという気もするけれど、所詮ジャンルを語ることにさしたる意味はない。とまれ、本書は昭和40年代辺りの東京の下町を舞台に、どこかに哀しみを抱えた人々の姿を静かに優しく描いた心の物語である。怪異が扱われているのは、それが人の内面を描くのに適した題材だからだろう。いずれ、ホラーやスピリチュアルとは無縁の作品である。

今はもうない物たち、すでに失われた者たちを描く。それは、シャッター通りと化す前の下町の商店街や、携帯やネットが発達する前のコミュニケーションのありよう、より端的に往時の流行や風俗だったりする。そして、様々な理由でこの世から去ってしまった者たちが、その時を生きる者たちに語りかけてくる。語りかけられた人たちは何かを得たり、また失ったりする。不在や喪失を描くことに意識的であることは、たとえば「栞の恋」のラスト1行を読むとよく分かる。ストーリーを追うだけなら不要の1文である。これが効いている。

短篇集ながら独立した書名が付いているのは、一冊の本として読まれることを意識してのことだろうか。かたみ歌という言葉は作中に登場するわけではない。各篇ともラジオから流れてくる流行歌が印象的に扱われている。時代のかたみとしての流行歌の意だろうか。また、ある女流詩人が遺した歌の意とも読める。作中、彼女の歌はついに登場しない。にもかかわらず、彼女は物語のキーパーソンでもある。著者は以前、幻冬舎のWebマガジンで『みんな違って、みんないい』という金子みすゞの言葉をひいていた。女流詩人のモデルは彼女だろう。

どの話も、物悲しい。心の交流を繊細に捉えながら、いわゆる人情物語にしてしまわないところにこの作品の秀逸さがある。どうしようもない喪失や不在が、ほんの少しの希望や微かな共感を浮き上がらせる。手放しの明るい未来や確かな繋がりみたいなものは決して描かれない。「いい話」にならない。すべては希望にも絶望にもなり得、分かり合えるようでもあり、決して相容れないようでもある。無責任に曖昧だというのではない。その証拠に、ネット上に見られる感想を眺める限り多くの人たちがこの物語に希望や優しさを読み取っている。

もう、ミステリ界隈の連作短篇では、全篇に経糸を通すのが当たり前になっている。この作品では古書店「幸子書房」の主人がそれだ。全篇に登場し、時に狂言回しを演じながら、少しずつそのキャラクターが浮き彫りにされていく。彼の少し不思議な行動や言動が最後の1篇で腑に落ちる。とても分かりやすい。ちなみに、その最終話は冒頭の「紫陽花のころ」よりも以前の話である。そして4話目の「おんなごころ」よりは後だ。時系列になっていない。それが分かった瞬間、各話での古書店主の言葉や態度が感慨深く蘇ってくる。巧い。

ただ、この物語には酷い地雷がある。「おんなごころ」で描かれる母娘心中である。あまりに遣る瀬無い話である。もちろん、あの幼い少女を救わなかったのは、そういう話を書くべきだと著者が考えなかったからだろう。これを読んだ段階では英断だとさえ思った。けれども、最終話で再び少女が登場したとき、その評価は翻さざるを得なくなってしまった。この展開のために少女は死ななければならなかったんじゃないか。確かに邪推かもしれない。悲惨な死を死なねばならなかった少女に対する、せめてもの救いだと解釈することも可能だろう。

けれども、一度持ってしまった疑念を消すことはできない。その可能性を否定するだけの材料をぼくは見付けられずにいる。ラーメン屋のエピソードだってそれは悲惨だ。けれども、死んだ店主はちゃんと特権的な死を死んでいる。「おんなごころ」の少女にはそれがない。そして、この話の悲惨さは物語の仕掛けのためというにはあまりに重い。小さな希望や優しさを、丁寧に拾い集めるような物語にあっては看過できない瑕瑾である。もしも、ぼくの穿ちすぎだという証拠がどこかにあるなら是非教えて欲しい。心からそう思う。

もちろん、だから作品がつまらないというのではまったくない。


【収録作品】
・「紫陽花のころ」
・「夏の落とし文」
・「栞の恋」
・「おんなごころ」
・「ひかり猫」
・「朱鷺色の兆」
・「枯葉の天使」

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