« 2007年06月 | メイン | 2007年08月 »

2007年07月16日

上橋菜穂子『闇の守り人』(新潮文庫)

上橋菜穂子『闇の守り人』(新潮文庫)上橋菜穂子『闇の守り人』を読んだ。

『精霊の守り人』よりずっといい。世評の高さに目が厳しくなっていたのか、前作は面白いながらも冗長な印象が少なからずあった。どうも説明しすぎる。子供向きといえばそうなのだろうと納得して読み終えた。ただ、そこに書かれなかった物語の魅力があまりに大きかった。だから、好きな文章ではなかったけれど迷わずこの続編を手に取った。

一読、ずいぶんと文章がダイエットされている。書きすぎに思えた前作に比べて格段に無駄がない。洗練されてきている。ともなって、物語のテンポも良くなっている。読み口が心地好い。そもそも表現が明快で絵が浮かびやすい筆である。物語の運びも平明で分かりやすい。であれば、手を取り足を取るように説明などせずとも文意は十分に伝わる。

タイトルに闇とつくだけあって、前作にも増して世界の苦い側面がクローズアップされている。山岳地帯の地下洞穴というこれまた分かりやすいメタファーで、人の心の暗い部分が実に効果的に描かれる。今作では明快な悪役が出てくるのだけれど、闇を抱えているのはもちろん彼だけではない。つまり、闇自体を悪として描いてはいないのである。

舞台は前作のラストを引き継ぎ、主人公バルサの故郷となっている。シリーズものではあるけれど、バルサ以外のキャラクターでは養父のジグロくらいしか登場しない。その意味では完全に独立した話である。ただし、読むなら前作を読んでからにすべきだろう。バルサの過去を語る本作は、バルサの今をできるだけ多く知って読むべき物語だからである。

自らの過去を清算する。児童書ではどうか知らないけれど、テーマとしては相当に普遍的だ。直截にいってよくある話である。とはいえ、これは安易な癒しの物語ではない。何しろ、清算すべき過去はバルサの凄絶な記憶すら上回る人為的な闇を抱えている。決着をつけようと対面した真実は、予想を超えて非情なものだったのである。

そして、過去は現在に繋がっている。

バルサの悲劇は進行形の悲劇に直結している。故郷カンバルが抱える問題と、バルサが抱える問題がダイレクトにつながる。巧い。自らの重石を除くために、彼女は国を救わなければならなくなる。洞穴での対決に繋がる伏線はあまりに強固である。ある程度予測可能とはいえ、問題の守り人の正体も含めてこれほどずしりと腑に落ちる話はない。

対決は決して復讐であってはならない。人の心を闇に縛り付けるのは実は人の悪意などではない。だから、憎むべき敵を葬ることに意味はないのである。そもそもバルサを陥れた敵はすでに失われている。増幅する悲劇の種をバラ播くだけバラ播いて疾うに死んでいる。種は育ち、新たな悲劇を生む。バルサはそれを葬りも救いもしない。否、できない。

結局のところ、人が本当に関われる他人というのは限りがあるということだろう。闇から開放される魂があれば、闇に閉ざされる魂もある。そこに大きな差異などはない。もちろん物語上、邪悪は闇へ、善は光へというお約束は守られている。けれども、それはあくまでも表層的な話である。そこから先をどう受け止めるかは読み手の資質による。

2作目にしてこのクオリティ。

なるほど、評判になるわけである。

2007年07月12日

舞城王太郎『スクールアタック・シンドローム』(新潮文庫)

舞城王太郎『スクールアタック・シンドローム』(新潮文庫)舞城王太郎『スクールアタック・シンドローム』を読んだ。

何故か分冊にされてしまった単行本『みんな元気。』の2冊目だ。ただ分冊されただけではない。「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」という1篇が書き下ろされている。これがすこぶる面白い。単行本を持っている人も買わないわけにいかない。実にファン泣かせな仕様である。ちなみにぼくは最初から文庫派という軟派読者である。

この作家の本を追いかける理由は、およそその文体にある。少なくともぼくの場合はそうだ。それはメフィスト賞でデビューした処女作からすでに完成されていた。文章それ自体が無類のエンターテイメントだった。だから、ブンガク方面からラブコールを受けての移住劇はいささか意外だった。エンタメの極北にブンガクが色目を使うのか、と。

これで著者が純文学の人になったのかといえば、これはたぶんノーである。そもそもデビューから今まで、舞城節で唄われる物語の主旋律はほとんど変わっていない。家族やそれに準ずる人間関係と愛について。こればかり書いている。それがミステリの皿に盛られたのが初期作品群で、丁寧な構成も手伝ってかなりの中毒性と破壊力を持っていた。

収録作の1篇目、表題作の「スクールアタック・シンドローム」はそうした初期ミステリ作品に近い匂いを持っている。破天荒な父子関係を描きつつ、殺人事件をダシに息子の真意という本筋の謎を追う構成は、あまりにも正しくエンターテイメントしている。思い切りぶっ飛んだ舞城作品が好きな向きには、少々正統な父子物語にすぎるかもしれない。

そもそも家族みたいなものは純文学においても主要なテーマのひとつだろう。であれば、この著者が同じ調子で純文学を書いても、いっかな不思議ではない。それまで舞城作品をミステリたらしめていた理に落ちる構成やメタミステリ的なガジェットが実に潔く捨てられる。以降、著者の妄想の翼は、時折理解不能なスピードで飛翔するようになる。

変化はまだある。メタミステリ的言及が鳴りを潜めた代わりに、小説一般について言及するようになったのである。今作でいえば2篇目の「我が家のトトロ」に<面白い小説>を書くことを生き甲斐にする濱田淳というキャラクターがでてくる。まあ、作中で彼が愛媛川十三という筆名でデビューしているのは、一種のファンサービスだろう。

今作ではそうでもないけれど、この手のキャラクターはときに著者の本音らしきものをあまりにストレートに代弁していたり、自作の狙いをあえて過剰に説明していたりする。えらく露悪的にも思えるけれど、ルール無用の舞城節であればこそ許される表現だろう。それをいっちゃあお終いだろうという台詞がこの著者に限っては瑕にならないのである。

そして書下ろしの「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」である。

これはもう完全に壊れ切った家族がキーになっていて、表面的には恐ろしく救いがない。不死の少女を巡るボーイ・ミーツ・ガールの物語。主人公の少年は傍観者から突如当事者の役をふられる。それも、わかりやすいヒーロー役である。虐待されるためだけに生きているような少女と、それを救うために闘う少年。ここまでは至極単純な構図である。

物語的クライマックスは、少年と少女の叔父との対決である。ボーイ・ミーツ・ガールの定石通り、少年は少女を救えない。何故なら、少女は常に少年の先を歩いているからである。語られるエピソードの残虐性を別にすれば、怖いくらいにオーソドックスな展開である。こんな非道な物語にきっちり感傷的なラストまで用意されているのだから恐ろしい。

少女は叔父に虐待され続け、殺され続け、蘇り続ける。そして、この悲劇のヒロインはどうもその状態のままで安定しているらしいことが分かってくる。この事実が主人公の少年の劇的な体験を平板化してしまう。少年は自然、ヒーローの席を離れ、傍観者に戻る。表面的な繋がりは切れ、内面的な、もしかすると一方的な繋がりだけが残される。

なんて残酷でセンチメンタルな物語だろう。

この1篇のためだけでもこの文庫版は買う価値があると思う。

2007年07月09日

上橋菜穂子『精霊の守り人』(新潮文庫)

books070709.jpg上橋菜穂子『精霊の守り人』を読んだ。

何かと話題の本である。元々児童書として出版されたものが、大人向けに新装される。あさのあつこ『バッテリー』なんかと同じようなパターンである。あちらは実写映画化されていたけれど、こちらは現在アニメが放映されている。文庫の解説は本好きが好きな作家の筆頭恩田陸である。店頭POPにも引用されているから見た人も多いかもしれない。

曰く、「下品な言い方だが、『モノが違う』」。

これだけでも、常日頃から新刊書店を物色しているようなぼくのような人間が釣れるのはほとんど必然といっていい。それでもぼくが文庫版発売から3ヶ月以上も放置していたのは、あまりに万全なセールスプロモーションに、抵抗もなく屈するのが悔しかったからである。とはいえ、結局、買っているわけだからこれは無駄な抵抗以外の何物でもない。

実をいうときっかけはテレビだった。アニメは観ていない。ただ、アニメを作っている監督のインタビューを見た。凄いと思った。あれだけアニメで掘り下げたくなる素材となれば、原作の持つポテンシャルは相当なものなんだろうと、強く興味を引かれた。ともあれ、読み始めればもう思う壺に嵌まるよりない。今更何をかいわんやというできである。

散々いわれていることだけれど、著者は文化人類学の研究者である。これはファンタジーの創出者としてあまりに重要な属性である。いわゆるハイファンタジーというのは、世界をいかに創造するかが肝となる。そこに説得力と魅力がなければ、そもそも成立し得ないジャンルである。相当にハードルが高い。ここに研究者としての知が生きている。

単にキャラクターや国の名前を考えればそれでいいというものではない。世界や国の成り立ち、歴史、地形、文化、言葉から植生まで、ありとあらゆる事象を魅力的な空想と共感可能な現実の狭間に成立させる。これだけでも気の遠くなるような話である。けれども、ファンタジーは世界だけで成り立つものではない。そこには物語が必要なのである。

そして、この作品の魅力の核は、やっぱりこの物語にあるのだと思う。

用意された世界は厳しい。「歴史」が常に「勝者の歴史」であるという相当にシビアな現実を、著者は児童文学の世界で容赦なく暴き出そうとする。チャグムという少年を通して、そうした欺瞞や現実の厳しさを、懇切丁寧に気付かせていくのである。こうした視点を持つことは、実は大人にだって難しい。それを敢えてやっているのである。

もちろん、厳しさを伝えるだけではない。時に理不尽で残酷な世界で、信じるべきものは何か。尊ぶべきものは何か。そうした本質的なことを、著者は欺瞞のない語りで真摯に描こうとする。その象徴が主人公バルサの存在である。これはチャグムを軸としたビルドゥングスロマンであると同時に、バルサが生きる意味を獲得していくドラマでもある。

大人の鑑賞に耐える要素としては多分後者の方が大きい。

といっても、簡単にそんなものが見付かるはずはないのだし、簡潔明瞭な答えなんてものもない。終章に到ってもバルサはまだ迷いの中にいる。それでも、チャグムとの交流を通して死んだ養父ジグロのことを少しずつ理解し、過酷な人生の中で欠け落ちてしまったものをひとつひとつ拾い上げていく。児童書とは思えない重いキャラクターである。

この本は、バルサが故郷へ帰るところで終わっている。チャグムを巡る話としては完結しているけれど、続篇が書かれるのはほとんど必然だったといっていい。用意された世界はバルサの過去、ジグロの過去、カンバル王国の現在、新ヨゴ皇国の未来と、物語られるべき挿話に事欠かない。結局は10作を数えるシリーズ作品となっている。

実はもう第2作『闇の守り人』は購入済だったりする。1作目を買った翌日にはもう買ってしまっていた。ただ、文庫で買い始めてしまった以上、ここから先は出版ペースに合わせて読み進むよりない。じれったいような楽しみなような複雑な気分である。ちなみに1作目より2作目の方が文章がこなれてきている印象がある。巧くなっている。

1作目は児童書というターゲットを意識してなのか、どうにも説明過多なところがあった。伏線の回収があまりに明示的だったり、いわずもがなな一文が加えられたりして、大人読者には蛇足に見えるような表現がままあったのである。読みかけの第2作では、その手の冗長さがほとんど感じられない。より端的で抑制のきいた表現になっている。

ますますこの先が楽しみである。

2007年07月06日

森見登美彦『太陽の塔』(新潮文庫)

森見登美彦『太陽の塔』(新潮文庫)森見登美彦『太陽の塔』を読んだ。

タイトルやら帯の文面やらから想像していたものとはまるで違った。まったくきれいに騙された。いい意味で。ずいぶん前に『電波男』というオタクの生態と思考を余すところなく流麗かつ赤裸々に綴った、真性オタクの手になる評論本を読んだ。当時ぼくは著者本田透のことを思って読後しばし呆然と宙を睨んだものである。

何故か、その本田氏を思い出してしまった。

この作品の主人公はいわゆるオタクではない。いや、ないとはいい切れないのかもしれないけれど、少なくともそういう描写はない。ただ、ヒキコモリの気は大いにあり、妄想力逞しいことにかけては人後に落ちない。そういうタイプの大学生である。そして、世の恋愛至上主義的風潮に激しく憤慨している。これだ。これが電波男臭の源である。

時は冬。クリスマスムードに浮かれた京都の街で、主人公とその戦友ともいうべき3人の冴えない男連中は、男汁と妄想に浸かり切った果てしなく不毛な毎日を送っている。この辺りでもうシンパシーを感じてしまうぼくなどは、所詮バラ色の学生生活を知らぬ朴念仁なのである。主人公が屁理屈と妄想で重武装していく様は涙なしには読み通せない。

けれども、彼は失恋する。つまり、この物語が始まる少し前に、彼は忌避すべき恋愛状態に陥り、あまつさえ可愛い彼女と浮ついた逢瀬を重ねているのである。この辺りが一般的なキモオタと一線を画すところである。そして、袖にされた瞬間から、彼の新たな心の旅が始まる。男汁に塗れ恋愛を否定しながら、研究と称して元カノを付け回す。

今時ストーカーかよ、と思った人は慌ててはいけない。確かに上っ面だけを眺めれば、失恋から立ち直れずストーキング行為に及び、そんな自分を妄想と屁理屈で正当化し続ける哀れな京大生のお話ということになる。事実、そうでないとはいい切れない。それでも主人公が憎めないのは、彼の思考回路に陰湿さが感じられないせいだろう。

何より、この主人公を含む男汁衆四天王は、本当に冴えない秀才たちなのだけれど、滑稽ではあっても決して陰険ではなく、哀れではあっても湿っぽくはならないのである。独白調で綴られる文章は失笑、苦笑も含めてあらゆる笑いの宝庫であり、繰り出されるボキャブラリーの豊富さがまた独特のユーモアに一役も二役も買っている。

通勤電車で何度声を上げそうになったか分からない。実にキケンな小説である。

こんな内容の小説が、何故「日本ファンタジーノベル大賞」受賞作なのか。理解し難いと思う向きもあろう。ぼくだって正直そう思う。要するに、この手のジャンル分け自体がナンセンスなのだといってしまえばそれまでだろう。けれども、「京都 + 恋愛 + 妄想」で紡がれる物語はやっぱり多分にファンタジックなのである。

妄想は現実の中に巧みに滑り込み、叡山電車はあたかも銀河鉄道のごとく主人公らを異世界へと連れて行く。クリスマスムードはイヴに向かって隆盛を極め、主人公たちの屈折も歩を合わせるように臨界に向けて疾走を始める。満身創痍の青年たちはそれぞれの屈託を抱えたまま若き恋人たちの街、イヴの四条河原町へと集結する。

このクライマックスをファンタジーといわずなんというか。

確かに人を選ぶ作風かもしれない。笑えない人もいるだろう。けれども、最初の1ページでくすりときたなら買いである。こんなくだらない平々凡々たる青春群像をこれほど面白おかしく調理できる作家は他にいない。滅茶苦茶しょっぱいホットケーキくらいのインパクトはある。ただ、最初の1ページで何も感じなかった人には残念としかいいようがない。

個人的には新たに追いかける作家が増えた。大変喜ばしい。

2007年07月04日

星新一『地球から来た男』(角川文庫)

星新一『地球から来た男』(角川文庫)星新一『地球から来た男』を読んだ。

角川からこれの単行本が出たのは1981年、文庫化されたのは1983年のことである。著者の作品が初めて本になったのは1961年、これより20年も前のことだからこれは比較的後年の作品である。ちなみにデビュー単行本の書名は『人造美人』、後の文庫化で『ボッコちゃん』と改題されている。初手からいきなりの大傑作である。神様の神様たる所以だろう。

26年も前の本が、まだこうして新装版となって発売される。そんな作家はそういない。しかも、いつ読んでも決して古びない。それは単に発想力の問題ではない。著者は作中から時代性を排除するため、あえて固有名詞や具体的な数字を描き込まない。寓話性が高いのもこのためだろう。お陰で時代を超えて世界中で愛読されることに成功している。

この本には17編のショートストーリーが収録されている。いつもながらシニカルなものやメランコリックなものが多い。それはどこか普遍的な人の感情に触れていて、心に小さな掻き傷を残す。たとえば表題作の男の哀しみは、生きていく中で多くの人が感じるだろう漠とした孤独と同根の哀しみである。ただの妄想と笑い飛ばすことはできない。

また「夜の迷路」は現代版「牡丹燈篭」のような話だけれど、幽霊譚というよりはひとりの青年が心の孤独を埋めようとする話になっているし、「あと五十日」は死を覚悟するよりも生きる覚悟をする方が大変だと思わせるような話である。「向上」など『DEATH NOTE』のキラのような、一方的な正義の暴走をさりげなく描いていてドキッとさせられる。

著者のシニカルな視線は富や権力に対してより痛烈だ。

「もてなし」でブルギさんという不思議な地位を得た男が、最後に支払わされる代償はあまりに大きい。「住む人」は富も名声も手にした老人が囚人のような暮らしを余儀なくされる話だし、「はやる店」はハッキリと富の凋落を予言して終わる。「ゲーム」ではうまくやった友人を羨んで二匹目の泥鰌を狙った男が手痛すぎるしっぺ返しを食らう。

この手の話はたとえば藤子不二夫Aの『笑ゥせぇるすまん』なんかと近しい。星作品は一歩引いた冷徹な視線と品のある演出のため、あの漫画ほどに過剰なブラックユーモアを押し付けることはない。けれども、物語の性質はとてもよく似ている。たとえ主人公に同情の余地があったとしても、結果として欲望に溺れてしまったなら容赦はしない。

こうした非情さは信用できる。おためごかしは効かない。

そんな中に時折心に沁みる話や、妙に考えさせられる話が混じっていたりもする。「包み」という画家の話なんかは、非の打ち所のない良い話である。こんな話ばかりだときっと食傷するのだろうけれど、こうして質の高い幸福の寓話が思い出したように混じっている。そこが好い。「疑問」なんかもずいぶんとロマンティックなラストである。

また「戦士」では安楽死という実にデリケートな問題を扱っている。一見荒唐無稽な展開から一転、すこぶる現実的で普遍的な問題を突き付けてくる。グっと踏み止まって考えを巡らせれば巡らせるほど、この不謹慎とも思える話が否定できなくなっていく。ショートショートにこれだけの題材を難なく盛り込んで見せる手腕はほとんど神域である。

久々に読んで改めて思う。星新一はやっぱり凄い。

これほどハズレがなく多作な作家など、ちょっと他にいるとは思えない。

スポンサードリンク

管理人について

名前:りりこ [ lylyco ]

大阪市内で働く食生活の貧しい会社員です。他人の気持ちがわかりません。思いやりが足りぬとよくいわれます。そういう人のようです。

人気ブログランキング