倉橋由美子『聖少女』(新潮文庫)

倉橋由美子『聖少女』(新潮文庫)倉橋由美子『聖少女』を読んだ。

2005年に著者が亡くなったとき、その特異な作家性を話題にしたブログや掲示板の書き込みをよく目にした。以来、気にはなっていた。にもかかわらず、新刊書店で巡り会うことがなかったせいでこれまで手に取らずにきた。特別意識して探すこともしなかったのだけれど、偶然、文庫が新刊と一緒に平台に乗っているのを見付けた。直木賞作家となった桜庭一樹の解説と帯がついて復刊されたものらしい。迷わずレジに連れ去った。古い本(といっても、明治や江戸の話ではない)が手に入り難いというのは、いかにも不自由なことだ。

この本には、不可能な純粋さというあまりにも普遍的な悲喜劇が描かれている。こういういい方をするととても観念的な小説に思えるかもしれない。事実そうなのだし、それを見つめる作家の視線はあくまでも冷徹である。たとえば、ヒロイン未紀は「パパ」との近親相姦を少女的聖性を手にするための貴族的なアイテムとして積極的に希求する。一方、未紀と対置されるKは姉との近親相姦を俗性の象徴として否定しながら、精神的には一向にそこから抜け出せない。未紀とK、ふたつの近親相姦、聖と俗。とても分かりやすい。

Kは自分を俗と見做しながら、未紀の聖性を求める。それは未紀「に」聖性を求めることとほとんど同義だ。その意味で、ふたりの交わりははじめから破綻しているといってもいい。しかも、Kはこの物語の記述者でもある。さらにややこしいことには、Kが読み進む未紀の手記というのが彼女の過去を知る唯一の手掛かりとして提示される。はたして、手記に描かれるパパと未紀との関係は真実なのか、あるいは未紀の手になる創作なのか。ミステリ的にいうなら、Kは探偵役を演じ、未紀の真実に近付いていく。

こんな、いかにも観念的でメタフィクショナルな構造の物語が、いかにも湿度の高い少女小説として読める。これが読者を選ぶ。そんな気がする。今時スノッブでおフランスなディテールに酔えるような無垢な読者などそうはいないだろう。また、自意識の牢獄に繋がれた若い男女の見るも痛々しい貴族的退廃に、憧憬の念を抱かせるだけの力はたぶんもうない。近親相姦を含む性的なものに対する幻想も、それを女流作家が語ってみせることも、今となってはさして珍しいものではなくなってしまった。

だから、この作品が上梓された1965年当時の若い読者が受けただろう衝撃を、これから読む新しい読者が追体験することは難しい。これはあらゆるエポックメイキングな作品が持つ宿命的な性質である。つまり、スタイルにおけるある種の陳腐さは、決してこの本の瑕ではない。一方で、この作品の観念的な側面は時代を超えた普遍性を備えている。今でいうなら、いかにもオタク向けのアニメやラノベ的な作品から、時折、突然変異のように強烈な衝撃を持って文学的な作品が生み出されるのに近い感覚かもしれない。

そうした作品たちは、いかにもな萌えキャラが跋扈し、オタクの間で話題の固有名詞が頻出したりする大層同時代的で陳腐な表現を借りていることが多い。そして、その「いかにも」な表現が評価を誤らせる。大多数の流行の絵柄と萌え要素だけで作られた本当に中身のない作品と同一視されてしまう。けれども、そうした表現で今語られるからこそ意味を持ったり、先鋭的な批評性を持ち得ている作品というのはある。そして、それはやっぱり後世に語り継がれていい。たとえ、流行の萌えキャラが活躍しようとも、である。

そして『聖少女』は語り継ぐ価値のある「少女小説」なんだとぼくは思う。

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