高田崇史『QED -ventus- 熊野の残照』(講談社ノベルス)

高田崇史『QED -ventus- 熊野の残照』(講談社ノベルス)高田崇史『QED -ventus- 熊野の残照』を読んだ。

事件よりも歴史の謎解きが主眼のこのシリーズも、とうとう第10弾まできてしまった。デビュー作『QED 百人一首の呪』を読んだときは、こんな考証だらけの作風がそうそう続くはずがないと思ったけれど、それがもう10冊を数えるというのだから、著者の歴史好きには頭が下がる。

しかも今回の舞台は熊野。実にタイムリーだ。

このシリーズの魅力は、何といっても著者の歴史観に基づく史料解釈の面白さ、これに尽きる。ミステリ部分なんて、悪くいえば刺身のツマみたいなもの。歴史が動機の形成に重大な影を落としていたりはするものの、だからといってその土地の歴史の闇を滔々と語る必然性があるわけではない。著者はそもそも殺人事件なんて書きたくはないのかもしれない。今回の作品はそんな傾向をさらに推し進めた感がある。

なんと最初から最後まで事件が起きない。

熊野の歴史と、ある女性の過去。ふたつの真実に向けて物語は進む。ただし、探偵役のタタルは今回、完全に歴史についてしか語らない。女性の過去については、独白と回想によって読者にのみ示される。つまり物語のふたつの軸は、表面上、交わることはない。ただ、その道行きで問題の女性が精神的に救われる可能性が示唆されるにとどまる。

さて、このシリーズ、一応はミステリなわけだから、それらしい仕掛けもあるにはある。ただ、今回のそれは本当にオマケのようなもので、著者自身ほとんど重要視していないように見受けられる。要するにバレバレなのだ。いつもと視点が違っている。勘のいい読者なら、それだけで、出だしから疑いを持つだろう。そして、その予測はおそらく当たっている。

歴史解釈については、最近の著者お得意のパターンだ。勝者の理論によって歴史の闇に葬られたまつろわぬ神々とその眷属たち。史料や伝承に残された様々な痕跡から、彼らの存在を浮かび上がらせる。この辺りの作法は既に手馴れたもの。安心して愉しむことができる。

ただ、やっぱり歴史講義的な部分には読み辛さを感じてしまう。正確を期するためだろうけれど、あまり頻繁に史料やそれに類するものが出てくると、ぼくのような歴史音痴には少々苦しい。多少考証の信憑性を犠牲にしても、もう少しエンターテイメントに配慮してもらいたい。ただし、そうするとディープな歴史ファンの期待を裏切ることになるのかもしれないわけで、一概に欠点とはいい辛いのも事実だ。個人的には史料過多の傾向がこれ以上進まないことを願う。

それはさておき、こうした歴史ミステリの傾向のひとつに旅情というのがある。例えば内田康夫の本を読んで、舞台となった土地を旅先に選んだ、なんて話はよくあるらしい。QEDシリーズはその土地の闇を語ることが多い。だから旅情というのとは少し違うのだけれど、何故か実際に見てみたいと思う場面が多く出てくる。

熊野古道に熊野三社。やはり一度は行ってみたいと思う。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/161

comment - コメント

コメントを投稿

エントリー検索