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2007年01月27日

山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』(河出文庫)

山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』(河出文庫)山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』を読んだ。

この作品は第41回文藝賞を獲っている。高橋源一郎の解説に、選考会での田中康夫との会話が引かれている。「なにがいいって、要するにセンスだよね」…どちらの台詞かは判然としない。いずれにしろ、お互い異論はなかったようだから、ふたりともそう思っていたんだろう。

著者のセンスというやつがとにかく顕著なのは、なんといってもこのタイトルである。このタイトルと著者名を目にして、何も感じないでいる方が難しい。ただし、それが必ずしもプラスに働くとは限らない。実をいうと、ぼくはゲンナリしてしまったクチだ。

女流で、セックスがどうだとかいう話で、言葉の組み合わせが目新しくて、サクっと読みやすい文体で…云々。本を開きもせず、強烈な先入観を持った。たとえば、山田詠美みたいなものを連想して、そういうのはもういいかな、という気持ちになっていた。

それを手に取ったのは、文庫がたまたま平置きされていたことと、ちょっと軽い本を読みたいような気分とが重なったせいだ。書店で数頁追ってみると、適度に狙ったような文章が意外に厭味でもなかった。あまり腹にくる小説よりもこのくらいがいい、そう思った。

タイトルの印象に比して、中身はずいぶんと繊細だった。

語り古された恋愛についてのいくつかのことを、けれども、まったく新しい言葉で語り直している。意外ではない色々なことが、まったく意外な言葉で綴られている。センスというのは、つまりこういうことかと、読み進む内に分かったような気になった。

タイトルは主人公が神に向けた祈りの言葉からとられている。これには意表をつかれた。まるで内向きな小説なのである。19歳の主人公が39歳の人妻と不倫する。そんな設定に相応しいだけの湿気も、情念も、ここにはない。要するに性的な匂いがない。

不倫を描き、セックスを描きながら、そこに性の存在は希薄である。主人公の磯貝に男としてのシンボリックな性質はなく、相手のユリに女性らしさや母性のようなものは感じられない。性的に淡白だというのではない。そもそもジェンダーもセックスも存在しないように見える。

その感性に惹かれた。

だから、併録されている掌編「虫歯と優しさ」には戸惑わされた。トランスジェンダーを扱うなんて、退行じゃないかと思ってしまったのである。その分、この掌編は分かり易い。物語らしい物語になっているといってもいい。ただ、表題作ほどのセンスは感じられない。

言葉に対すると感性と、世界に対する感受性。

表題作はそれらがふたつながらに成った奇跡の短篇なのかもしれない。

2007年01月26日

蒼井上鷹『二枚舌は極楽へ行く』(双葉ノベルス)

蒼井上鷹『二枚舌は極楽へ行く』(双葉ノベルス)蒼井上鷹『二枚舌は極楽へ行く』を読んだ。

デビュー作『九杯目には早すぎる』が話題だったにもかかわらず、それを飛ばして2作目を読んでしまった。寄った書店に在庫がなかったせいだ。まあ、読む順序に意味があるような作風でもなかろうと判断して買ってみた。これが意想外に面白い。

ただ、真直ぐな面白さではない。どちらかといえば奇妙な味わいの作品である。といって、ブラック・ユーモアという括り方は、必ずしも的を射ているとは思えない。一方で、ミステリ色は色濃いけれども、推理小説的な要素が面白味の中心とも思えない。

割り切れる面白さと割り切れない面白さがうまく同居している。このバランス感覚は独特のものだ。それは各話のテイストにもいえる。一見ビターなばかりのようでいて、1篇だけスイートな話が織り込まれていたりする。これがいかにも悪くない。

全体としては12篇からなる1冊で、連作だとかいうほどに共通点を持った話ではない。ただし、イマドキの流儀としてそれぞれを繋ぐ糸はちゃんと仕込まれている。この辺りの抜け目ないサービス精神は、近頃のミステリ畑の作家には不可欠な要素かもしれない。

押さえるべき所はちゃんと押さえている。

本作中にはショートショートといっていい長さのものもある。これが軽快な語りで、実にシビアなオチをつけてくる。切れ味は相当にいい。業物である。思うに、短い話というのは着想と文章力に恵まれなければ、そう書けるものではない。かなりの地力があるに違いない。

玩具箱のようにアイデアが詰まったこの作品は、どこかSFショートショートの巨人、星新一を髣髴させる。どこが似ているというのではない。キレイ事ではない人の性を、絶妙のユーモアで味付けて給仕する。そのウェルメイドな作風に共通性を感じるのかもしれない。

もちろん、ぼくが書店で見かけたデビュー作の表紙に、「ボッコちゃん」の影を見ている可能性は否定できない。けれども、そんな先入観を差し引いても、巧いという評価に大きな修正は必要ないと思う。そもそも面白い短篇をコンスタントに書けるというだけでも貴重な才能だろう。

デビュー作と合わせて『出られない五人』も買おうと思う。

2007年01月24日

村上征勝『シェークスピアは誰ですか? 計量文献学の世界』(文春新書)

books070124.jpg村上征勝『シェークスピアは誰ですか? 計量文献学の世界』を読んだ。

計量文献学とは聞き慣れない学問だ。字面を見ればおおよその見当はつくし、研究対象としてあってもおかしくないとは思う。事実、そう新しい学問というわけでもないらしい。序文に於いて著者は、その歴史の第一歩を1851年だとしている。1.5世紀ほども前の話である。

いずれぼくの知らない学問なんていうのは五万とあるわけで、そうした未知の知を手軽にツマミ食いできることこそ新書の醍醐味だろう。まるで知らない世界の話というのはそれだけで面白い。あまり難解だと腰も引けるけれど、これは実に素朴なアイデアから成っている。

要するにこういうことだ。

文献を単語に分解し計量することで、その文章の特徴を数量的に記述する。そうすることで、例えばある文献の作者を推測したり、成立順を推定したりしようというのである。この本の書名は有名な「シェークスピア別人説」の妥当性を検討する段から取られている。

実際に作者不詳の作品や、偽書の疑いのある文献を分析するシーンなど、まるで推理劇さながらのスリルを感じる。年代を追う毎に分析方法もより高度に、より緻密になっていく。単語の使用率や文の長さなどの単純な計測から、より複雑な分析手法へと発展していくのである。

もちろん、分析学に暗いぼくにはその方法論の有効性や妥当性を推し量ることはできない。クラスター分析だの線型判別関数だのと、聞き慣れない単語もちょこちょこと顔を見せる。正直よく分からない数式だって出てくる。けれどもそんなことはほとんど気にならない。

分からずとも十分にエキサイティングな内容である。

ただ、まだまだ学問として発展途上なせいもあってか、ほとんどの事例について快刀乱麻を断つとはいい難い印象があるのも事実である。確かにそれらしいデータは導かれているのだけれど、どれもこれも決め手に欠ける。すべてが傍証の域を出ていないのである。

その意味で興味深かったのは、古の文献ではなく現代の犯罪に応用された事例である。保険金殺人に関するエピソードで、保険関係の書類、被害者の遺書、匿名の目撃証言などが、かなりの確率で同一人物の手によるものと推定され、実際に犯人の自作自演が後に判明している。

もちろん、捜査の一助とはなれ、証拠にはなり得ないデータではある。けれども、今後この分野になんらかのブレイクスルーがあれば、かなり信憑性の高い分析が可能になることはあり得る。そうなったときのことを考えるとちょっと面白い。

何しろ、文章を残せばたちどころに書き手が判明してしまうのである。ならばまず考えるのは犯行に文章を使わないことである。それでも必要な場合はどうするか。一定の方法で分析可能ということは、裏を返せば結果からオリジナルを模倣することも可能ということである。

そうなると村上春樹が書いた脅迫状やら、よしもとばななが書いた犯行声明文なんてものが機械的に作れる理屈である。つまり、この手の機械的分析が汎用性を持った瞬間、捜査方法としてはほとんど意味をなくしてしまうことになる。皮肉な話である。

あとがきにもある通り、やっぱりこの学問の本義は古典に纏わる謎の解明にこそあるのだろう。なにしろ作者不詳やら成立年代不明の文献には事欠かない。ただ、英語圏で発祥したこの学問は、日本語という複雑な体系の言語の前に、困難な壁にぶち当たっているようだ。

こんなところにも一筋縄でいかない日本語の厚みを感じてしまった。

2007年01月20日

岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』(中公新書)

岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』(中公新書)岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』を読んだ。

この面白さはとても書名からは想像できない。通史をこれほどドラマティックに書けるとは驚きだ。新書というのは、そもそも大衆への知の伝道メディアである。けれども、これほど軽快かつ明快にその役を果たしている本は決して多くないと思う。

まえがきにある通り、これはあくまでも一般的な読者に向けて書かれたひとつの歴史解釈である。著者は個人のフィルターを通して見た音楽史であることに自覚的だ。きっといわゆる専門家から見れば、取りこぼしの多い内容に違いない。そんなことは当然である。

西洋音楽の黎明から停滞あるいは崩壊までのおよそ1000年の歴史を、たったニ百数十ページで語ろうというのだから、これは大幅な取捨が必要なのは誰の目にも明らかだ。時代のエポックとして何を取り上げるか。その選択ひとつとっても主観的たらざるを得ない。

門外漢のぼくにはその史観の正当性を論じることなんてもちろんできない。けれども、ヒストリーでありながら、極めて物語的な起伏を持った本書の語りは稀有のものだろう。1000年のパースペクティブが、読むほどに明確な輪郭をもって眼前に広がっていく。

ぼくはずっと長い間極度の歴史嫌いだった。

その一因は学校における細切れの暗記教育にあったと自分では思っている。あの近視眼的な歴史への接し方が、ぼくに散漫で退屈な印象を植え付けたことは間違いない。どんなジャンルであれ、こんなエキサイティングな通史があり得るなどとは思いもよらなかった。

自分の意見など持ち得ないずぶの素人には、こういう優れて魅力的な概説こそが必要なんだと思う。たとえ専門家の目に大切な何かが足りなく映ったとしても、それはそれで構わない。興味を持てばいずれ辿り着くはずだからである。

この著者の視野の広さ、バランスの良さは際立っている。

西洋音楽を当時の世情の上に置いて語り、音楽が果たした役割、人々が音楽にどう接していたかを明確にしていく。また著者の視線は、同時代の芸術全体にも向けられている。絵画、文学、詩…それらは互いに影響し合い、時代の色をとてもビビッドに伝えている。

そしてまた著者はいわゆる「クラシック」を絶対的なものとして称揚しない。そこにある芸術性だけでなく、大衆性や娯楽性、コンポーザーたちの置かれた立場や台所事情にまで立ち入って各時代の音楽を活写してみせる。そのフラットな姿勢は十分信頼に値する。

知と娯楽の奇蹟的な均衡。

それこそ良質のクラシックに通じる本書の魅力であろう。

2007年01月14日

上甲宣之『地獄のババぬき』(宝島社文庫)

上甲宣之『地獄のババぬき』(宝島社文庫)上甲宣之『地獄のババぬき』を読んだ。

まるで福本伸行の漫画ような小説だ。貶していっているのではない。何しろぼくは福本漫画が好きだ。これほどババぬきをスリリングに書けるなんて並みの感性ではない。もちろん「命がかかっている」からスリリングだとか、そんな表面的な話ではない。

そこそこ長い話の大半を占める、このくだらないゲーム描写が滅法面白いのである。これはもう、感服に値する。ババぬきなんて煮ても焼いても食えそうにないカードゲームが、あたかもメンタルとテクニックを総動員して戦う壮絶なカードバトルのように描かれている。

スリルを担保する絶妙なルールが設定されるあたりも、『賭博黙示録カイジ』を髣髴させる。大袈裟な心理戦、熾烈なイカサマ合戦、機転を利かせた駆引き…どれを取っても、十分にエンターテイメントしている。ただし、かの漫画と違って、こちらは意図したコメディである。

正直にいえば、最初からこの作品を素直に楽しめたわけではない。

何より、悪ノリが過ぎる不細工な文章にはなかなか馴染めなかった。ところが、福本伸行が頭に浮かんだ瞬間、ぼくはすべてを受け入れた。ああ、この不細工な文章は、あの漫画家の凄まじい画風と同じことなんだ、と。この文体だからこそ描ける地平があるに違いない、と。

そこからは本当にもう、一気に読み進むことができた。何しろ立ち止まって味わうような文体ではないし、テンポのいい展開に合わせてスピーディに読み進むには、これが案外向いているのである。要するに、ノリで読むべき本なのである。

テンポが掴めてくると、このチープなノリも薄っぺらなキャラクターも、すべてが計算されているように思えてくるから不思議だ。実はこの作品には、真面目に書けばもの凄く重たいテーマがある。これがなんと障害者とボランティアの問題なのである。

これを24時間テレビ「愛は地球を救う」のパロディをはじめ、謎のボランティア団体や、超人的な身体障害者を登場させて、かなり執拗に描いている。ところが、これがまるで深刻にならない。深刻にはならないのだけれど、いいたいことだけはハッキリいい切っている。

明らかにわざとやっている。

膝つきあわせてはなかなか真面目に聞いてもらえないような面倒な話を、スラップスティックな状況でさらりと主張する。鹿爪らしい顔で正論を打てば人は白けるものである。けれども、そうした正論も自明のこととして飲み込み続けていればいずれ忘れ去られてしまう。

だから、こうした手法でちょっと恥ずかしい正論をぶちまけるというのは、案外有効な手段なのではないだろうか。読者にしても下手に説教されたような不快感を持たずに済む。むしろ、どこかで晴れ晴れとした気持ちにさえなるかもしれない。

まだまだ海のものとも山のものとも知れない新進作家で、手放しで凄いと賞賛するには瑕の多すぎる作風である。にも関わらず、何故か今後を期待せずにはいられない。なんとも不恰好だけれども、不思議なエネルギーを感じる。結局のところ気に入っているということか。

とにかくデビュー作『そのケータイはXX(エクスクロス)で』を読んでみようと思う。

2007年01月11日

恩田陸『MAZE』(双葉文庫)

恩田陸『MAZE』(双葉文庫)恩田陸『MAZE』を読んだ。

著者の作品としては比較的推理色の強く出た作品だと思う。ミステリ的なテーマは人間消失。僻地にある謎の建造物で人が消える。それがいつから存在するのかも、何のための場所なのかも、まったく分からない。ただ、人が消えたという記録や伝承だけが山のようにある。

残された資料、そして実地検分によって人間消失の謎を解き明かす。これが作品の骨子である。ただ、恩田作品であるからには、素直な論理ミステリにはなっていない。印象としては幻想やホラーの色合いが強い。主人公を襲う定番の怪異描写など実に堂に入っている。

各要素だけを取り出してみれば、キャラクターも怪異もクローズドサークルに置かれた場の設定も、特段目新しいものではない。むしろ、使い古された要素ばかりで成り立っているといってもいい。けれども、これはこの著者のいつものやり方なのである。

それが既視感を与えると共に著者独特の郷愁を生んでいる。

幻想ミステリのオチに不条理な要素を残すというのは、割とよくある手法だと思う。本書でもメインとなる謎が解け、関係者たちの思惑が暴露された後も、根幹となる「本物」の不思議だけは解明されない。この謎の残し方が綺麗な余韻に繋がっている。

一方、解き明かされる謎は極めて即物的だ。キーワードは「便乗」ということになるだろうか。いずれにしても、強い幻想性や緻密な推理を期待して読むと思わぬ肩透かしを食らうかもしれない。ただ、この一点でこの作品の評価を下げるのは早計だと思う。

アンフェアとも取られかねない大掛かりな仕掛けは、追求過程に訪れる怪異と精妙に絡み合い現実感を失わせる。また、あまりに形而下的な真実は、割り切れずに残ったファンタジーを効果的に強調してもいる。これが著者の作家性なんだろう。

ロジックを存分に駆使しながらファンタジーを印象付ける。

著作の中では分量的にも内容的にも軽めの作品ながら、この人の個性は十分に感じ取ることができる。読書家に受けるイメージのある著者だけれど、これは普段あまり本を読みつけない人でも気軽に楽しめる作品だと思う。若年層にも向いているかもしれない。

シリーズ化されているようなので、その内に続編も読んでみたい。


【関連リンク】
・恩田陸『クレオパトラの夢』

2007年01月07日

三崎亜記『となり町戦争』(集英社文庫)

三崎亜記『となり町戦争』(集英社文庫)三崎亜記『となり町戦争』を読んだ。

第17回小説すばる新人賞受賞とあるから、これがデビュー作なんだろう。確かに文章がこなれていない印象はある。けれども、そんなことはまるで問題ならない。食い足りないくらいの書きぶりも、この作品の場合決してマイナスではない。適度に想像力を掻き立ててくれる。

いずれ、この着想を得た段階で作品は半ば成功したようなものだ。

主人公は広報紙でとなり町との戦争を知らされる。そこにはなんの感情も込められてはいない。ぼくたちが想像するようなナショナリズムも精神的高揚も何もない。そして、戦争が始まっても日常生活に顕著な影響は何ひとつ見られない。得られるのは戦績ともいうべき情報のみである。

一見、ファンタジックな設定に見える。けれども、現実の戦争とここに描かれる戦争との差異を指摘することは、案外難しい。自ら兵器を手に戦いでもしない限り、戦争というのは所詮溢れる情報のひとつに過ぎない。いつ、どこの兵がどこへいったか、どれほどの死傷者が出たか。それだけである。

作中で、戦争の主体は町である。公共事業としてやっているのである。要するに利益のための戦争であり、互いの被害によって自治体を弱体化するのは本意ではない。そこで、町同士の綿密な下準備と厳格なルールの下で戦争は遂行される。戦争がなかなか顕在化しないのはそのためである。

著者は公務員らしく、馬鹿馬鹿しいようなお役所仕事的戦争を、意外なリアリティで描いてみせる。それは真剣な分だけ滑稽だ。不謹慎ないい方になるけれど、実は現実の戦争だって似たようなものだろうと思う。ただ国家や人種を町という単位にまで矮小化すればこうなるというだけのことだ。

主人公は物語序盤で徴兵される。

民主的お役所仕事だから、もちろん断ることもできる。それでもなお、辞令を受ける主人公の心境は不透明だ。何を思って敢えて動員されたのか。理由は最後まで判然としない。熱意を持っているわけでも、醒めているわけでもない。この辺りの半端さが、今の空気に合っている気はする。

もうひとつ分からないのは、ヒロインともいうべき戦争担当の役人である。彼女はどちらかといえば、妄想寄りの性質を持って描かれる。謎のエージェントのようなアクションをこなすばかりか、任務として夜のお供までやってのける。フェミニストなら火砕流を噴くような、実に都合の良い女である。

そこに個の観念はない。

ラスト近く、彼女は一瞬、個としての自分を表明したかに見える。けれども、そこに有意な何かを見い出すことはできない。意図的にそうしているんだろう。むしろ、主人公が望むことでそう見えただけという方がしっくりくる。切ない恋みたいな甘い感傷はそこにはない。

そんな不毛なロマンスと平行して、戦争の方もラストに向けて一応の盛り上がりを見せる。そこに関わる人間たちは、誰ひとり総体としての戦争なんて意識していない。それでも淡々と死傷者の数は増え、主人公も今まで見えなかった現実の戦争と無関係ではいられなくなっていく。

それでも、戦争は終わる。それは契機があって終わるのではない。事業計画として終戦日は最初から決まっているのである。だから終わる。そのとき、この物語は何を語ろうとするのか。別に答えを欲したわけではない。ただ、類稀といっていい着想に見合うだけの何かを期待しただけのことである。

この作品の瑕をひとつ挙げるとするなら、このラストの弱さだろうか。

ただし、それを補って余りある、魅力的なデビュー作である。

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管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

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