小峰元『アルキメデスは手を汚さない』(講談社文庫)

小峰元『アルキメデスは手を汚さない』(講談社文庫)小峰元『アルキメデスは手を汚さない』を読んだ。

第19回江戸川乱歩賞受賞作品だというから結構古い。調べてみると1973年の受賞である。これが新刊書店に並んでいた。今をトキメク人気作家、東野圭吾の推薦文を纏っての復刊である。装丁も多分に今風で、平台にのっていれば手に取られる可能性は低くないだろう。

乱歩賞というのは、エンターテイメント面でのハードルがとても高い賞だと思う。だから、受賞作はリーダビリティの高いものが多い。読書家ではなかった東野圭吾が、高校のとき初めてちゃんと最期まで読んだ小説だったというのも分かる気がする。

今でこそ、学園モノのミステリというのは、ひとつの定番である。どうやら、その祖形がこの作品辺りにあるらしい。若者の生態やら青春やら世代間の隔絶やらをミステリの中でイキイキと描いてみせる。当時としては、エポックメイキングだったようだ。

ここに描かれる高校生に今の感覚で共感するのは難しいかもしれない。その意味で尻の据わりは悪い。彼らが当時の空気を上手く体現し得ているのかどうかは、ぼくには分からない。ただ、大人との関係性の断絶や不遜で浅薄な子供の理論は、今もそう変わらないものだと思う。

変わったと思うのは、まだ理屈が彼らを動員可能だったという事実である。彼らには同志という形での価値観の共有がいまだ可能だった。たとえそれが幻想だったとしても、少なくとも主観的には信じられていたらしい。これはぼくたちの世代にはなかった感覚だと思う。

だから、ぼくたちにとっていわゆる全共闘の歴史が共感不可能であるのと同じ理由で、彼らの行動原理には共感できない。もちろん、共感不可能であることは、即作品を愉しめないことに繋がるわけではない。むしろ、そうした幻想の共闘は題材として魅力的ですらある。

実のところ、全共闘が統制を欠いた有象無象でしかなかったように、主人公たちとて一枚岩ではあり得ない。それぞれがそれぞれの思惑で集まり、行動しているに過ぎない。にも関わらず、彼らには大義名分がある。そこに時代性を見てしまうのである。

実のところ、ミステリとしての新しさは当時としてもすでになかったようだし、順当に明らかになっていく真実に意外性はない。醍醐味はむしろ、捜査する側の大人が絶望的なディスコミュニケーションの中で、理解できないまま真実に歩み寄っていく過程の方だろう。

ここに、いまだ古びない面白さがある。

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