舞城王太郎『スクールアタック・シンドローム』(新潮文庫)

舞城王太郎『スクールアタック・シンドローム』(新潮文庫)舞城王太郎『スクールアタック・シンドローム』を読んだ。

何故か分冊にされてしまった単行本『みんな元気。』の2冊目だ。ただ分冊されただけではない。「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」という1篇が書き下ろされている。これがすこぶる面白い。単行本を持っている人も買わないわけにいかない。実にファン泣かせな仕様である。ちなみにぼくは最初から文庫派という軟派読者である。

この作家の本を追いかける理由は、およそその文体にある。少なくともぼくの場合はそうだ。それはメフィスト賞でデビューした処女作からすでに完成されていた。文章それ自体が無類のエンターテイメントだった。だから、ブンガク方面からラブコールを受けての移住劇はいささか意外だった。エンタメの極北にブンガクが色目を使うのか、と。

これで著者が純文学の人になったのかといえば、これはたぶんノーである。そもそもデビューから今まで、舞城節で唄われる物語の主旋律はほとんど変わっていない。家族やそれに準ずる人間関係と愛について。こればかり書いている。それがミステリの皿に盛られたのが初期作品群で、丁寧な構成も手伝ってかなりの中毒性と破壊力を持っていた。

収録作の1篇目、表題作の「スクールアタック・シンドローム」はそうした初期ミステリ作品に近い匂いを持っている。破天荒な父子関係を描きつつ、殺人事件をダシに息子の真意という本筋の謎を追う構成は、あまりにも正しくエンターテイメントしている。思い切りぶっ飛んだ舞城作品が好きな向きには、少々正統な父子物語にすぎるかもしれない。

そもそも家族みたいなものは純文学においても主要なテーマのひとつだろう。であれば、この著者が同じ調子で純文学を書いても、いっかな不思議ではない。それまで舞城作品をミステリたらしめていた理に落ちる構成やメタミステリ的なガジェットが実に潔く捨てられる。以降、著者の妄想の翼は、時折理解不能なスピードで飛翔するようになる。

変化はまだある。メタミステリ的言及が鳴りを潜めた代わりに、小説一般について言及するようになったのである。今作でいえば2篇目の「我が家のトトロ」に<面白い小説>を書くことを生き甲斐にする濱田淳というキャラクターがでてくる。まあ、作中で彼が愛媛川十三という筆名でデビューしているのは、一種のファンサービスだろう。

今作ではそうでもないけれど、この手のキャラクターはときに著者の本音らしきものをあまりにストレートに代弁していたり、自作の狙いをあえて過剰に説明していたりする。えらく露悪的にも思えるけれど、ルール無用の舞城節であればこそ許される表現だろう。それをいっちゃあお終いだろうという台詞がこの著者に限っては瑕にならないのである。

そして書下ろしの「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」である。

これはもう完全に壊れ切った家族がキーになっていて、表面的には恐ろしく救いがない。不死の少女を巡るボーイ・ミーツ・ガールの物語。主人公の少年は傍観者から突如当事者の役をふられる。それも、わかりやすいヒーロー役である。虐待されるためだけに生きているような少女と、それを救うために闘う少年。ここまでは至極単純な構図である。

物語的クライマックスは、少年と少女の叔父との対決である。ボーイ・ミーツ・ガールの定石通り、少年は少女を救えない。何故なら、少女は常に少年の先を歩いているからである。語られるエピソードの残虐性を別にすれば、怖いくらいにオーソドックスな展開である。こんな非道な物語にきっちり感傷的なラストまで用意されているのだから恐ろしい。

少女は叔父に虐待され続け、殺され続け、蘇り続ける。そして、この悲劇のヒロインはどうもその状態のままで安定しているらしいことが分かってくる。この事実が主人公の少年の劇的な体験を平板化してしまう。少年は自然、ヒーローの席を離れ、傍観者に戻る。表面的な繋がりは切れ、内面的な、もしかすると一方的な繋がりだけが残される。

なんて残酷でセンチメンタルな物語だろう。

この1篇のためだけでもこの文庫版は買う価値があると思う。

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