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2005年08月30日

若合春侑『腦病院へまゐります。』(文春文庫)

若合春侑『腦病院へまゐります。』(文春文庫)若合春侑『腦病院へまゐります。』を読んだ。

これは強烈だ。

そもそもが陰鬱淫靡な表題に惹かれて選んだ本である。多少のことでは驚かないつもりだった。それがどうだ。自分の内臓に頭を突っ込んだようなこのネットリとした不快感はいったい何だ。読んでいるだけで周りの空気がどろりとその性質を変えてしまう。恐ろしい。しかも、ひと度その不快の泥沼に足をとられると、もう後戻りはできないのだ。

アブノーマルを描くこと自体は容易い。今はそういう時代だと思う。だからもう、ありふれたアブノーマルに何かを訴える力なんてない。SMもスカトロもインプラントもタトゥーもスプリット・タンも、空虚な体を舞台に描かれるそれらに本当の共感や嫌悪などありはしない。

若合春侑が描くアブノーマルはそんな空虚さとは無縁だ。血肉と情念がみっしりと詰まっている。軽い気持ちで読んだりすれば、毒気に中てられ青褪めること必至である。といって、逃げ腰になることはない。こういうものを読んでヌルヌルと厭な汗をかく。そんな気持ち悪い愉しみに身を任せてみるのも悪くはない。それこそ強烈な文学体験というものだ。

特に表題作の旧字によるへばりつくような文面は、その内容と相俟ってしつこく頭にまとわりついてくる。併録の「カタカナ三十九字の遺書」は普通の文面なのだから、これは完全に著者の仕掛けということになる。空恐ろしいデビュー作である。

大正、昭和を舞台に繰り広げられる情痴と情念の物語は、読む者を穴倉の底に誘い込んだままその口を閉じてしまう。そこはただただ真っ暗なばかりだ。けれども、分かっていてもまた覗かずにはいられないのが人間というものだろう。うんこを食わされ乳首を焼かれてもその人に逢いたいと願う人妻のように。

ここまでくれば、滑稽、滑稽。

こんなものを書ける作家はそういない。

2005年08月26日

冲方丁『マルドゥック・スクランブル』(ハヤカワ文庫)

冲方丁『マルドゥック・スクランブル』(ハヤカワ文庫)冲方丁『マルドゥック・スクランブル』を読んだ。

全3巻からなる長編SF作品だ。「今ここにいる」意味。「わたし」である意味。流行らない自分探しの言葉をリフレインしながら物語は進む。著者の言葉を借りるなら、これは「少女と敵と武器についての物語」である。

正直にいえば、ぼくは「少女」が主人公というだけでうんざりするようなところがある。読む前からその属性にある種のステレオタイプを見るからだ。

家庭不和、トラウマ、性、ドラッグ、死…。

もう、古典的とさえいいたくなるラインナップ。これらの順列組み合わせで形作られる少女像に、ぼくの感性はほとんど麻痺しかけている。つまり、こんなのはただの初期設定に過ぎない、キャラクター造形でもなんでもない、と思っている。そして、この物語の主人公バロットもその例に漏れず、「古典的少女像」の域を出てはいない。

そして「敵」。これは解釈を広げれば広げるほど漠然としたものになってしまう性質のものだ。本当の敵は少女を食い物にする社会そのものだとか、実は己の心こそが一番の敵だとか。ここではその種の話はひとまずおいて、極々直接的な敵についてだけ書いておく。

彼の名はボイルド。彼が背負っている過去もまた、魅力的な敵にありがちな典型のひとつといえる。そして、だからこそ主人公との間に一筋の心の交流があり得るという流れも実に古典的だ。ぼくとしては『北斗の拳』に倣い、「宿敵」と書いて「とも」と読みたいくらいである。

こんな具合に、主要キャラが一種のステレオタイプであるにも関わらず、『マルドゥック・スクランブル』は十分以上に魅力的で個性的な作品だ。たとえば、著者の尋常ならざる語りの力は、2巻から3巻で描かれるカジノのシーンに特に顕著だ。こんなSFは想像を超えている。そして、ここに出てくるスピナーとディーラーこそ、この物語の中で最も魅力的なふたりだとぼくは思っている。

けれども、物語最大の魅力はなんといっても「武器」の描き方にある。もちろんただの武器であるわけはない。それの名はウフコック。「煮え切らない」という意味の言葉をその名に持つ武器が、殆どこの物語のオリジナリティを一身に背負っているといっていい。この文字通り最強の「武器」を得て、『マルドゥック・スクランブル』は平凡な美少女SFの域を軽々と超えることに成功した。

少女と敵と武器の物語。

それはとても骨のあるエンターテイメントだった。


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冲方丁『マルドゥック・スクランブル―The First Compression 圧縮』(ハヤカワ文庫)
冲方丁『マルドゥック・スクランブル―The Second Combustion 燃焼』(ハヤカワ文庫)
冲方丁『マルドゥック・スクランブル―The Third Exhaust 排気』(ハヤカワ文庫)

2005年08月21日

高田崇史『QED -ventus- 熊野の残照』(講談社ノベルス)

高田崇史『QED -ventus- 熊野の残照』(講談社ノベルス)高田崇史『QED -ventus- 熊野の残照』を読んだ。

事件よりも歴史の謎解きが主眼のこのシリーズも、とうとう第10弾まできてしまった。デビュー作『QED 百人一首の呪』を読んだときは、こんな考証だらけの作風がそうそう続くはずがないと思ったけれど、それがもう10冊を数えるというのだから、著者の歴史好きには頭が下がる。

しかも今回の舞台は熊野。実にタイムリーだ。

このシリーズの魅力は、何といっても著者の歴史観に基づく史料解釈の面白さ、これに尽きる。ミステリ部分なんて、悪くいえば刺身のツマみたいなもの。歴史が動機の形成に重大な影を落としていたりはするものの、だからといってその土地の歴史の闇を滔々と語る必然性があるわけではない。著者はそもそも殺人事件なんて書きたくはないのかもしれない。今回の作品はそんな傾向をさらに推し進めた感がある。

なんと最初から最後まで事件が起きない。

熊野の歴史と、ある女性の過去。ふたつの真実に向けて物語は進む。ただし、探偵役のタタルは今回、完全に歴史についてしか語らない。女性の過去については、独白と回想によって読者にのみ示される。つまり物語のふたつの軸は、表面上、交わることはない。ただ、その道行きで問題の女性が精神的に救われる可能性が示唆されるにとどまる。

さて、このシリーズ、一応はミステリなわけだから、それらしい仕掛けもあるにはある。ただ、今回のそれは本当にオマケのようなもので、著者自身ほとんど重要視していないように見受けられる。要するにバレバレなのだ。いつもと視点が違っている。勘のいい読者なら、それだけで、出だしから疑いを持つだろう。そして、その予測はおそらく当たっている。

歴史解釈については、最近の著者お得意のパターンだ。勝者の理論によって歴史の闇に葬られたまつろわぬ神々とその眷属たち。史料や伝承に残された様々な痕跡から、彼らの存在を浮かび上がらせる。この辺りの作法は既に手馴れたもの。安心して愉しむことができる。

ただ、やっぱり歴史講義的な部分には読み辛さを感じてしまう。正確を期するためだろうけれど、あまり頻繁に史料やそれに類するものが出てくると、ぼくのような歴史音痴には少々苦しい。多少考証の信憑性を犠牲にしても、もう少しエンターテイメントに配慮してもらいたい。ただし、そうするとディープな歴史ファンの期待を裏切ることになるのかもしれないわけで、一概に欠点とはいい辛いのも事実だ。個人的には史料過多の傾向がこれ以上進まないことを願う。

それはさておき、こうした歴史ミステリの傾向のひとつに旅情というのがある。例えば内田康夫の本を読んで、舞台となった土地を旅先に選んだ、なんて話はよくあるらしい。QEDシリーズはその土地の闇を語ることが多い。だから旅情というのとは少し違うのだけれど、何故か実際に見てみたいと思う場面が多く出てくる。

熊野古道に熊野三社。やはり一度は行ってみたいと思う。

2005年08月14日

井上雅彦監修『異形コレクション オバケヤシキ』(光文社文庫)

井上雅彦監修『異形コレクション オバケヤシキ』(光文社文庫)井上雅彦監修『異形コレクション オバケヤシキ』を読んだ。

律儀にもお盆にちなんでみたわけだ。怪談と夏にどんな関係があるのかは知らないけれど、夏には夏らしく振舞うのが季節を楽しむということだろう。考えてみればホラーらしいホラー小説を、ずいぶん長く読んでいなかった気がする。

ぼくは初期の頃の「異形コレクション」を何冊か持っている。廣済堂文庫から出ていたものだ。いつの間にか版元を光文社に移し、もう通算で33冊目にもなるらしい。よく続いている。要するに広義のホラー・アンソロジーで、毎回テーマに合わせた書下ろし短編がたっぷり読める。今回のテーマはそのものズバリのオバケヤシキ。そこには19もの趣向を凝らしたアトラクションが用意されている。プロの作家による18篇と、公募により選ばれた最優秀作が1篇。実にバラエティに富んでいる。

一口にオバケヤシキといってもその守備範囲は広い。遊園地にあるそれはもちろん、廃墟となった邸宅や、開かずの間、住居人が居付かないマンションの一室など、例を挙げればキリがない。一篇読み終えるたび、次はどんな場所に連れて行ってもらえるのかと、ページを繰る手が止められない。

ホラーが苦手だという人がいる。逆に、ホラーはツマラないという人もいる。ぼくはホラーが好きだけれど、どちらの気持ちも解からなくはない。

ぼくは幼い頃から怖いもの見たさに逆らえない性格だった。怖がりの癖に、だ。お陰で、夜眠れなくなったことも一度や二度ではない。小学生にあがり自室を与えられ、ついに念願のベッドを買ってもらった時もそうだった。昼間見たオカルト本が脳裏にへばりついたまま離れない。結局、掛け布団と枕を引き摺って、両親の寝室に押しかけることになった。

それでも怖いもの見たさは治らず、そのうち今度は耐性がついてしまった。怖さを演出するパターンに慣れ、想像の恐怖に怯える無意味を悟ったわけだ。冷静は恐怖の敵である。要するにホラーを冷静に眺めるようになってしまったのだ。これで、一気にホラーがツマラなくなった。怖いもの見たさというのは、文字どおり怖いものに対する好奇心であって、どうせ怖くないとなれば興味を失って当然だ。

それでも、何故か完全にホラーから離れることはなかった。映画の影響は大きい。コケ嚇しばかりじゃない面白さがそこにはあった。以来、想像力を喚起する悦びや、著者の工夫や趣向を愉しむ術を覚えた。

ホラーというのはかなりの部分をテクニックに負うジャンルだと思う。つまり、職人的な追求がホラーを面白くするわけだ。映像のない小説では、さらに想像を掻き立てるようなもてなしが必要となる。そして、その技術の粋を凝らした舞台で、読者は思う存分想像の羽を広げ、著者の歓待を受けるのである。なんてサービス精神旺盛なエンターテイメント・ジャンルだろう。ここに遊ばない手はない。

たった一冊の本で、暑いばかりの部屋が極上のホラー・アトラクションに変わるかもしれないのである。


【収録作品】
・西崎憲「週末の諸問題」
・加門七海「美しい家」
・南条竹則「ゴルフ場にて」
・倉阪鬼一郎「四」
・三津田信三「見下ろす家」
・福沢徹三「お化け屋敷」
・小中千昭「DEATH WISH」
・樋口明雄「マヨヒガ」
・安土萌「世界のどこかで」
・北原尚彦「屍衣館怪異譚」
・山下定「テロリスト」
・桜庭一樹「暴君」
・大槻ケンヂ「ロコ、思うままに」
・森真沙子「昼顔」
・井上雅彦「彼と屋敷と鳥たち」
・菊地秀行「二階の家族」
・朝松健「邪曲回廊」
・丸川雄一「轆轤首の子供」

2005年08月12日

米澤穂信『春期限定いちごタルト事件』(創元推理文庫)

米澤穂信『春期限定いちごタルト事件』(創元推理文庫)米澤穂信『春期限定いちごタルト事件』を読んだ。

内容は青春でミステリ。謎の種類は日常系。随分前に北村薫という作家が、その端正なデビュー作『空飛ぶ馬』で開拓した「日常の謎」ミステリ。ずいぶんたくさんのフォロアーを生んで、いまや完全に1ジャンルとして定着している。一見取るに足らない謎を面白く見せ、大きな驚きにつなげなきゃならない。実はかなり難しいジャンルだと思う。

その点、この本は連作の利点を巧く利用して飽きさせない構成になっている。確かに個々の短編で扱われる謎と真相は少々小粒な印象だ。けれども、この手の連作では常套ともいえる手法ながら、全体を通して読む楽しみもちゃんと用意されていて十分に楽しめる。多分この手法の先駆は若竹七海の『ぼくのミステリな日常』で、これはその完成度の高さと共に、新しい手法を発明したという意味でも必読の傑作ミステリだ。未読の方は是非。

『春期限定いちごタルト事件』のもうひとつの魅力は、青春モノとしての微妙なハズし具合だろう。高校生たちが主人公なのに、彼らはどうも青春ときいて連想する色々な属性からは、ちょっとズレたところにいる。恋愛や友情がまったく重要な位置を占めていないし、暗く俯いて悩み多き年頃といった風情もない。それもそのはず、主人公2人の目標は、人畜無害、完全無欠の「小市民」なのである。

この妙な設定がキャラクター小説的な魅力にもなっている。どうしてそんな目標を持つに到ったのか、という当然の疑問がそのままキャラクターへの興味に繋がる。一筋縄ではいかなそうな予感がする。連作を読み進むに従って、少しずつ彼らの背景が見えてくるのだけれど、決して答えは見せてくれない。この辺りの匙加減はなかなかに絶妙だ。

青春、コメディ、ライトミステリ。こんなに爽やかな組み合わせでちゃんとコミカルなのに、そこはかとなく漂うシニカルな匂い。妙に可愛らしい表紙は何かの策略か(昨今隆盛を極めつつあるライトノベル読みを当て込んだ販売戦略かもしれない…)。

続編を読みたいと思う。

2005年08月09日

いしいしんじ『麦ふみクーツェ』(新潮文庫)

いしいしんじ『麦ふみクーツェ』(新潮文庫)いしいしんじ『麦ふみクーツェ』を読んだ。

粗筋だけを思い返してみるとずいぶんとシビアなお話だ。「ねこ」と呼ばれる少年の人生はなかなかに甘くない。その風当たりの強さは、苦難の人生といっていいかもしれない。

ところが、不思議と悲壮感はない。

それがこの著者の特徴だと思う。一見不条理に見えるエピソードを独特のリズムで詩情豊かに語り、人が生きることの悲しみや可笑しみをじわじわと描き出す。条理と不条理の境界は巧みにぼかされて、知らない間に、童話的とも寓話的ともいえる心地好い世界に引き込まれてしまう。

とん、たたん、とん

麦ふみのリズムはいつしか音楽となって世界を満たす。麦ふみにいいも悪いもない。素数にとり憑かれた数学者、三千年の記憶を持つ生まれ変わり男、盲目のボクサー、心を読んで詐欺を働くセールスマン、雷に打たれギクシャク歩く用務員、先天性全色盲の娼婦の娘…。全て人々の上に等しく祝福の音は奏でられる。

やがて少年は自分たち家族の過去を知る。

辛いことも苦しいこともある。それでもすばらしいと思えるものはきっとある。黄色の大地。麦ふみクーツェ。「ねこ」と「みどり色」の合奏に、ぼくの胸はいっぱいになってしまった。

これ以上ない幸福な傑作。

2005年08月03日

J.G.バラード『コカイン・ナイト』(新潮文庫)

J.G.バラード『コカイン・ナイト』(新潮文庫)J.G.バラード『コカイン・ナイト』を読んだ。

著者はかなり著名なイギリスの作家だ。とはいっても、ぼく自身はこれまでその著作を読んだことはない。海外文学には二の足を踏む性質なのだ。だから、ぼくにとっては初バラード作品である。

これがまた恐ろしく端正な傑作だった。

表面上ミステリの形式をとっているので、まず娯楽作品としてとても読みやすい。にも拘らず、そこに描かれる現代社会のどん詰まりの姿は、ただのフィクションとして看過できない強烈なメッセージを放っている。

現代社会について語るとき「病理」という言葉がついて回るようになって久しい。成熟した社会はただ生きるために生きることを難しくする。そこに「意味」を求め始めるからだ。これこそが不幸の始まりなのかもしれない。そこで著者は、労働と余暇によって成り立つ成熟社会の先端に、労働すら不要となった「余暇社会」を描き出してみせる。

ダラダラと寝て食って糞をする。それ以外は何もせずとも老いて死ぬまで生きることができる。そんな環境下で、人は果たして充実した生を送ることができるのか。

実験は始まっている。

しなければならないことが何ひとつない。すること全てに意味がない。ただただ死ぬまで暇を潰し続けるだけ。これは辛い。とんだ楽園である。人々は精神科医から処方された薬で半ば朦朧としながら、衛星アンテナが受信する映像を見るともなく見、一日ソファやベッドの上に寝転がって過ごす。殆ど死んでいるのと変わらない。

そんな墓場同然の余暇社会をたった一人で変えてしまった男がいる。彼は街に活気を取り戻し、朦朧となった心に命を吹き込む。その方法こそが、この小説のキモとなる。病理に打ち勝つための病理。たったひとつの処方箋。

最初に提出される放火殺人の謎と、最後に主人公が選ぶ道。それらが綺麗な円環をなし、ひとつに重なる構造はみごとという他ない。そして、処方箋は引き継がれていく。

確かにこの薬は毒と呼ばれるものかもしれない。

けれども、この処方に異を唱えるのは難しい。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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