村上征勝『シェークスピアは誰ですか? 計量文献学の世界』(文春新書)

books070124.jpg村上征勝『シェークスピアは誰ですか? 計量文献学の世界』を読んだ。

計量文献学とは聞き慣れない学問だ。字面を見ればおおよその見当はつくし、研究対象としてあってもおかしくないとは思う。事実、そう新しい学問というわけでもないらしい。序文に於いて著者は、その歴史の第一歩を1851年だとしている。1.5世紀ほども前の話である。

いずれぼくの知らない学問なんていうのは五万とあるわけで、そうした未知の知を手軽にツマミ食いできることこそ新書の醍醐味だろう。まるで知らない世界の話というのはそれだけで面白い。あまり難解だと腰も引けるけれど、これは実に素朴なアイデアから成っている。

要するにこういうことだ。

文献を単語に分解し計量することで、その文章の特徴を数量的に記述する。そうすることで、例えばある文献の作者を推測したり、成立順を推定したりしようというのである。この本の書名は有名な「シェークスピア別人説」の妥当性を検討する段から取られている。

実際に作者不詳の作品や、偽書の疑いのある文献を分析するシーンなど、まるで推理劇さながらのスリルを感じる。年代を追う毎に分析方法もより高度に、より緻密になっていく。単語の使用率や文の長さなどの単純な計測から、より複雑な分析手法へと発展していくのである。

もちろん、分析学に暗いぼくにはその方法論の有効性や妥当性を推し量ることはできない。クラスター分析だの線型判別関数だのと、聞き慣れない単語もちょこちょこと顔を見せる。正直よく分からない数式だって出てくる。けれどもそんなことはほとんど気にならない。

分からずとも十分にエキサイティングな内容である。

ただ、まだまだ学問として発展途上なせいもあってか、ほとんどの事例について快刀乱麻を断つとはいい難い印象があるのも事実である。確かにそれらしいデータは導かれているのだけれど、どれもこれも決め手に欠ける。すべてが傍証の域を出ていないのである。

その意味で興味深かったのは、古の文献ではなく現代の犯罪に応用された事例である。保険金殺人に関するエピソードで、保険関係の書類、被害者の遺書、匿名の目撃証言などが、かなりの確率で同一人物の手によるものと推定され、実際に犯人の自作自演が後に判明している。

もちろん、捜査の一助とはなれ、証拠にはなり得ないデータではある。けれども、今後この分野になんらかのブレイクスルーがあれば、かなり信憑性の高い分析が可能になることはあり得る。そうなったときのことを考えるとちょっと面白い。

何しろ、文章を残せばたちどころに書き手が判明してしまうのである。ならばまず考えるのは犯行に文章を使わないことである。それでも必要な場合はどうするか。一定の方法で分析可能ということは、裏を返せば結果からオリジナルを模倣することも可能ということである。

そうなると村上春樹が書いた脅迫状やら、よしもとばななが書いた犯行声明文なんてものが機械的に作れる理屈である。つまり、この手の機械的分析が汎用性を持った瞬間、捜査方法としてはほとんど意味をなくしてしまうことになる。皮肉な話である。

あとがきにもある通り、やっぱりこの学問の本義は古典に纏わる謎の解明にこそあるのだろう。なにしろ作者不詳やら成立年代不明の文献には事欠かない。ただ、英語圏で発祥したこの学問は、日本語という複雑な体系の言語の前に、困難な壁にぶち当たっているようだ。

こんなところにも一筋縄でいかない日本語の厚みを感じてしまった。

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